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瑠璃待ちショコラ
しおりを挟む「うーん、うーん……」
今日も平和なグラディアトリア城の宰相執務室。
その部屋の主たる宰相クロヴィスが山と積まれていた書類の処理をようやく完了した頃、彼の執務机の側に置かれた応接用ソファから、そんなうめき声が聞こえてきた。
「どうしたんですか、スミレ。産まれるんですか?」
クロヴィスがペンを置いてそう声をかけると、うめき声の発信源たるスミレが、ソファの前のテーブルに突っ伏したまま気怠げに答えだ。
「産まれない。まだ、産まれない」
「じゃあ、何をうんうん唸っているんです?」
クロヴィスの兄ヴィオラントの妻であるスミレは、この日も王城の研究室を訪ねる夫にくっ付いて登城した。
しかし、かの部屋には大嫌いなミミズが飼育されているため、彼女はヴィオラントの用事が終わるまでクロヴィスの部屋で留守番をすることにしたのだ。
泣く子も黙ると恐れられる宰相閣下の執務室で時間潰しとはいい度胸だが、いい加減託児所扱いにも慣れたクロヴィスがそれを厭がることはない。
それに、間もなく訪れる午後のお茶の時間には、今日は彼の恋人であるルリが同席することになっているので余計に機嫌がいい。
おそらくヴィオラントもその頃には用を済ませて戻ってくるであろうから、四人でお茶を楽しむことになりそうだ。
「何を読んでるんです? 唸るほど難しい本なんですか?」
クロヴィスは執務机の上を軽く片すと、まだ「うーん」と唸っているスミレの向かいのソファへと移動して、彼女がテーブルの上に広げている書物を覗き込んだ。
そこにあったのはスミレの故郷日本の書物で、どうやらお菓子のレシピ本のようだ。
スミレはその上に頬杖をつき、正面に座ったクロヴィスを上目遣いに見上げると、ふうと一つ物憂げなため息をついて言った。
「チョコはどうして甘いんだろうと思って」
「はあ、チョコ……ショコラのことですね」
「どれだけビターだって言っても、やっぱりチョコはチョコだから甘いじゃない? 結局甘くないとチョコなんて美味しくないわけだし……」
「ふむ……」
「でも、甘いの苦手だって分かってるのに、食べさせるの可哀想だし……」
「ああ、なるほど。兄上に差し上げるショコラに悩んで、唸っていたんですね」
クロヴィスの敬愛する兄であり、スミレを無表情のままメロメロに溺愛する夫ヴィオラントが、甘いものが極度に苦手なのは有名な話である。
今でこそお茶請けを摘むようになったが、それもスミレが作ったお菓子限定。
そんなヴィオラントのために、果汁や果実酒を絶妙な具合で配合し、砂糖を控えつつ風味豊かな美味しいお菓子を作り上げてきたスミレだが、さしもの彼女もチョコレートばかりは甘さを抑えるのは難しい。
ブラックチョコレートやビターチョコレートなど、ミルクや砂糖を含まないタイプのものもあり、含有ポリフェノールが身体にいいのどうのとも聞くが、美味しいかどうかというのはまた別の話である。
いくら甘味を抑えられたとしても、スミレは自分が美味しいと思えないものをヴィオラントに食べさせようとは思わない。
「チョコってば、大昔はトウガラシ入れて飲んだんだって」
「それはちょっと、美味しくはなさそうですね」
「ありえないよね」
「ありえないですね」
日本では、もうすぐ二月十四日――バレンタインデーを迎える。
毎年スミレがヴィオラントへの本命チョコだけではなく、親族の男性陣にも手作りチョコを配ってくれるので、クロヴィスもそういうイベントがあるのを知っている。
今年は彼の恋人ルリもバレンタインに合わせてチョコレートをくれると言っていたので、その日が待ち遠しいくらいだ。
頬を赤らめてチョコを差し出す、慎ましく可憐なルリの姿。
それを想像して思わず緩んだクロヴィスの顔を、スミレは正面から半眼で眺めながら口を尖らせた。
「ルリさんはいいなぁ。クロちゃんは扱いやすそうだもん」
