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瑠璃とポッキー
しおりを挟む「……」
大国グラディアトリアの若き皇帝を支える宰相クロヴィス・オル・リュネブルクは、その日も滞りなく政務を終えて居室に戻ってきた。
リュネブルク公爵家の当主も務める彼は、帝都の南西に大きな屋敷を持っているのだが、如何せん忙しい身の上ゆえに毎日の帰宅は難しい。
そのため、王城内に私室を確保し、普段はそこで寝起きをしていた。
長らく一人きりでだったその部屋に、住人がもう一人増えたのはつい一月ほど前のこと。
その同居人――もとい、クロヴィスの妻となった女性は、明るい栗色の髪とラピスラズリの瞳を持つ、ルリという名の十八歳の少女。
数々の浮き名を流しながらも特定の相手を作らなかったクロヴィスを陥落した奇跡の存在は、皇帝の生母であるエリザベス母后陛下の侍女を務めている。
彼女が部屋で待ってくれていると思うと、政務で疲れたクロヴィスの足も軽くなる。
ところがそんなルリの様子が、今宵は少し違っていた。
「……これは一体、どういう状況ですかね? ルリ」
クロヴィスとルリの部屋は、扉を開けるとすぐ広いリビングになっている。
そこに置かれた二人掛けのソファは、結婚後に購入したものだ。
ルリは、そのソファにちょこんと座っていた。
それだけなら、別段クロヴィスが驚くことはない。
問題は、彼がいつもただいまのキスをするために真っ先に触れる、ルリの唇にあった。
「何をくわえているんですか?」
ルリの唇は、何やら見慣れない物体をくわえていた。
まじまじと眺めたクロヴィスには、それがどうやら長細い形に焼いたクッキーのようなものであると知れた。
しかし、ほのかな焼き色がついたクッキーが見えるのは、こちらに突き出されたほんの一摘みほどの部分で、大半はピンク色のもので覆われている。
部屋中に甘い香りを漂わせるそれを眺め、クロヴィスが顎に手を当てて首を捻る。
すると、その視線に耐えられなくなったらしいルリが、一度そのクッキーのようなものを口から離して言った。
「今日は、ぽっきーの日だとスミレ様に教えていただいたんです」
「ああ、そういえば、昼間スミレが遊びに来てましたね。“ぽっきー”って何ですか?」
「この、細く焼いたクッキーのことだそうです」
「ほう」
そう言うルリの片手には、先ほど口から離した細長いクッキー。
そしてもう片方の手には、縦長の紙の箱が握られていた。
そこに書かれた文字は、グラディアトリアやその周辺で使われているものとはまったく違う。
それもそのはず、その箱はスミレという名の黒髪の少女がルリに与えたものであり、スミレは異世界からやってきてクロヴィスの兄であるレイスウェイク大公爵の妻となったいう、奇妙な経歴の持ち主であるのだ。
スミレの世界の文字をいくらか学んだクロヴィスには、その紙箱に書かれた文字が読み取れた。
そこには、こう書かれていた。
『いちごポッキー』
ピンク色が主体の紙箱には、その文字の側に苺の絵が添えられている。
なるほど、細長いクッキー生地の大半を覆い隠し、甘ったるい香りを醸し出しているピンク色のものは、その苺が含まれたクリームらしい、とクロヴィスは理解した。
「それで……そのぽっきーなるものをくわえて、あなたが私を誘惑するのは何故です?」
クロヴィスがそう尋ねると、ルリは「誘惑なんて!」と頬を真っ赤に染めながらも、事情を説明し始めた。
「スミレ様のお国では、ぽっきーの日には、夫婦はそれを両端から食べ合うのが習わしなのだそうです」
「ぽっきーの日?」
「今日……十一月十一日のように、一という字がたくさん並ぶ日のことだと……」
「はあ……」
明らかなこじつけに、クロヴィスは少しばかり呆れた顔をする。
ルリはますます恥ずかしそうにしながらも、さらに続けた。
「私もクロヴィス様と結婚したのだから是非にとおっしゃって、ぽっきーを一箱下さいました。スミレ様も、今日ヴィオラント様となさるのだそうです」
「……なるほど」
ルリの話を聞いたクロヴィスは、彼女がスミレにからかわれたのだと分かった。
スミレはルリの初心さを面白がっているきらいがあり、よくこうして彼女で遊ぶのだ。
