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第五章 三国間宰相会議

第二十二話 未練がましい

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 西の山際に消えた太陽に代わり、いつの間にか東の空には月が上り始めていた。
 今宵は満月である。
 月の光に照らされたアカシアの葉が、風に吹かれてサラサラと揺れていた。
 その影で、思いの丈を抑えられなくなったオズワルドがソフィリアの手を掴み、抱き寄せようとする。
 彼の方が八つも年下だが、すでに大人の男性と遜色ない体格をしており、背なんてソフィリアよりも頭一つ分は高い。
 か弱い女性であるソフィリアが、それに争う術などないかと思われた――その時だった。

「――ひゃあっ!? いたっ……いたたたた! いたいいたいいたいいい!?」
「断りもなく触れるだなんて、礼儀に欠けるのではありませんか?」

 手首を回してオズワルドの手を掴み返したソフィリアが、それをぐっと捻り上げたのだ。
 たちまち、情けない悲鳴を上げながら、オズワルドがその場に崩れ落ちる。
 さほど強い力ではなくても、人体の構造上、そのように手首を捻られると痛みで立っていられない。
 弟のユリウスや幼馴染のダリスに付き合ってもらって護身術を習っていたソフィリアは、それを冷静にやってのけたのである。
 護身術といってもほんの初歩的なものだが、相手が女性だと油断しているオズワルドみたいな相手にはおおいに有効である。
 ソフィリアとて、自分の体格や運動神経が戦いに適しているとは微塵も思わない。
 ただ有事の際に、わずかにでもルドヴィークを逃す時間を稼げれば、あるいは自身が人質に取られて彼に迷惑をかけるようなことがなければいいと考えて身につけた技だった。
 腕を捻りあげられてぴいぴいと悲鳴を上げる相手に、ソフィリアは淡々とした声で告げる。

「伴侶となる女性と対等な関係を築きたいとおっしゃるでしたら、先程のような強引な真似は慎むべきです」
「ひぃん、おっしゃる通りです! 軽率な行動でしたぁあ!!」
「もう、なさいませんか?」
「はいい! もう二度といたしません!! ごめんなさい~!!」

 素直に謝るオズワルドに溜飲が下がったソフィリアは、あっさりと彼を解放した。
 時期が時期だけに、事を荒立てたくないのは双方同じだ。

「それでは、お互い今宵のことは忘れて、無事に三国間宰相会議を成功させましょう。よろしいですね?」
「は、はいいい……」

 捻られた手首を押さえ、涙目になって頷くオズワルド。
 ソフィリアはにっこりと微笑んで、大人しく客室に戻るよう彼を促す。
 そうして、アカシアの木の下で一人きりになったのを確認すると、少しだけ声を張って言った。



「近くにいるの? ――モディーニさん」



 そのとたん、近くの茂みがガサガサと激しく揺れた。
 次いで、パタパタと慌てて逃げていく足音は軽い。
 ソフィリアはやれやれとため息を吐くと、今さっきまで何者かが――いや、モディーニが潜んでいた茂みをかき分けた。

「――大丈夫ですか、プチセバス?」

 ソフィリアに声をかけられて驚いた拍子に放り出したのだろう。
 茂みの向こうでは、ひっくり返ったガラス容器と、水浸しの地面の上でワタワタしているプチセバスが満月の光に照らされていた。
 プチセバスをさらい、オズワルドを誘い出したのはモディーニだったようだ。
 とはいえソフィリアは、私室に置かれたメモを見た時点で、彼女が犯人なのではないかと目星をつけていた。
 皇帝補佐官という職業柄、様々な人が書いた字を目にする機会がある。
 それゆえ、何度か見た字ならば誰が書いたのか判別できるようになっていた。
 例えば、皇帝家の兄弟――ルドヴィークの字は少し硬いが丁寧、クロヴィスの字は細身でわずかに右上がりになりがち、ヴィオラントの字はとにかく教本みたいに秀逸、など。
 文通をしたことで、非常に達筆だが跳ねを伸ばす癖があるシェリーゼリアの字や、いまだ拙さが目立つものの丸っこくて可愛いスミレの字も見慣れている。
 最近では、ルドヴィークの仕事を手伝いたいと背付くのをいなすために、何度か資料をまとめるよう頼んだこともあり、モディーニの字を目にする機会も得ていた。
 モディーニの字は、異国の皇帝相手に初対面で求婚してみせたとは思えないほど、小さくて自信なさげ――ソフィリアの私室に置かれたメモに書かれていたのも、そんな字だったのだ。
 プチセバスをさらった犯人がモディーニであるという推測は、オズワルドに手紙を渡した人物の風貌を聞いたことで確信に変わる。
 そして、先ほどソフィリアに名を呼ばれて慌てて逃げ出したのが、何よりの証拠だ。
 
