雲の揺りかご

くる ひなた

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第二章

壁の向こう

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 庭でのお茶会が済んだ後、郁子は改めてレイスウェイク家当主の私室に招き入れられた。
 そして、自分が生まれ育ったのとは別の世界に来てしまったのだと、認めざるを得ない光景に直面した。
 かの部屋は、菫の実家の一室と壁一枚で繋がっている。
 一体どのような過程を経てそうなったのか、ルータスがいつになくいきいきと説明してくれたが、郁子にはあまりよく理解できなかった。
 ただ、とにかく不思議な光景である。
 しかし、菫が先ほど力強く告げて励ましてくれた通り、元の世界はちゃんと手の届く所にあった。

 日本の一般家庭としては、割合裕福な部類に入るであろう広めのリビング。
 奥には、コンラートやグラディアトリアでは見られない、液晶テレビやパソコンなどの電化製品が置いてある。
 まだこちらの世界に来て一週間も経っていないというのに、郁子はなんだかそんな馴染みの光景を懐かしく感じた。

 そして、壁の向こうには新たな人物も登場する。
 黒髪に、焦げ茶色の瞳の日本人男性。
 シャツにジーパンというカジュアルな彼の服装に、少しほっとする。
 郁子と同じ位の年頃に見えた男性は、ヴィオラントとルータスに「よっ」と気安い様子で片手を上げたと思ったら、菫に視線を移したとたん端整な顔を盛大に緩ませた。

「すみれ、ただいま~。いい子にしてたか? 身体の調子はどうだ? 腹を冷やしたりしていないだろうな? 紅茶も飲み過ぎちゃいかんぞ。あれはカフェインが入ってるからな、妊婦には良くない。それから……」
「あーもー、分かった分かった、うるさいし」
「うるさいとは何だ! にーちゃんはお前のことが心配でだなあ!」
「はい、どーもありがとうございます。――郁子さん、このクドいのがうちの兄です」

 その言葉にようやく郁子の存在に気づいたらしい男性は、慌てて彼女にも挨拶をした。

「やあ、どうも初めまして。菫の兄、優斗です」
「こちらこそ初めまして。城田郁子です」

 菫の兄・優斗は、郁子と同い年の二十六歳。
 年の離れた妹を随分と可愛がっているらしく、ついつい口煩く干渉しては煙たがられ、まるで思春期の娘に悩まされる父親のよう。
 彼はこほんと一つ咳払いして表情を改めると、郁子に向かって話始めた。

「あなたの話は、妹夫婦から聞きました。何でも、うちのマンションにお住まいだったとか」

 郁子が一人暮らしをしていたマンションは、優斗と菫の母方の祖父が建てたもので、現在は優斗の名義になっている。
 その自転車置き場とルータスの屋敷が壁一枚で繋がっていることは、すでに優斗も知っていたようだ。
 マンションの管理は専門の不動産管理会社に任せてしまっているので、彼が賃貸契約者と直接関わる機会はないのだが、ルータスの執事コルドの手紙で妹夫婦を介して郁子のことを知らされ、いろいろと調べてくれたらしい。

「確か、四日前の午後でしたよね。あなたがそちらの世界に飛ばされたのは……」
「は、はい」
「実はちょうどそのくらいの時間に、マンションの道路脇でガス爆発があったらしいんです」
「――えっ!?」

 自転車置き場と塀を挟んだ向こう側では、道路に埋まっているガス管の点検工事が行われていた。
 郁子が出掛けている間に道路は掘り返され、彼女が自転車置き場でため息をついていた頃は、ちょうどガス管の老朽化やヒビの有無が調べられようとしていた。
 そんな矢先、漏れていたガスに引火し――爆発。
 
「ガス、爆発……?」
「見た所、大けがをなさった様子はないようですね。ルータスの所に飛ばされて、命拾いしたのかもしれませんよ」
「……」

 おそらく、引火したのは郁子が煙草を吸おうとして点けたライターの火だろう。
 優斗の言う通り、ガス爆発なんかに巻き込まれてほとんど無傷だったのは、奇跡に近いかもしれない。
 幸い、周囲の住民や工事現場の作業員にも被害は出ず、マンションの自転車置き場と道路を隔てる塀が壊れただけで済んだらしい。
 菫の隣で優斗の話を聞いていたヴィオラントが、「しかし」と口を挟んだ。

「そんな大きな事故があったのに、管理者からそなたにすぐに報告がなかったのか?」
「ああ。怪我人も出なかったし、ガス漏れを見逃したのは施工会社のミスだったからと、塀の修繕費用も向こう持ちになるそうだ。だから、管理会社からは特に俺の方に連絡しなかったらしい」

 優斗も視線を郁子からヴィオラントに移し、その口調も少し砕けた。

「怪我人がなかったって……でも、郁子さんが行方不明になっているはずでしょ?」
「その時間、自転車置き場には他に誰もいなかったらしく、人が巻き込まれたとの目撃情報がなかったんだ。彼女は一人暮らしだったようで……」

 妹の質問に答えた優斗は、そこで少し言葉を濁した。
 郁子は彼の気遣うような視線に苦笑し、自ら後の言葉を続けた。

「私、父が一年前に亡くなって、母とは幼い頃に別れたきりなのよ。会社も辞めたばっかりで、私が行方不明になってることに気づいてくれてる人は、きっとまだ誰もいないわ」
「そんな……」

