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第二章 死に損ないと血に飢えた獣

16話 寝坊助な魔王様

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 鮮烈な赤は、長い銀色のまつ毛の下に隠れてしまっていました。
 すっと通った鼻梁、薄い唇。
 まつ毛と同じ、上質の絹糸を思わせる長く艶やかな銀色の髪に埋もれて、美しいひとは眠っています。
 大きいばかりで飾り気のないベッドに、目が痛くなりそうなほど真っ白いシーツ。
 天蓋から垂れ下がるカーテンも白で統一され、ともすればここが魔界だということを忘れてしまいそうになります。
 この真っ白い世界で眠る美しいひとが、神とは対なす存在――魔王だということも。

「それにしても、よく眠れるものです……」

 一度死んだ私が、この魔界で新しい身体を与えられて目覚めてから、はや一週間。
 その間、魔王ことギュスターヴを観察し続けた私の感想は、〝魔王、めっちゃ寝るやん〟でした。
 このひと、午後十時にはベッドに入り、翌日は午前十時になるまで絶対に起きてきません。つまり、一日の半分寝ています。
 それが悪いとは言いませんが、魔王というからにはもっとこう、退廃的で不健康な毎日を送っていると思っていた私は、正直肩透かしを食らった気分でした。
 それを本人に伝えると、偏見がひどい、と笑われてしまいましたが。

「寝首を掻かれでもしたら、どうするつもりなのかしら」

 仰向けに身体を伸ばしてお行儀良く眠る魔王を眺めつつ、私はそのベッドにのしのしとお邪魔します。
 魔王ともあろう方が、こんなに簡単に侵入を許してしまっていいのでしょうか。
 しかし、私が身体の上に乗り上げても、その胸に両肘をついて顔を眺めていても、一向に起きる気配はありません。
 せっかくなので、携帯端末で寝顔を撮って差し上げます。
 いいですよね?
 とても上手に撮れたので、会員制交流場に投稿してみました。
 えげつない速さで拡散されていますが、かまいませんね?
 めちゃくちゃイイネもいただきました。
 ありがとうございます。
 顔がいい、とは何かの合言葉ですか?
 けれども、やがてお綺麗な顔を眺めるのにも飽きた私は、右手を伸ばして鼻を摘みます。ギュスターヴの、高い鼻を。
 
「……ふが」

 魔王でも、息ができないと苦しいようです。
 ふが、って言いました。ふが、って。
 ぎゅっと眉根が寄って、小さく口が開きました。
 そうすると、これほど綺麗な顔でさえどこか間が抜けて見えます。
 それでもなお惰眠を貪ろうとするなんて、往生際の悪いこと。
 その胸の上にうつ伏せに寝そべったまま上体を伸ばし、今度は半開きの口を塞いでやります。
 私の、口で。
 するとどうでしょう。
 あれほど頑なだったギュスターヴの瞼が薄く開き、わずかに覗いた赤がやっと私を捉えました。
 それに満足して唇を離すと、彼は両目をしぱしぱさせてから、緩慢に口を動かします。

「……アヴィス」
「おそようございます。もう、十時を回りましたよ?」
「おはよう。ところで――今、私の精気を吸ったか?」
「はい、いただきました。ごちそうさまでした」

 精気とは、あらゆるものの根源となる力のこと。
 人間も動物も、天使も魔物も――神や魔王でさえ、これを体内に有しています。
 地界で生きる人間や動物は主に有機物を糧とし生命を維持していますが、魔物の中には他者の精気を糧とするものも少なくはありません。
 魔物の血肉で作られた器のせいか、私もそれが可能になってしまったようです。
 精気を摂取する方法は様々かと思いますが、私の場合は無難に口移しです。
 ギュスターヴは仰向けに寝そべったまま、しばしとろんとした目で胸の上の私を眺めていました。
 やがて、私の背中に腕を回して上体を起こします。
 必然的に自身の膝の上に座る形になった私の頭頂部に顎を乗せ、一つため息を吐きました。

「人間の貴族の娘というのは、一様に貞操観念が高いものだと思っていたが……」

 どうやら、私がいきなり唇を塞いできたのが意外だったようです。
 魔王は存外常識人で、その認識はだいたい間違ってはいません。
 よって私は、うんうんと首を縦に振りました。
 頭頂部に乗っていた顎も一緒にガクガクしましたが、知ったことではありません。

