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第二章
郁子の新しいお友達
しおりを挟む二人っきりで話したいと郁子と菫がわざわざ庭に降りたというのに、結局男達は紅茶を一杯飲み干すのも待てなかったらしい。
いや、ルータスはのほほんとついて来ただけなので、待てなかったのはヴィオラントのようだ。
椅子は元から四脚用意されていたので、当然のように二人も加わってお茶会が再開された。
ルータスの「恋人じゃない」宣言による誤解は解け、郁子の心は随分と浮上したが、それとともに抱いた懸念はまだ払拭できていなかった。
菫とヴィオラントの関係についてだ。
弱冠十六歳の菫が妊婦であるとコンラートの王城で聞かされた時も驚いたが、こうして実際対面した彼女は年齢よりもさらに幼く見える。
郁子はそんな愛らしい少女を娶った男を前にし、菫と同郷同性の年長者としては一言もの申さずにはいられなかった。
「菫ちゃんはまだ子供でしょう。あなたは大人なんだから、もう少し理性的な付き合いができたんじゃないんですか」
何も知らない無垢な少女を、年齢も社会的地位も遥か上の男が好き勝手するのは、女としては許せない。
どうせ、この大きな屋敷に幾人も愛人を住まわせているのだろうと、郁子は勝手に思い込んで腹を立てていた。
そんな彼女にテーブル越しに睨まれたヴィオラントは、ポットに茶葉を入れる菫を見守っていた瞳を細めて郁子へと移した。
「理性的な付き合いとは、例えば?」
「た、たとえば……手を出すのは我慢するとか、せめてちゃんと避妊するとか……」
同じ紫色をしているが、菫とヴィオラントの瞳は明らかに温度差がある。
郁子の言葉に、ヴィオラントはそれに明らかな不機嫌さを乗せ、彼女を見据えて言った。
「私がどれほどこの娘に恋い焦がれ、どれほど必死に望んだかも知らぬくせに、えらく簡単に言ってくれるな」
「そんなに大事だというのなら、菫ちゃんの成長を待ってあげられたんじゃないんですか。他で、いくらでも発散できたでしょう」
「……他?」
その瞬間――周囲の空気が凍り付いた。
「他とは何だ? まるで、私がスミレ以外に女を囲っているような言い方だな」
「ち、違うんですか?」
郁子は気丈に言葉を返しながら、さすがに自分は余計な口出しをしてしまったのではないかと思い始めていた。
ヴィオラントは完全に表情を消し去り、触れれば切れそうな鋭い瞳で郁子を見据えながら、ポットに湯を入れて抽出待ちしていた菫を引き寄せ、己の膝に抱き上げた。
「そなた、私に喧嘩を売りに遥々コンラートからやってきたのか?」
「そ、そそそんなつもりはないですけど……」
郁子は、どうやら致命的な失言をしてしまったようだ。
壮絶な美貌が発する不機嫌なオーラは、心臓に悪い。
今まで郁子が一番肝を冷やしたのは、仕事をミスして社内一厳しいと有名な部長に雷を落とされたことだったが、ヴィオラントの絶対零度の視線を前にすると、あんなの静電気みたいなもんだったと思える。
周囲に満ちた凄まじい怒気に怯え、郁子は思わず隣に座ったルータスの服の袖を掴んだ。
ただし、当の彼は相変わらず張り詰めた場の空気も気にかけず、のん気にお茶を啜っている。
代わりに、菫がヴィオラントに紅茶のカップを差し出しながら擁護してくれた。
「ヴィー、怒っちゃダメ。いくこさんは、私のこと心配してくれてたんだよ」
「無用の心配――いや、むしろひどい侮辱だ。私が、そなた以外の女を側に置いているなどと……」
ヴィオラントは受け取ったカップには口を付けずにテーブルに置くと、抱き上げた少女の黒髪に唇を落としながら、ひどく苛立ったため息をついた。
菫は、腹に回った彼の腕を宥めるように撫でると、テーブルの向こうで蒼白になっている郁子に微笑んだ。
「いくこさん、心配してくれてありがとね。でも、大丈夫だよ。私、今とても幸せだから」
「菫ちゃん……」
「私、自分で決めてヴィーの奥さんになったの。ヴィーの全部を信じているし、この人と一緒に居れて本当に幸せだから」
それは、ただただ無邪気なだけ笑顔ではなかった。
あどけない少女の顔は、その時はとても大人びて見えた。
菫は郁子が案じていたように、年の離れた男にいいように言い包められて、彼に囲われたわけではないようだ。
彼女なりに様々な覚悟と、そしてヴィオラントへの深い愛情を持って、今ここにこうしてあるのだと分かった。
何にも憚らず、好きな相手へと全身を預けられるのは、若さゆえの特権かもしれない。
素直に真っ直ぐに愛情を表すことができる菫が、郁子は少し羨ましい。
「スミレ」
そして、幸せだと言った少女の何倍もの幸福と愛おしさを、彼女を妻にした男の瞳が訴えていた。
その瞳が嘘だとは、男性不信気味の郁子にもさすがに思えなかった。
とたんに、出会って間もない相手に打つけた言葉が、自分を今まで振り回してきた男達への八つ当たりを含んでいたことに気づく。
ふわふわとしていてどこか無心なルータスとは異なり、世渡りに優れ洗練された雰囲気のヴィオラントは、きっと女の扱いにも慣れているに違いない。
そんな彼に、郁子はかつて自分を都合良く扱った恋人達や、数多の女の上を渡り歩いた父親を重ねて敵視していたのだ。
相手のことをよく知りもせずに、なんて失礼なことを言ってしまったのだろうと、郁子はひどく自分を恥じる。
そんな彼女の様子に何を思ったのか、ルータスはカップを離して口を開いた。
