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第二章 緑の上手な育て方
第七話 皇帝の母とその侍女
しおりを挟むルドヴィークの生母であるエリザベス・フィア・グラディアトリア母后陛下が住まうのは、皇帝の妻や愛人達が生活する後宮である。
しかし、先帝ヴィオラントが在位中には妻を迎えず、しかも玉座を去る際、後宮に住んでいた母后以外の女達を一人残らず生家へと帰してしまった。
さらに、在位十年目となっても現皇帝ルドヴィークが独身のため、いまだに母后がその女主人を務めている。
そんな彼女はここ最近、末息子の顔を見る度に、口癖のようにこう問うようになっていた。
「いつになったら皇妃を迎えて、わたくしを隠居させてくださるのかしら?」
おかげでルドヴィークの方は、母と顔を合わせるが少しばかり気が重い。
とはいえこの前夜、母が夜遅くまで自分の帰りを待ってくれていたと聞いたからには、彼は今朝早々にご機嫌伺いに参上する心算だったのだ。
ところが、そんな律儀な彼の行動を見越していたらしい母后から、侍女頭を通して一足早く伝言がもたらされる。
それは、ルドヴィークとソフィリアを、午後のお茶の席に招待したいというものだった。
かくして、廊下で合流した二人は、揃って母后の私室の扉を叩くのであった。
「――お入りなさい」
扉の向こうから返ってきた穏やな声に促されて、ルドヴィークが取手に手をかける。
「二人とも、ようこそいらっしゃいませ」
ルドヴィークとソフィリアが扉をくぐると、広い部屋の中央に置かれたソファから、部屋の主が嫋やかに手招きをした。
その側には、王城の侍女達を総括する侍女頭が控えている。
「母上、昨夜はご心配をおかけして申し訳ありませんでした」
「いいえ、ルドヴィーク。事情は伺っております。ご無事のお帰り、何よりですわ」
母后はまず、側にやってきた末息子を労る。続いて、彼女は母の顔をしたまま言った。
「ソフィリアに深く感謝なさいませ。侍従長に聞きましてよ。昨夜は遅くまで、城の玄関であなたの帰りを待っていてくださったそうではありませんか」
「はい。ソフィのおかげで、腹を空かせたままベッドに入らずにも済みました」
「まあ――ソフィリア、こちらにいらして」
「はい、母后陛下」
腹を痛めて産んだルドヴィークとその姉にあたる双子の皇女達だけではなく、側妃が産んだ先帝ヴィオラントと宰相クロヴィスにも分け隔てなくいっぱいの愛情を注いで育てた偉大な国母。
彼女の見事な金色の髪と青い瞳は、ルドヴィークのそれとそっくりだ。
そろそろ五十に手が届くというのに、その美貌はまったく衰えを感じさせない。
母后は、側にやってきたソフィリアの手を優しく握って微笑んだ。
「いつもルドヴィークが世話をかけますね。ですが、あなたが側にいてくださるからこそ、わたくしも安心していられます」
「もったいないお言葉でございます、母后陛下……」
母后は、ソフィリアにとって理想の母親像そのままの人物であった。
実の母親からは見向きもされなくなって久しい身に、国母の優しい言葉が染みる。
ソフィリアは温かい彼女の手を握り返しながら、少女のようにはにかんだ笑みを浮かべた。
そんな中、ふいに部屋の奥の扉がカチャリと音を立てる。
ゆっくりと開いた扉の向こうから、ポットの載ったトレイを抱えた人物が現れ、ソフィリアとルドヴィークに気付いて顔を綻ばせた。
「――陛下、ソフィ、お待ちしておりました」
ソフィリアより明るい栗色の髪と深い青の瞳をしたその人は、宰相クロヴィスの妻ルリである。
彼女は結婚してリュネブルク公爵夫人となった今でも、以前のまま侍女として母后に仕えていた。
ルリの姿を認めたルドヴィークは、小脇に抱えていた書物をソファの隅に置くと、部屋を横切って彼女の方へと歩いていく。
そして、その手からトレイを受け取って言った。
「やあ、ルリ。昨夜は面倒をかけてすまなかったな。スコーン、すこぶるうまかった」
「もったいないお言葉です、陛下。ご無事のお帰り、何よりでございました」
同い年の義理の姉弟が、そう言葉を交わして微笑み合う。
それを和やかな気持ちで眺めながら、ソフィリアもルリに声をかけた。
「ルリ、私からもありがとう。お相伴に与ったんですけれど、本当においしかったわ」
「ふふ、嬉しいわ。どういたしまして、ソフィ」
