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第六章 満月の下の騒動

第二十六話 獅子の咆哮

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「だっ、誰だっ……!?」

 曲がりなりにも訓練を受けた騎士である。
 いきなり殴りつけられて吹っ飛んだにもかかわらず、男はすぐさま体勢を立て直して再び腰に帯びた剣の柄に手をかけた。
 けれども、自分を殴りつけた金髪の青年が何者なのかは分からないらしい。
 仕事を終えた彼が、豪奢な金糸の刺繍が施された上着も、クラバットも、それを止める宝石が散りばめられたブローチも外して、白いシャツに濃色のズボンという砕けた格好になっていたから余計にだろう。
 それでも、ただものではない相手と本能的に感じているのか、男の手はブルブルと震えて剣を抜くのに躊躇している。
 何しろ、月の光に照らされて堂々と現れたその人は、彼を見慣れたソフィリアでも思わず感嘆のため息を吐いてしまうほど、神々しく見えたのだから。

「陛下……」

 なぜ、ルドヴィークがここにいるのか。
 そんな疑問を抱くよりも先に、彼が側にいる安心感の方が優った。
 ソフィリアの声が届いたのかどうかは分からないが、ルドヴィークの視線がすいと彼女に移ってくる。
 とたん、その青い瞳がこぼれんばかりに見開かれた。
 ソフィリアの髪の無惨な有様に気づいたのだろう。
 
「彼女のあの髪――お前の仕業か」

 すっと男に視線を戻して目を細めたルドヴィークが、ソフィリアでさえも初めて聞く、地を這うような声で言った。
 その頭上で、まん丸い月が明々と輝いている。
 まるで月をも従えたようなグラディアトリア皇帝が、男の方へと大きく一歩踏み出した。

「……っ、うわあああっ!!」

 自棄を起こしたみたいに大きな声を上げて、男がついに剣を引き抜く。
 けれども、ルドヴィークが動く方が早かった。
 一気に距離を詰めた彼は、男が剣を構える前に凄まじい勢いでその手を蹴りつけたのだ。
 バキッという鈍い音に続いて、男のうめき声が上がる。
 その拍子に手放された抜き身の剣が地面を滑り、少し離れた茂みの前で止まった。
 くそっと悪態を吐いた男が、右手を押さえながら必死にそれに追い縋る。
 ところが、彼が剣を拾おうと無傷の左手を伸ばした、その瞬間――

「――息子が、世話になったか?」
「……っ、ひっ……!!」

 茂みの向こうから現れて刃を踏みつけたのは、今度は月の光そのもののように美しい白銀色の髪をした人――レイスウェイク大公爵。
 グラディアトリアの現皇帝の顔さえ知らない男には、それが先帝陛下であるなどと分かるはずもない。
 にもかかわらず、本能的に危険を察知したのか、情けない悲鳴を上げつつも剣を諦めてヴィオラントから距離を取った。
 それでもまだ、男は足掻く。
 彼は手元に残っていたナイフを再び握り、ルドヴィークとヴィオラントとは反対側へと駆け出した。
 その先には、プリペットの垣根の前で身を寄せ合うモディーニとシオン。

「やめてっ……!!」

 彼らを人質にされてなるものか、とソフィリアはとっさに男に体当たりをしてその進行を阻もうとする。
 しかし、ソフィリアの渾身の一撃でも騎士の鍛えられた体幹はびくともせず、彼女は逆に胸ぐらを掴まれてしまった。
 その際、手に引っかかって邪魔になったスカーフを、男が忌々しげに引っぺがす。

「くそっ!!」
「あっ……」

 スカーフを留めていたブローチが――誕生日祝いにルドヴィークから贈られたペリドットのブローチが外れて、吹っ飛ぶ。
 スミレにもらったカンザシに続いて、今度はルドヴィークから贈られたブローチまで。
 何だか武装を全て引き剥がされてしまったみたいに、ソフィリアはひどく心細くなった。
 そんな彼女を血走った目が捉える。
 男の憎悪の矛先が、モディーニからソフィリアに移った瞬間だった。

「お前が邪魔ばかりするから――!!」

 そう叫んでナイフを振り上げた男の右手は、ルドヴィークに蹴り付けられたために大きく腫れ上がっている。
 脅しでしかなかったさっきまでとは違い、ナイフの切先は今、明確な殺意を帯びていた。
 刃が、月の光を反射してギラリと光る。
 それに身を貫かれる恐怖に、さしものソフィリアも言葉を失った――その時だった。