 それを聞いた菫は、眉を八の字にして大きな瞳を潤ませ、郁子以上に寂しげな顔をした。
 菫は兄優斗に守られて育ったらしいが、それでも両親と疎遠な幼少時代の寂しさは郁子と同じだったに違いない。
 郁子は自分を心配そうに見上げる少女の髪をよしよしと撫でると、「平気だよ」と笑みを作った。
 その時、彼女の反対の手を突然温もりが覆った。
 郁子が驚いて視線をやると、それはルータスの手だった。

「ルータス?」
「ん」

 肩を抱くのではないところが彼らしいと苦笑しつつ、郁子も彼の手を握り返す。
 すると、自分は一人じゃないんだと思えて、天涯孤独の寂しさが和らぐような気がした。
 郁子が笑みを浮かべたことにほっとした様子で、壁の向こうの優斗が「それで」と続ける。

「郁子さんのことを菫達から聞いていたから、さっきマンションの管理室を訪ねて来たんだ。そしたら、郁子さんの免許証が入ったバッグが届いていて」
「バッグ……ですか?」
「ええ。中に財布と携帯電話と手帳とその他諸々……失礼ですが、確認のためにバッグの中を拝見しました」
「いえ、かまいません」

 バッグは、おそらく郁子があの時肩からかけていたものだろう。
 優斗の話では、それは道路を挟んだ向かいの家の敷地に落ちていて、家主である老夫婦も免許証の住所を見てマンションの管理室に届けてくれたらしい。
 郁子は世界を越え、バッグは道路を大きく越えて無傷だったようだ。
 ガス爆発が小規模だったとはいえ事故なので、もちろん管内の警察が現場検証をしたが、何が引火したかは分からずじまい、人的被害もなしと結論付けてさっさと引き上げてしまった。
 向かいのお宅の庭まで、捜索はしなかったのだろう。

「部屋に電話したけれど繋がらないと困って、管理会社の担当者が賃貸契約の際に保証人になっていらしたお父様のお宅に連絡を入れたそうで。お亡くなりになっていると知って、どうしたものかと思案しているところだったようです」

 状況から判断して、優斗には郁子がガス爆発に巻き込まれてコンラートに飛ばされたと推測できた。
 しかし、それを異世界云々の事情を知らない管理会社の人間や、マンションの管理人に伝えるわけにはいかない。
 常識的に考えて、免許証や現金はもちろんのこと、カードが詰まった財布や携帯電話入りの鞄を落としたままで、平気で過ごせる人間はまあいないだろう。
 メーターが動いていないことで、どうやら郁子が部屋の中にはいないと外からでも推測できる。
 バッグを拾得物として警察に届けて、彼女の行方が分からないと申し出た方がいいのだろうかと、管理人達も悩んでいたようだ。
 優斗もどうしたものかと腕を組んだ、その時――マンションの管理室の窓口から声が掛かった。

「郁子さんの部屋を訪ねたけれど、応答がないと」
「え……? 誰でしょう……?」

 別れたばかりだった元恋人は郁子の自宅に出入りをしたこともあるが、まさか彼ではないだろう。
 学生時代の友人は、外で会うことはあっても自宅に呼んだことはなかった。
 もしかして、週末飲む約束をしていた会社の後輩だろうかと考えたところで、優斗の口からその通りの名が飛び出して驚いた。

「ええっと……渡辺、郁哉君。郁子さんの会社の後輩だったと」
「あ、は、はい。そうです」
「会う約束をしていて、携帯に何度も連絡したけれど繋がらないので、心配になって来てみたと言ってました」

 郁子がこちらの世界に来て、五日目。
 元の世界は、今日は日曜日のはずだ。
 郁子が勤めていた会社は土日祝が休みなので、後輩郁哉も本日は休日だろう。
 確かに彼とは仲が良かったし、姉のように慕われている自覚はあったが、会社をやめて同僚でもなくなってしまった人間をそんなに気にかけてくれているとは思わなかった。
 この週末の約束をすっぽかした形になったことに腹を立て、郁子のことなど忘れてしまうのではないかと恐れていたというのに。
 それなのに、自分を心配してわざわざ訪ねてきてくれた後輩に、郁子は感激した。
 ところが、優斗が後に続けた言葉を聞いて、今度は首を傾げることになった。

「彼は、お母様とご一緒でした」
「お、お母さん?」

 何故、お母さん?
 彼の実家は確か洋菓子屋で、両親二人きりで切り盛りしていると聞いていた。
 日曜日も営業しているはずだ。
 わざわざ母親に仕事を休ませて、郁子の様子を見に来るのについて来させるなんておかしい。
 郁哉がまさか、母親なしでは一人で出歩けない超マザコンだったわけではないだろう。
 一体どういうことだろうと首を傾げる郁子に、壁を挟んだ向こうの優斗が複雑そうな顔をした。
 そうして、しばし逡巡する様子を見せてから、意を決したように口を開いた。


「――郁哉君のお母様は……郁子さんは自分の娘だと、おっしゃいました」

「――え……?」


 優斗の口から飛び出したのは、郁子が思ってもみなかった言葉だった。


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