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第一章 新しい身体と新しい人生

1話 どいつもこいつも愚か者

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 最期に口にしたワインは、血の味がしました。

「──アヴィス!?」

 人の命とは、ひどく儚いものです。
 まさしく、この足下で粉々に砕け散ったワイングラスのように。
 私は今、それを身をもって思い知っているところです。

「アヴィス! アヴィスッ!!」

 ワイングラスの破片の上に崩れ落ちそうになる体を抱き留めてくれた人が、喉を潰さんばかりの声で叫びます。
 私、アヴィス・ローゼオの十八年に及ぶ人生で、もう何度も何度も耳にした声。
 それが今、初めて聞くような悲痛な音で自分の名を紡ぐことに、私はひどく胸が痛みました。

「アヴィス、どうして! いやだ、いやだっ!!」

 艶やかな金色の髪を振り乱し空色の瞳からボロボロと涙を溢れさせ、半狂乱になって縋り付いてくるのは、この雪深いグリュン王国の第一王子、エミール・グリュン。
 ローゼオ侯爵家の娘である私とは、生まれながらの許婚同士でした。
 大人しくて引っ込み思案で泣き虫で、けれども優しくて純粋で虫一匹殺すこともできない、まさしく天使のような男の子。
 私は許嫁として、幼馴染として、きっとどんな悪意や困難からも彼を守っていこうと固く心に決めていたのです。
 ああ、それなのに……

「アヴィス! アヴィス!! お願い、目を開けてっ!!」

 エミールの立太子を一月後に控え、今宵王城の大広間で執り行われていたのは、国王陛下の即位二十周年を祝うパーティーでした。
 この日のためにローゼオ侯爵である兄があつらえてくれた空色のドレスを、口から溢れ出た血が汚してしまいます。
 けれども、私はそれを厭う余裕もありませんでした。
 だって、こんな言葉を耳にしてしまったのですから。

「エミール王子、なんと恐ろしいことをなさるの! ご自分の婚約者に毒を盛るなんて……!!」

 エミールを指差して声高にそう叫んだのは、現国王の第二王妃。
 扇情的な赤毛の女の芝居掛かった台詞を聞いた瞬間、私は合点がいきました。

(私は──いいえ、エミールは、はめられたのだわ!)

 この直前、私はエミールが手渡してくれたワインに口をつけました。
 ワインとグラスを用意した給仕には第二王妃の息がかかっていたのでしょう。
 彼はきっと、この後の取り調べで言うのです。

〝ワインも、グラスも、エミール殿下があらかじめ用意なさっていたものです〟と。

 侍医も侍従長も、おそらくこれを裏付ける証言をするでしょう。
 彼らの主家である公爵家の令嬢は、第二王妃が産んだエミールの腹違いの弟ジョーヌ王子に首っ丈で、その妃になりたいと公言して憚らないのですから。
 線が細くて薄倖そうなエミールよりも、溌剌としていて剣の腕も立つジョーヌ王子の方が国王にふさわしいと嘯く声が少なくないのは知っていました。
 だからといって、まさか立太子を妨げるためにエミールに無実の罪を着せるだなんて──そのために自分が殺されるだなんて、私は夢にも思っていなかったのです。
 現国王陛下の寵愛を受けていたとはいえ、あいにくエミールのお母様の実家は子爵家。公爵家を笠に着る第二王妃に楯突くことは叶わないでしょう。
 しかも、肝心の第一王妃は十年前、私の両親とともに不慮の事故で亡くなっています。
 第二王妃の悪逆を止められなかった時点で、国王陛下に期待することもできません。

「アヴィス、ぼくのアヴィス……お願い、お願いだ……いかないで……」

 エミールの涙がぽたぽたと滴って、私の頬まで濡らしました。
 泣き縋るこの人を遺して、私はなすすべもなく死ぬのです。
 せめて彼の涙を拭ってあげられればと思うのですが、身体はもはやぴくりとも動かなくなっていました。

「──アヴィスッ!!」

 そんな中、騎士団長を務める兄が人混みを掻き分けて駆け寄ってくるのが見えました。
 両親亡き後、親代わりになって育ててくれた兄夫婦に恩返しもできないままなのが悔やまれます。
 今はもう、痛みも苦しみもありません。
 あるのはただ、別れを惜しむ気持ちばかり。

(最期の時というのは、案外穏やかなものなのですね……)

 そう、どこか他人事のように感じたのは、意識が朦朧としていたせいかもしれません。
 ところが、私がそのまま穏やかな死を迎えることは叶いませんでした。

「エミール王子にはきっと悪魔が取り憑いているのですわ! この国に災いをもたらさぬよう、即刻城の外れの塔に幽閉すべきです!!」
 
 さながら演説者のように、大広間の真ん中で第二王妃が叫びます。
 これに真っ先に賛同したのは、公爵家の傍系出身の大臣でした。

「ええ! ええ! 全てはグリュン王国のためです!!」

 すると扇動された者達が、そうだそうだと声を上げ始めます。
 たちまち大広間は、エミールを糾弾する声で溢れ返りました。
 死出の旅路に向かおうとしていた私は、踵を返さざるを得ません。
 だって、天使のようなエミールを捕まえて、あろうことか悪魔憑き呼ばわり。
 それに、私の死が第二王妃の謀略であると気づいている者もきっといるはずなのに、誰も──エミールの父親である国王陛下さえ、声を上げないのです。

「くそっ……アヴィスにも、殿下にも、指一本触れさせるものか!!」

 兄が、エミールと私を背に庇って周囲を睨みつけますが、多勢に無勢。
 糾弾の声はそんな兄までも呑み込もうとしているように見えます。

(ひどい……どうして、こんなひどいことができるの……)

 私は、ふつふつと込み上げる怒りを押さえることができませんでした。
 きっと、死に顔はさぞ恐ろしいものになるでしょう。
 そんな中、さらに私を苛立たせることが起こりました。
 太い丸柱に支えられた天井高くから、豪奢なシャンデリアをすり抜けて天使が一匹現れたのです。
 こちらの気も知らないで、微笑みさえ浮かべて意気揚々と舞い降りてくるお迎え役に、私はいっそう怒りを募らせます。
 もう喋れる状態ではありませんでしたが、私はエミールと兄以外の全ての者に向かって、心の中でこう吐き捨てたのです。


 ──どいつもこいつも


「──どいつもこいつも」


 それは、突然のことでした。
 私の辞世の句を代弁する者が現れたのです。
 私のものとは似ても似つかない、低く艶やかな男性の声でした。

「私の周りは愚か者だらけか。なぜ、誰も止めなかった」

 声の主は苦々しい様子でそう続けます。
 いつの間にかぼんやりと天井を見上げていた私は、はっと我に返りました。
 大きく二度瞬きをしてから視線を正面に移せば、赤い瞳とかち合います。
 その赤は、私が吐き出した血よりもまだ、もっとずっと、鮮やかな色をしていました。
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