しかし、当のルリはというと、スミレを信奉するあまり、無条件に彼女の言うことを信じてしまう傾向にある。
今も恥ずかしそうに頬を真っ赤にして、青い瞳をうるうる潤ませながらも、もう一度スミレの言う“夫婦の習わし”を実行すべく、そのポッキーという名の細長いお菓子の端を口にくわえた。
(チビ義姉上め。やってくれる)
昼間、宰相執務室に顔を出したスミレが、いやににこやかな顔をして肩を叩いて行ったのを思い出し、クロヴィスは眼鏡の下で両目を細めた。
何やら悪戯を企んでいるような笑顔だなとは思っていたが、こういうことだったのかと合点がいった。
今頃スミレは、自分の言葉にそそのかされて大真面目に実行するルリと、それに翻弄されるクロヴィスを想像して、ほくそえんでいることだろう。
それを思うと、クロヴィスの口からは呆れたようなため息がもれた。
ただし、いつも仲睦まじいの兄夫婦の様子を思うと、二人も必ずそうするというのはあながち嘘ではなさそうだ。
お菓子全般――特に甘いものを苦手とする兄ヴィオラントも、その試練を乗り越えた先にある愛妻の唇を味わっているのだろうか。
そんなことを考えると、スミレの悪戯にのってみるのも悪くないと、クロヴィスには思えてきた。
クロヴィスはソファに座ったルリの前に腰を落とし膝をついた。
そして、そっと彼女の華奢な両肩を掌で包み込み、顔を近づける。
「……」
両目を閉じたルリは、緊張のためかふるふると震えている。
すると、彼女がくわえたポッキーもまた、それに合わせて小さく震えた。
クロヴィスはふっと目を細めて笑うと、パクリとその先端を口で捕まえた。
そして、サクサクと音を立てながら、ポッキーを端から食べていった。
最初の一口目は、苺のクリームがかかっていない部分だったので、焼けたクッキー生地のほのかに香ばしい味がした。
続いて苺のクリームの部分に差しかかると、クロヴィスの口の中には一気に濃厚な甘味が広がった。
芳醇な苺の香りと、ほのかな酸味。
それを味わいつつ、クロヴィスはぎゅっと目を瞑っているルリの表情を観察した。
二人の唇はどんどんと近づいていき、触れ合うまではすぐだった。
「……っ」
クロヴィスはポッキーを咀嚼しながら、ぐっと唇をルリのそれに押し当てた。
彼の到達を待つ間、ずっとポッキーをくわえていた彼女の唇には、溶けた苺クリームが付いている。
クロヴィスがそれをペロリと舐めると、ルリの身体はびくんと一際大きく震えた。
最後の一噛みで、くわえた部分のポッキーが口の中に転がり落ちたらしいルリは、それを慌てて咀嚼しながら、恥ずかしそうにクロヴィスの肩に顔を埋めた。
クロヴィスは、顔の横にある真っ赤な耳を唇でくすぐりながら、笑みに弾んだ声でもって問うた。
「この習わしの持つ意味を、スミレは何と言っていたのです?」
「こ、こうして夫婦でぽっきーを一緒に食べると、この後の一年もまた仲良く過ごせると……」
「ほう?」
「あの……スミレ様とヴィオラント様のように、私もいつまでもクロヴィス様と仲良く過ごせるといいなと思って……」
「……」
ルリの言葉に、クロヴィスははあと大きなため息を吐き出した。
呆れたのではない。
新妻のいじらしい願いに愛おしさを募らせた結果、溢れ出たため息だった。
「ルリ」
「はい、クロヴィス様」
クロヴィスは腕の中でまだ恥ずかしそうにしているルリをぎゅっと抱き締め、その耳元に囁いた。
「もう一本、食べさせてください」
「は、はい?」
「いや、その手の箱の中身、全部食べさせてください」
「え? ぜ、全部っ……ですか!?」
クロヴィスの言葉にルリは目を丸くして、手に持った箱の中身と彼の顔を見比べた。
縦長の紙箱の中には、全部で十八本のポッキーが入っていた。
それを全て食べ終える頃には、恥じらいで潤んでいたルリの瞳は見事に決壊していた。
それどころか、初めは身に着けていたはずの侍女服も綺麗さっぱりなくなっていた。
スミレの言った通り、ポッキーのおかげで、ルリとクロヴィスの仲はまた一つ深まったかもしれない。
ただし、それ以後ルリは、ポッキーの話になる度に顔から火を噴くようになった。
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