東雲の空を行け ~皇妃候補から外れた公爵令嬢の再生~

くる ひなた

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第六章 満月の下の騒動

第二十五話 皇帝補佐官の怒り

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 ザッ……と、耳のすぐ後ろ辺りで鈍い音が聞こえた。

「ソフィ!!」
「ソフィリア様!!」

 シオンとモディーニの悲鳴が重なる。
 髪が引っ張られることによる地肌の痛みとブチブチと千切れる感触に、ソフィリアはぐっと顔を顰めた。
 けれどそれも、男がナイフを振り抜くまでの一瞬のこと。
 バッ、と宙に舞った深い栗色の髪は、次の瞬間には無惨に足元に散らばった。
 誕生日祝いにスミレに贈ってもらったカンザシが、ころころと地面を転がる。
 髪を切り落とされたのだと気づいたが、それにかまっている余裕はなかった。
 ソフィリアはシオンを放り投げるようにして後ろのモディーニに託すと、二人を背に庇って男の前に立ち塞がる。
 短くなった不揃いの毛先が、冷や汗が滲んだ頬や首筋に張り付いて鬱陶しかった。
 
「ソフィ……ソフィの髪があああ……」
「そ、そんな、ひどい……ひどいっ……」

 ソフィリアの後ろ姿を見て、シオンとモディーニが声を震わせる。
 さらには、ソフィリアの髪を無惨な有様にした張本人までもが、目の前の彼女の姿に愕然としていた。
 おそらく彼は、脅すだけのつもりでナイフを持ち出したのだろう。
 最初から、ソフィリアもシオンも、モディーニのことだって傷つけるつもりはなかったのかもしれない。
 そうでなければ、少し護身術を齧ったくらいのソフィリアでは、訓練を受けた本職の騎士相手に髪だけの犠牲で済むはずがなかった。
 オズワルドとは違って、小手先だけでどうこうできる相手でないのは明白だ。
 ソフィリアは頬にかかった不揃いの髪を掻き上げながら、目の前で狼狽える男の動向をじっと用心深く観察する。
 とにかく、一刻も早く見回りの騎士が通りかかってくれることを祈る彼女の背に、ふいに弱々しい声がかけられた。
 
「ど、どうして……どうして、私まで庇うんですか? ソフィリア様には何の得にもならないのに……」

 プリペットの垣根の前で震えるモディーニの声だ。
 彼女はシオンをぎゅっと抱きしめながら、まるでいとけない迷子みたいな縋るような目でソフィリアを見つめていた。
 それを見返したソフィリアは、苦笑いを浮かべて答える。

「凶器を前にして損得で行動できるほどの余裕はないわ。ただ、シオンちゃんを大切にするのと同じように、あなたのことも大切にしたいと思っている――ただ、それだけのことよ」

 そのとたん、くしゃっと泣きそうな顔をしたモディーニは、ブンブンと首を横に振って叫んだ。
 
「うそ……うそです! 私が、大切になんてされるはずがないわ! みんな……みんな、私のことが嫌いなのよっ……!!」
「ふっ……はは! なんだ、ちゃんと自覚しているじゃないか! その通り! 私も、他の腹違いの兄達も、それにライアン様だって、みーんなお前のことが憎くて憎くて仕方がないんだよっ!!」

 モディーニの悲痛な叫びを、さっきまで狼狽えていたはずの男が嘲笑う。
 そんな男を鋭く見据え、ソフィリアはぴしゃりと告げた。

「おやめなさい! 騎士ともあろう方が、こんなか弱い少女相手に恥ずかしくないのですか!」
「……侍女風情が、偉そうに」

 男はモディーニからソフィリアに視線を移し、顔を顰めて忌々しげに吐き捨てる。
 ソフィリアはそれを真正面から睨み返し、毅然たる姿勢で立ち向かった。

「あなたはお母様が娼婦だとおっしゃいましたね。それゆえお父様に認知されなかったことを憂い、けれども嫡出子であるライアン様が弟として受け入れてくださったことに感動したのではありませんでしたか? 生い立ちや身分によって理不尽な扱いを受ける辛さを知っているあなたが、侍女を貶めるのですか?」
「……っ、それは……」

 痛いところを突かれたらしい男が、再び狼狽え始める。
 ソフィリアは畳み掛けるように、ぴっと左手の方を指差して続けた。

「すぐそこに城門がございます。門番がおりますので、どうか潔く自首なさってください」
「そ、そんなこと……」

 パトラーシュ宰相の護衛騎士としてグラディアトリアに来ておきながら、私情で刃物を振り回した男の罪は重い。
 しかも、相手が友好国の皇帝補佐官とあっては、パトラーシュは彼を厳罰に処さないわけにはいかないだろう。
 よくて騎士団からの追放、最悪の場合は死罪もありうる。
 けれども、ソフィリアは皇帝補佐官として、彼に情けをかけることはできなかった。

「あなたが安易にナイフを抜いたこと、見過ごすわけは参りません。ここは、グラディアトリア。先帝陛下が血まみれになりながら平定し、当代の皇帝陛下が――ルドヴィーク様が懸命に育てた平和な国です。それを脅かそうとする者は、何人たりとて許しません!」

 かつて、愚かで無知な公爵令嬢だったソフィリアは、傲慢にも一人の少女の人生を軽んじようとして、先帝陛下の怒りに触れた。
 それをきっかけに自分を見つめ直し、新たに一歩踏み出したことで、自分と同い年の皇帝陛下がどれだけ重い荷物を背負って生きているのかを知ったのだ。
 彼の補佐官となってからは、少しでもそれを肩代わりできまいかと思案する日々。
 主君であり、親友であり――そうして、秘めたる思いを募らせる大切な人。
 彼の苦労も顧みず、安易にナイフを抜いた目の前の男に、ソフィリアは激しいまでの憤りを覚えたのである。

「ひゅー! ソフィ、かっこいい!!」

 堂々と啖呵を切った彼女の背に、母に似て有事であっても相変わらず楽天的なシオンの声援が飛ぶ。
 しかしそれが、文字通り生きるか死ぬかの状況にある男をいたずらに刺激した。

「――黙れっ!!」

 男がそう叫んだ瞬間、まるで怯えたみたいに月が雲に隠れてしまった。
 それまで月の光に照らされてかろうじて見えていた男の顔が真っ黒い影になり、ひどく不気味な存在に見える。
 影はわなわなと震える手で、ソフィリアの後ろ――プリペットの垣根の前に座り込んだモディーニを指さした。

「お前のせいだ! お前がいるせいで、私も、ライアン様も不幸になる!」

 さらには、ソフィリアにも指先を向けて続ける。

「そいつを庇い立てるならお前も同罪――私と、ライアン様の敵だ! あの方に仇なす者は許さないっ!!」

 そう叫んだ男の手が、ナイフを抜くだけでは飽き足らず、ついに腰に下げた剣に伸びた。

 その、刹那のことである。

 ふいに、その肩を何者かの手が背後から掴んだ。
 びくりと肩を跳ねさせた男が、慌てて後ろを振り返ろうとして――

 ガツッ……!

 鈍い音とともに、いきなり真横に吹っ飛んだ。

「え……?」

 背後から現れた何者かが男の頬を殴りつけたようだとソフィリアが察した、その時である。
 雲に隠れていた月が、再び顔を出した。
 たちまち降り注ぐ月光によって浮かび上がったのは、艶やかな金色の髪と怒りを滾らせた青い瞳。
 はっとしたソフィリアがその名を呼ぶ前に、後ろからシオンの弾んだ声が上がった。


「――ルド兄っ!!」


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