「――その人に刃を向けるな!」



 ルドヴィークの声が月夜の庭に響き渡る。
 それはまさしく獅子の咆哮のようであった。
 それを一身に浴びた男は戦き、竦み上がる。
 ナイフを握ったまま固まった彼の手を、ルドヴィークがすかさず背後から掴んだ。
 そのまま手首を捻られた男は、ぐっと呻いて呆気なくナイフを取り落とす。
 そんな中、プリペットの垣根を飛び越えて新たな人物が登場した。
 ソフィリアの弟、ユリウスだ。
 ユリウスは、ルドヴィークに右手を掴まれた男の無防備な鳩尾を問答無用で殴りつけた。
 そうして、たまらず身体を折り曲げて地面に転がったところを素早く後ろ手に拘束する。 
 あっという間の出来事だった。
 一瞬、時が止まったみたいにその場が静まり返る。
 ところが……

「ちょっとおおお!? 陛下も閣下も丸腰じゃないですかっ!! 何やってんですか!? 護衛をおいていくのやめてくださいってばっ!!」
「ふむ、すまない」

 ユリウスの真っ当な抗議と、まったくすまなさそうには聞こえないヴィオラントの謝罪をきっかけに、再び時間が動き出す。
 緊張の糸が切れたソフィリアがその場にヘナヘナと崩れ落ちると、わあわあと喚きながらシオンとモディーニが駆け寄ってきた。

「わああん、ソフィー!!」
「ソフィリアさまっ……ソフィリアさまあっ!!」

 ここでようやく、四方八方からのグラディトリアの騎士達が現れ、男を引っ立てていく。

「陛下の御前で剣を抜き、皇帝補佐官に危害を加えようとした重罪人だ。地下牢に繋いでおいてくれ」

 そう指示を出したユリウスの言葉で、男は自分が今まで誰と対峙していたのかをようやく思い知っただろう。
 けれども、ソフィリアには彼の表情を確かめることができなかった。
 右と左からしがみついてきてわんわん泣くシオンとモディーニを、宥めるのに忙しかったからだ。

「ソフィ、ナイフを向けられて怖かったでしょ!? うわわ……髪……どうしようっ!!」
「ソフィリア様、ごめんなさい……巻き込んで、ごめんなさいっ!!」
「二人とも、落ち着いて。私は何ともありませんから、ね?」

 ナイフを向けられて怖い思いをしたのはシオンも同じだし、男のことに関してはモディーニは完全に被害者だ。
 それなのにしきりに自分を案じる二人の髪を、ソフィリアは優しく撫でた。
 
「ほら、何だったかしら……前に、シオンちゃんを庇って髪が切れてしまった時にスミレが言っていたでしょう? 〝結果おーらい〟でしたっけ? シオンちゃんとモディーニさんが無事だったのだから、何も問題ありませんわ」
「あー、もう! ソフィってば! そういうとこだよ!?」
「ソフィリア様がご無事じゃないんですから、問題大ありですっ!!」

 自分達を庇ったがために、ソフィリアが一手に被害を受けるはめになったこと、それに頓着する様子のない彼女に、シオンとモディーニがもどかしそうに身悶える。
 やがて、前者をヴィオラントが抱き上げ、後者をユリウスが引き剥がすと、地面に座り込んだソフィリアの前にルドヴィークが膝を付いた。

「ソフィ、怪我は……?」
「ございませんわ、陛下。ご心配をおかけして、申し訳ありません」

 ルドヴィークがおそるおそる手を伸ばしてきて、短くなった彼女の髪に触れる。
 ここでようやく、ほうっと安堵のため息を吐いたソフィリアは、無意識に彼の手に頬を擦り寄せた。
 安心したからだろうか。
 男と対峙している時は必死に目を背けていた恐怖が、今更ながら首をもたげてくる。
 
「震えているじゃないか」
「あら、武者震いですわ」
「よくもまあ、そんな強がりを言う」
「虚勢を張るのは得意ですの。だって、補佐官が舐められては、陛下の沽券にかかわりますでしょう?」

 冗談めかして言いながらも、ソフィリアは自分の頬に添えられたルドヴィークの手を縋るように握った。
 彼女のそれよりもずっと大きくて頼もしくて、温かくて――そして、慕わしい手だ。
 その手で、不揃いになったソフィリアの髪を慈しむみたいに撫でながら、ルドヴィークが痛みに耐えるような顔をして言った。



「ソフィに虚勢を張らせねば保てないような沽券ならば――私には必要ない」



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