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第七章 腹違いの兄妹

第二十九話 茶番劇の幕引き

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 前レイヴィス公爵夫人は、聡明で誇り高い女性であったという。
 彼女はもちろん、夫の愛人が産んだモディーニを歓迎することも愛することもなかったが、さりとて辛く当たることも蔑ろにすることもなかった。
 モディーニに、レイヴィス公爵令嬢を名乗るに相応しい淑女としての教育を施したのも彼女だ。
 そうすることで、正妻としての矜持を保っていたのかもしれない。
 そしてそれは、彼女が産んだ唯一の嫡出子であるライアンも同じだった。
 ライアンは、現在二十八歳。
 モディーニが生まれてレイヴィス公爵家に引き取られた時、彼は十二歳と多感な年頃であった。
 無邪気に自分を慕ってくる腹違いの妹を、可愛く感じることもあっただろう。
 生まれてすぐに母を亡くし、実母の記憶のない彼女を哀れにも思ったに違いない。
 けれども同じだけ、いやそれ以上に――

「兄は、ライアン兄様は――本当は私のことを、誰よりも憎んでいらっしゃるのです」
「モディーニさん……」

 ぐっと俯いて悲痛な言葉を吐き出すモディーニに、ソフィリアはそっと寄り添う。
 少女の華奢な体は、小さく震えていた。
 とはいえ、ライアンにも同情する。
 節操のない父のせいで、望まぬ腹違いの兄弟がどんどんと増えたあげく、そのうちの一人を屋敷に迎え入れなければならなかったのだから。
 当時思春期に差し掛かっていた彼には、父に対する反発心もあっただろう。
 けれども、唯一の嫡出子、レイヴィス公爵家の跡継ぎとしての誇りが、哀れな腹違いの妹を排斥するのを許さなかった。
 彼はずっと、寛容で慈悲深い兄の仮面を付けて、モディーニに接してきた。
 ところが、父が亡くなったことをきっかけに、その仮面が剥がれ始める。
 母である前レイヴィス公爵夫人が、お役御免とばかりに生家に戻ってしまったのも大きかった。
 モディーニをレイヴィス公爵令嬢として扱うよう、彼に強いる者が誰もいなくなったのだから。
 モディーニは、涙に濡れた声で続ける。

「兄は……私が憎いと言いました。このまま側に置いていては、いつか殺めてしまうかもしれないと恐れていました……」
「殺めてって、そんな……」

 ライアンは、母に似て聡明で理性的な男だ。
 だからこそ、寛容で慈悲深い兄の仮面の下で十六年間蓄積されてきたモディーニに対する憎しみが、このままでは理性をも食い潰してしまうと自覚していた。
 前レイヴィス公爵に蔑ろにされてきた腹違いの兄弟達からモディーニを守るという大義名分も、まったくの嘘ではないだろう。
 しかし、モディーニにとっての何よりの脅威は、後見人であるはずのライアン自身だったのだ。

「それを、ライアンはフランディースに相談したんだな。そして、フランディースはモディーニを国外に出すことで、彼の心を守ろうとした」

 そうルドヴィークが苦々しく呟く通り、パトラーシュ皇帝が守ろうとしたのはモディーニではなく、彼女への憎悪に悶え苦しむライアンの方であった。
 
「避難といえば聞こえはいいですが、実質国外追放じゃありませんか。フランもなかなか、酷なことをしますねぇ」
「モディーニさんには何の非もありませんのに……それは、あんまりです」

 さしものクロヴィスもモディーニに同情するような目を向ける。
 ソフィリアは、消沈しきった様子の少女を見て唇を噛み締めた。
 皇帝の右腕となり得る働き盛りのライアンと、腹違いの兄弟達の憎悪の的となった箱入り娘のモディーニ。
 国家にとって価値があるのは、考えるまでもなく前者だろう。
 皇帝として、それを選択したフランディースの行いは間違ってはいないのかもしれない。
 けれども、人としてはどうだろうか。

「いいんです……私が消えることで兄が心穏やかに過ごせるなら、それで……」

 嗚咽混じりにそう呟くモディーニを、ソフィリアは堪らず抱き寄せる。
 パトラーシュには帰らない、と彼女が何度も口にしていた理由が分かった。
 帰らないのではなく、帰れないのだ。
 令嬢達に誘われたお茶の席で、ライアンは彼女を厄介払いしたかったのだ、という主旨の指摘をされたとたんに冷静さを失ったのは、それが事実であったから。
 それなのに、グラディアトリア皇帝であるルドヴィークと結婚して皇妃になれば、きっとライアンが自分を誇りに思ってくれると呟いた彼女のいじらしさよ。
 そうして、ソフィリアの背中に庇われて、私など大切にされるはずがない、みんな私のことが嫌いなんだ、と叫んだ悲痛な声――モディーニの何もかもに、胸が痛んだ。
 しくしくと少女の泣き声が響く応接室の空気は、ひたすら重くなっていく。
 あれほどモディーニを厄介者扱いしていたユリウスでさえ、気遣わしげに彼女を見ていた。
 そんな中、ふう、と一際大きなため息を吐いたのは、シェリーゼリアだ。
 すかさず、クロヴィスが鋭い目をして彼女に問う。

「シェリーはこのことを知っていたんですか?」
「知らないわよ。ついでに言うと、先日兄がルドの馬車に彼女を忍ばせようと企んでいたことだって知らされていなかった。ぜーんぶ、何もかも、事後報告。あー、腹立つ。……あいつ、帰ったらシメてやるわ」

 兄であり、主君でもある皇帝フランディースを〝あいつ〟呼ばわりしたシェリーゼリアは、指をバキバキ鳴らしながら宙を睨んだ。
 そんな物騒な相手にびくびくとしながら、あの、とモディーニが口を開く。