「そもそも、ヴィオラントが女をたくさん囲っていたのは、スミレに出会う前のことだからな」
「……」
その、擁護するようでいて微妙に足を引っ張るような言葉に、ヴィオラントは迷惑そうにかすかに眉を潜め、その腕の中では菫が呆れたようなため息をつく。
「ルータスって、ほんと空気読まないよね~」
「うん?」
「元はと言えば、ルータスが不甲斐ないからいけないんだよ。ルータスがいくこさんを不安にさせたから、変な誤解がうちにも飛び火したんじゃない。はい、反省反省!」
菫のルータスに対する言葉は容赦がない。
その様子は、コンラート家のメイド長サラを彷彿とさせた。
おそらく、彼の乳姉弟であるサラ同様に、菫もまたルータスの天然な性格に呆れつつ、どうにも憎めないやつだと許すのだろう。
一方、一回りも年下の少女に叱られたルータスはというと、一度は大真面目な顔をして「分かった」と頷いたが、その後きょとんと首を傾げて菫に問うた。
「それで、何をどう反省すればいいのだろうか?」
その言葉に、「あ~あ……」と盛大にため息をついた菫は、同じくあきれ果てた様子のヴィオラントの腕の中から、郁子に向かって「いくこさん、本当にルータスでいいの?」と尋ねてきた。
郁子はそれに苦笑を返し、ルータスの視線を横顔に感じながら小さく頷いた。
そして、意を決したように顔を正面に向けると、菫を膝に抱いて穏やかさを取り戻していたヴィオラントに視線を合わせる。
怜悧な美貌にはやはり畏怖を感じ、思わず声が震えたが、それでも郁子は己を奮い立たせて言った。
「……勝手に誤解して……失礼なことを言ってしまって、すみませんでした」
そうして、小さく頭を下げる。
ヴィオラントは黙って頷き、郁子の素直な謝罪を受け入れた。
ようやく、郁子とヴィオラントの間に流れる空気が緩み、ぽかぽかと心地よい午後の日差しに菫が「あんむ」と欠伸をした。
いつの間に頼んだのか、お茶用のお湯のおかわりを持ってきてくれた女官長が、ポットと一緒に黒板とチョークのようなものを携えていた。
菫はそれを受け取ると、郁子に名前の漢字を教えてと強請る。
もう、お友達だよね? と、頬を薔薇色にして可愛らしく微笑まれ、郁子も笑みを浮かべて頷いた。
『城田郁子』
二十六年間付き合ってきた名前を、黒い板に白い文字で記す。
「“郁子”さんね」
「ふむ」
日本人の菫はもちろんだが、ヴィオラントまで一発で綺麗な漢字を書いたのには驚かされた。
彼はすでに平仮名を完全にマスターしているらしく、常用漢字もたくさん読み書きできるようになっているとか。
「ハ、ハードルを上げないで下さい……」
「うん?」
二つ年上のヴィオラントの功績に、郁子は年齢のせいにしてこちらの世界の文字を覚えられないと言えなくなった。
一方、なかなか上達しないのがルータスの漢字。
「ルータス、ヘタクソ過ぎ」
「この一文字目……右側のふにゃふにゃした部分が、どうにも難しいんだ」
「うん、“おおざと”ね。難しいとか凹んでないで、ひたすら練習すればいいじゃん」
「……するさ」
相変わらず、菫に容赦なく駄目だしされたルータスは、この時は珍しく意地になった。
黒板の上に、所狭しと不格好な“郁子”を書きまくる彼を見て、郁子は少し照れくさくなる。
そんな中、白いテーブルクロスの上をゆらりと緑の蔓が掠めた。
外壁の蔦が風に吹かれてこんな所までなびいてきたのかと一瞬思ったが、そこで郁子ははたと気づく。
「……あれ? 風なんか、吹いてる?」
ぽかぽかと春のような陽気のこの日は、青い空に浮かぶ雲の流れさえもひどくゆっくりで、実に穏やか。
つまり、はるか上空はともかく、地上では風はほとんど吹いてはいない。
それなのに、蔓とそれについたハートの形をした葉が、やはりゆらゆらと郁子の目の前で揺れている。
しかも、郁子が首を傾げて眺めていると、それは突然蔓を撓らせて伸び上がり、ルータスの手からチョークをひょいと摘まみ上げた。
さらに、ぎょっとしている彼女の前で、黒板の上にこつこつと何かを書いたのだ。
「――っ、え? な、何これっ!?」
当然ながら、郁子は蔦の異様な動きに困惑した声を上げ、それにいつもののほほんとした調子でルータスが答える。
「前に話しただろう。彼が、イクコの世界から来たポトスだよ。動物みたいに動いて字も書く、賢いやつだ」
「ポ、ポトスは勝手に動かないし、字も書かないわよっ!?」
「うん、まあ、突然変異種のようだが……とにかく、いいやつなので怖がる必要はない」
「……」
「それに、彼はこの屋敷の正式な執事だ。名前はセバスチャン」
「セ……セバスチャン……」
それを聞いた郁子は、ルータスの執事コルドや、以前同僚に連れられて一度だけ行ったことがある執事カフェの同名のスタッフとは、あまりにも違うレイスウェイク家の執事の姿に顔を引きつらせた。
しかし、ルータスが「いいやつ」と紹介した通り、その人外執事は確かになかなかフレンドリーなポトスらしい。
わらわらと郁子に向かって蔓を伸ばしてきたと思ったら、彼女の両手を掴むように絡んでぶんぶんと縦に振った。
おそらく、それは歓迎の握手と思って間違いないだろう。
黒板には、セバスチャンの書いた見事な『郁子』の文字。
少なくとも、それはルータスよりは上手かった。
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