この慎ましい親友が、こんな風にソフィリアを愛称で親しげに呼んでくれるようになるまでは、実はかなりの時間を必要とした。
ルリは、先帝の統治時代に粛正された侯爵家の庶子である。
それに引け目を感じていたらしい彼女は、ロートリアス公爵令嬢であるソフィリアを〝ソフィリア様〟と呼び、最初はあくまで侍女として接するつもりだったようだ。
けれども、一文官として身を立てる覚悟をしたソフィリアにとって、それは望むところではなかった。
だから、ルリが敬称をつけて自分を呼ぶ度に、彼女は根気強く、それは嫌なのだと切々と訴え続けたのである。
幸い、お互いにとって思い入れのあるスミレの話題で盛り上がったおかげで、早々に打ち解けることはできた。
ただし、〝ソフィ〟とスミレ発の愛称で呼んでもらえるようになったのは最近のこと。
一時期など愛称に敬称を付けて、〝ソフィ様〟なんておかしな呼び方をされたものだが、今となってはそれもいい思い出である。
ちなみにルリは、もう一人の親友であるスミレに対しては、今も〝様〟を付けて呼んでいる。
こと彼女に関しては、もうそれ自体が愛称のようになっているので、この先も改められることはなさそうだ。
ルリにとってもルドヴィークにとっても〝ちっちゃな義姉上〟に当たるスミレ。
その姿を思い浮かべながら、ソフィリアが苦笑いを浮かべた――その時である。
「――はぁい、そこどいてくださぁい。通りますよー」
ふいに、立ったまま話し込んでいたソフィリアとルリ、ルドヴィークの側で声が上がった。
甘く可愛らしい声だ。
それも、随分と低い位置からである。
「まあ、ごめんなさい」
奥の部屋に続く扉の前に立っていたルリが、慌てて身体をずらして道を開ける。
するとソフィリアとルドヴィークの目の前に、幼い子供が二人登場した。
低い位置から声が聞こえたのは、発信源がまだ背の低い子供だったからだ。
「あっ……!?」
そんな二人のうち、より背の低い方の子供を見たとたん、ソフィリアは思わず声を上げていた。
ルドヴィークも目を丸くしている。
二人は一瞬顔を見合わせ、それから再びその子供へと視線を戻した。
子供は、フリルとリボンがふんだんにあしらわれた、豪奢なドレスを身に纏っていた。
それこそ、さっきソフィリアが廊下で遭遇した令嬢達みたいに、パーティにでも出るかのような華やかな格好だ。
しかし、豪華なのはドレスだけではなかった。
透き通るように白い肌、薄紅色をした丸いほっぺと小さな唇、ちょこんと小さい鼻、長いまつげ。
その顔の造作は、まるで精巧な人形のように整っている。
しかも、緩く波打つ長い髪は艶やかに黒く、こぼれんばかりに大きな瞳は紫色。
ドクンドクン、と激しく高鳴る鼓動に突き動かされたソフィリアは、居ても立っても居られずに叫んだ。
「まぁあああああああ――! クリスティーナちゃん!?」
八年前のあの、人生が大きく変わるきっかけとなった瞬間と同じ――初めてスミレと顔を合わせた時のように、ソフィリアは真っ赤に色付いた頬を両手で押さえて感動に打ち震える。
それにぎょっとしたルドヴィークが、彼女の肩を掴んで揺すぶった。
「おい、ソフィ!? クリスティーナって……そんなわけないだろう!?」
「でもでも、陛下。よくご覧になって。こんなにそっくりで……はわわ」
「いやいやいや、お前こそよく見ろ? 人形じゃなくて生身の人間だろう!? 頼むから現実に戻ってきてくれ、私の補佐官!」
「は、ははは、はい……」
ルドヴィークの必死の懇願に、どうにかこうにか理性を呼び戻したソフィリアは、まだドキドキとうるさい胸を手で押さえながら改めて目の前の子供を見る。
とたん、にっこりと愛くるしい微笑みを返されて、ソフィリアはうっと小さく呻いた。
ルドヴィークに、しっかりしろ! とまた窘められてしまう。
「ク、クリスティーナちゃんじゃないなら……スミレ?」
ソフィリアは生まれてこの方、黒い髪を持つ人間などスミレ以外に会ったことがない。
また、紫色の瞳というのも非常に稀少で、レイスウェイク大公爵一家以外では見たことがなかった。
にもかかわらず、目の前の子供はその両方を兼ね備えているではないか。
しかも、その子供の顔立ちは見れば見るほど、乙女の永遠の妹として愛されるドール・クリスティーナ――そして、そのモデルとなったレイスウェイク大公爵夫人スミレとそっくりであった。
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