「殿下、申し訳ありません。私が全部悪いのです」
「……というと?」
「私のせいで、兄の印象が少しでも悪くならないよう……本当の事情は他の方には伏せてくださいとお願いしたんです。陛下は、それを聞き入れてくださっただけで……」
「ふうん、なるほどね。けれど、結局あなたは、こうして自分の口で語ってしまったわね。それはなぜかしら?」

 シェリーゼリアの言う通り、皇帝に口止めまでしたライアンの醜聞を、モディーニは自ら打ち明けてしまった。
 その理由を問われた彼女はやっと顔を上げ、濡れた眼差しでソフィリアと向き合う。

「こんな私を、ソフィリア様は身を挺して守ってくださった……そんなソフィリア様に、もう何も嘘はつきたくないんです」
「モディーニさん……」

 モディーニは世間知らずの箱入り娘で、けして思慮深い方ではないだろう。
 けれども、素直で、感受性豊かで、とても思いやりのある少女だとソフィリアは感じた。
 彼女は心から、兄ライアンを慕っているのだろう。それは、彼に憎悪を向けられ、そのせいで祖国を追い出された今でも変わらない。
 そんな中で、今宵の自分の行動がわずかでも彼女に希望をもたらしたのだとしたら、シオンを無事その両親のもとに返せたのと同様に、ソフィリアはこんなに誇らしいことはないと思えた。

「――ところで。問題のレイヴィス公爵家の家宝とやらは、本当にあなたが受け継いだのかしら?」

 シェリーゼリアの問いにモディーニはしっかりと頷く。
 ただし、パトラーシュの騎士にも告げた通り、やはり今は持っていないと言う。
 では、どこにあるのか――それに答えたモディーニの言葉に、その場に居合わせた一同はまず、ぎょっとした。

「あれはもう、私のものではないんです。だって、あげてしまいましたから……」
「あ、あげてって……家宝を!?」

 家宝を人にあげるだなんて、とシェリーゼリアは呆れた顔をする。
 ところが、モディーニが続けた言葉によって、たちまちその表情を改めることになった。

「甥に――兄の子供にあげたんです。だって父が、私の次は、私が一番大事だと思う相手にあげなさいとおっしゃったから……だから、私……」

 モディーニはライアンの一人息子である一歳の甥を、心から愛おしく思っていた。
 しかしながら、その母親――つまり現レイヴィス公爵夫人であるライアンの妻とは折り合いが良くなかったという。
 前レイヴィス公爵夫人と同じ一族の出身であるライアンの妻は、妾腹でありながら堂々とレイヴィス公爵家で生活しているモディーニを心底疎ましく思っていたのだ。
 義姉の手に渡るのだけは耐えられなかったモディーニは、家宝のペリドットを甥の玩具箱の底に隠してきた。
 甥の乳母がモディーニに対して同情的で、彼女をいつも快く子供部屋に迎え入れてくれたからこそできたことだ。
 この頃には、すでにモディーニとの接触を避けていたライアンにそのことを直接伝える術がなく、グラディアトリアで落ち着いたら手紙で在処を伝えるつもりだったという。

「つまり、レイヴィス公爵家の家宝は、ちゃんと嫡出子に受け継がれていた。今宵の騒ぎは、まったくもって無意味で見当違いなものであったってことね。はぁあああ……」
「いや、なんと申しますか……シェリーもたいへんですね」

 疲れ切ったようなため息をつくシェリーゼリアに、クロヴィスが珍しく労いの言葉をかけた。
 ソフィリアも、モディーニを抱いたままルドヴィークと顔を見合わせる。
 ライアンは知らなかったのだろう。
 モディーニが、こんなにも自分や息子を大切に思っていることを。
 何も知らず――いや知ろうともせずに、自分の気持ちばかりを優先して、彼女をたった一人異国の地へと追いやったのだ。
 そう思うと、ソフィリアの中でふつふつと怒りが湧き上がってくる。

「ライアン様はなぜ、モディーニさんが家宝を受け取ったと弟君に話したのでしょう。自分に心酔している彼がそれを聞けば、取り返しにいくかもしれない。それが頭を過らなかったとは、さすがに言わせません」
 
 ライアンは、モディーニから家宝を取り戻したかった。そのために、腹違いの弟である騎士を利用したのだ。
 そう思われても仕方がないだろう。
 もしもライアンにそんなつもりはなかったとしても、浅慮だと責められてしかるべきだ。
 とはいえ、疑問も残る。
 家宝は大事だとは思うが、皇帝まで巻き込んでモディーニと断絶した彼が、今更宝石一つのことでわざわざ彼女に関わろうとするだろうか。
 そんな矛盾に、ソフィリアが眉を顰めた時だった。

「それについてですが……少しよろしいでしょうか?」

 ふいに発言の許しを請うたのは、今回シェリーゼリアに随行したパトラーシュ騎士団の代表。
 シェリーゼリアの護衛としてシュタイアー公爵家に同行していたが、事件の知らせに飛んで帰ってきて、グラディアトリアの騎士立ち合いのもと、犯人の男に尋問を行った人物である。
 
「犯人の男、ロンというのですが……あの者が申すには、レイヴィス公爵家の家宝の話は、ライアン・リア・レイヴィスから直接ではなく、その妻から聞かされたようです」

 それを聞いて、ソフィリア達は合点がいった。
 そして、心なしかほっとした気持ちになる。
 もちろん、それが事実かどうかはまだ分からない。
 騎士の男が、ライアンを庇おうとしているだけかもしれない。
 けれども――

「よかった……兄様じゃ、なかったんだ……」

 涙ぐみながらそう呟いたモディーニを見て、その場に居合わせた誰しもが、真実であってほしいと願った。


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