「困った子……私とオズワルドさんの仲を取り持って、彼女に何の利があるというのかしら」

 ガラス容器とともに拾い上げたプチセバス相手にぼやきつつ、ソフィリアはやれやれとため息を吐く。
 モディーニの生い立ちに同情して、これまで散々奔放な行いを黙認してきたものの、さすがに勝手に私室に入られたことや人質みたいにプチセバスを持ち出されたこと、何よりオズワルドを騙してけしかけるような真似をされたことには腹が立った。
 三国間宰相会議の期間中に事を荒立てたくないのは山々だが、そもそもレイヴィス公爵家のいざこざはパトラーシュの問題であり、グラディアトリアはあくまで好意でモディーニを預かっているに過ぎない。
 いい加減一言申さねば、皇帝補佐官――ひいては主君である皇帝ルドヴィークの沽券にかかわるかもしれない。
 そんなことを考えながら、ソフィリアの足は満月に照らされる庭園を少しだけ遠回りをする。
 心が乱れている自覚があったからだ。
 モディーニのせいで、ソフィリアはずっと目を背けていたことと向き合わずにはいられなくなった。
 
(私は――もう皇妃にはなれない)

 今のルドヴィークとソフィリアは、皇帝とその補佐官として祖国のために尽くす戦友のようであり、仕事を離れれば同い年の気の置けない親友のよう。
 お互い主張を譲らず議論が白熱することもあれば、他愛無い話で盛り上がって夜遅くまで酒を酌み交わすこともある――そんな関係が永遠に続けばいいのにと思う。
 けれども同時に、それは無理な話だということもソフィリアは分かっていた。
 グラディアトリアの次の皇帝となる跡継ぎが必要なルドヴィークは、遠からず皇妃を迎えて家庭を持つことになる。
 仕事以外の時間で彼が優先するのは、異性の友達ではなく妻子になるに違いないし、またそうであるべきだろう。
 まだ見ぬその人たちと幸せそうに過ごすルドヴィークを想像したとたん、ソフィリアの胸はまるで針で刺されたみたいに鋭く痛んだ。

「……」

 思わず胸を押さえて立ち止まったソフィリアに、その手に抱かれていたプチセバスがおろおろするみたいに葉を揺らす。
 月明かりの下、するりと蔓が伸びて、彼女の頬を柔らかな葉先が撫でた。
 まるで慰めるかのようなその仕草に、ソフィリアは力無い笑みを浮かべる。
 先ほどオズワルドから、他に好きな人がいるのかと問われた時――たちまち脳裏に浮かんだのはルドヴィークの姿だった。
 自分にとって彼が、上司や親友以上の存在になっていることを、ソフィリアはもう認めないわけにはいかない。
 けれども、ルドヴィークへの想いは決して報われることはないのだ。
 かつて、ソフィリア自身が犯した罪が、それを許さないのだから……

「いやだわ、私ったら……未練がましい」

 苦笑いを浮かべてそう呟く彼女の頬を、プチセバスの葉先がまた優しく撫でた。
 まん丸い月を横目に見ながらも、ソフィリアの足はまだ後宮には向かわない。
 母后陛下やスミレを待たせていることを申し訳なく思いつつ、けれども今のまま顔を出して、鋭い彼女達に心の内を見抜かれてしまうのが怖かった。
 片手に持った空のガラス容器がいやに重く感じるのは、気持ちが沈んでいるせいだろうか。
 あてどなく庭園の中を彷徨いながら、ソフィリアがもう何度目かも分からないため息を吐いた時だった。


「――やめてっ!!」


 ふいに耳に届いた悲鳴に、はっとして立ち止まる。
 それは聞き覚えのある少女の――モディーニの声だった。

「離してっ! 誰かっ……誰か助けてっ!!」
「――静かにしろ」

 続け様に上がったモディーニの声に、聞き覚えのない男の潜めた声が重なる。
 ソフィリアが息を潜めて声の出所を探ると、すぐ側に立つ白樫の木の向こうに彼らは居た。
 月明かりの下、モディーニの腕を掴んでいるのは背の高い男。
 その片手に、ギラリと光るナイフを認めて、ソフィリアははっと息を呑んだ。
 そうして、その鋒がモディーニに突きつけられようとした、その瞬間。
 ソフィリアはとっさに、手に持っていたガラス容器を男の顔に向かって投げつけていた。

「――っ!?」

 男はとっさにモディーニの腕を離し、ナイフを持っていた方の腕を上げて顔を庇う。
 その拍子に刃先が当たって、パーンと音を立ててガラス容器が砕け散った。
 降り注ぐガラスの破片を避けようと、モディーニの身体が反射的に男の側から飛び退く。
 すかさずソフィリアは手を伸ばし――

「走って!!」

 モディーニの腕を掴んで走り出した。


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