「扱いやすそうってなんですか。これでも、舌は肥えてるんですからね」
「毎日こっそり少しずつ甘いもの食べさせていったら、ヴィーもそのうち甘いの平気になるかなぁ?」
「ちょっとちょっと……それ、毎日少しずつ毒を盛っていったら耐性がつくかもって言っているように聞こえるんですが」
スミレは頬を膨らませて、また「む~」と唸った。
クロヴィスは苦笑しながら彼女の肘の下から本を拾い上げ、パラパラとページを捲ってみた。
『極上スイーツ大全集』
表紙にそう銘打ったレシピ本には、チョコレートだけではなく様々なお菓子の作り方が載っている。
こちらの世界にはない“写真”という、精巧な映し絵で描かれたお菓子達が色鮮やかに紙上を飾り、ヴィオラントなら見ているだけでも胃もたれを起こしそうな甘さが詰まった一冊だ。
けれど、ルリのおかげでお菓子に馴染み深くなったクロヴィスの目はたいそう楽しませてくれた。
「別に、そこまでショコラにこだわる必要はないのでは? バレンタインデーは元々ショコラに限ったイベントではなかったはずでしょう」
クッキーでもケーキでも、そもそも食べ物でなくてもよかったのではなかったか。
異世界文化を気まぐれにかじったクロヴィスはそう提案したが、スミレは「でも」と頬を膨らませた。
「バレンタインって言ったら、やっぱりチョコだもん。チョコでないと乙女的には盛り上がらないもん」
「はあ、乙女とは複雑ですねぇ」
気の無い答えを寄越すクロヴィスをじとりと睨みつつ、スミレはさらに頬を膨らませて続けた。
「それに、チョコって美味しいもんじゃない? ヴィーにも、食べられるチョコ作ってあげたいんだ」
「ほう」
「あのヒト、小さい頃からずっと重いもの背負ってきて、今までお菓子なんか嗜む余裕なかったんでしょ。やっとのんびりお茶できる立場になったんだから、いろんなこと楽しませてあげたいよ」
「おやおや……」
スミレの言葉を聞いたクロヴィスの顔には、自然と柔らかい笑みが浮かんだ。
分かり易く溺愛しまくるヴィオラントに比べればいつもどこか冷めた感じがするスミレだが、ちゃんと深く兄を思い遣ってくれているのだと知って、クロヴィスも嬉しかった。
「スミレは、兄上が大好きなんですね」
彼が笑顔のままそう問いかけると、目の前の膨れっ面は少しだけ照れた様子で目を逸らして答えた。
「そうだよ。まさか、知らなかったの?」
「いえ、知っていたつもりでしたけど……改めて実感しました」
「私だって、クロちゃんがルリさん大好きなこと知ってるよ」
「おや、そうですか。もしかして、バレバレですか?」
「バレバレですよ」
大きい弟と小さい姉というデコボコ義姉弟はそう言って、互いに顔を見合わせた。
そして、どちらからともなくくすりと笑うと、今度は頭を突き合わせてあーでもないこーでもないと議論を始めた。
もちろん、“あまり甘くないチョコ”について。
「……ヴィオラント様」
「……うむ」
一方、こちらは宰相執務室の扉の向こう。
並んで立っていたのは、ヴィオラントとルリという珍しい組み合わせだ。
用事を済ませたヴィオラントと、お茶請けのケーキが入った箱を持ったルリは、途中の回廊でばったり出会したのだ。
そうして、他愛ない話をしながら連れ立ってここまでやってきたのだが、ノックしようとした扉の向こうから聞こえてきた会話に、思わず二人とも耳を傾けていた。
愛しい妻の自分に対する健気な想いを聞かされ、無表情と有名なヴィオラントの美貌が柔らかく緩む。
隣に居合わせたルリも、スミレの可愛らしい言葉とクロヴィスの穏やかな声に胸がふわりと温かくなった。
「私は、できるだけ早く甘いものを克服するべきだな」
「あ、あのっ……えっと……お、応援させていただきますっ!」
二人は小声でそう言葉を交わすと、それぞれの愛おしい人が待つ部屋の扉をトントンとノックした。
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