「その通りです。私も生前は、エミールとだって手を繋いだことしかありませんでしたもの」
「ほう。ということは、あれか? 私が初めてのキスの相手ということか? 〝ファーストキスはお父さんと〟というやつか?」
「全然、違います。そもそもお父さんじゃないですし、ギュスターヴは所詮二人目です。あなたが寝ている間に別のひとから精気をいただきましたので」
「なん……だと……?」
 
 そのとたん、シャッと勢いよく天蓋のカーテンが開いて現れました。
 私の、初めてのキスの相手が。

「うふふふふふ……おはようございます、お寝坊さんな魔王様。この私が、アヴィスのハジメテの男です」
「ノエル、貴様……」

 ギュスターヴとは見た目の印象が正反対の側近、ノエルです。
 やたらと天使っぽいと思ったら、本当に元天使らしいです。
 背中にあった翼は魔界に堕とされた際にギュスターヴにもがれたらしいですが、なんだかんだで今は仲良くやっているようです。
 寝坊助な魔王と違って、この側近は朝五時には起きて庭掃除を始めてしまうため、私はばっちり覚醒した彼から正々堂々と精気をいただきました。

「ギュスターヴよりノエルの方が好みです。あっさりしていて」
「おやおやおや、まあまあまあ。すみませんねぇ、魔王様。魔王様を差し置いてアヴィスに好かれるだなんて、恐縮しちゃいますねぇ」
「黙れ、ノエル。あくまで精気の好みの話だぞ。いや、しかし納得いかない。何だ、そのラーメンの食レポみたいな感想は。アヴィス、もう一回しっかり味わってみなさい」
「けっこうです。もう、お腹がいっぱいなのでいらない――いらないですってば!」

 丁重にお断りしているというのに、唇を押し付けてこられても困ります。
 飼い主の愛情過多に無の表情になる猫ちゃんの気持ちが少しだけ分かりました。
 ギュスターヴの胸に両手を突っ張って全力で拒めば、ようやく唇が離れました。
 しかし、片腕で私をガッチリと抱き込んだまま、彼が部屋の外へを呼びかけます。

「オランジュ――オランジュはいるか」
「はぁあい、お呼びですかぁ?」

 返事はすぐにありました。いやに色っぽい女性の声です。
 しばらくすると、ベッドの脇に立つノエルの隣から、声の主と思しき女性の顔がにゅっと生えてきました。
 ノエルに負けず劣らず艶やかな金髪と、生前の私と似た緑色の瞳の美しいひとです。
 ただし、その豊満で魅惑的な身体を包むには、圧倒的に布地が足りていませんでした。
 端的にいえば大事なところを最低限隠しているだけなので、見た目九割以上が肌色です。
 そんなほぼ裸ことオランジュは、私と目が合うとにっこりと微笑みました。
 
「あらぁ、アヴィスちゃぁん。おはよぉー」
「おはようございます」

 生前の私ならば目のやり場に困っていたかもしれませんが、一度死んだ身にはこれしき屁でもありません。
 なんでしたら、屁、なんて単語を使ったのもこれが初めてです。今後も積極的に使っていきたい所存です。
 それはともかく。
 私が目の前の女性の扇情的な姿をガン見していますと、またもや頭頂部に顎を乗せたギュスターヴがため息混じりに口を開きました。

「オランジュ、貴様のそのねっとりとした喋り方、どうにかならんのか」
「どうにかできないことはないんですけどぉ、キャラを立てるためにこのまま参りますねぇ」
「……まあ、いい。ところで貴様、まさかと思うが、アヴィスに血肉を加えてはおるまいな?」
「あらぁ、あんな面白そうなこと、参加しないわけがないでしょーう?」
「なんだと? いったい誰の許しを得て、そんな真似をした」
「もちろん、魔王様のですよぉ。〝いーれーてー〟〝いーいーよー〟ってしたじゃあないですかぁ」

 やったか? やってましたね、というギュスターヴとノエルのやりとりを、私は半眼で眺めます。
 お酒を飲み過ぎるとろくなことにならない、というのがよく分かりますね。
 オランジュは夢魔で、私が精気を糧とできるのはこの身体に彼女の血肉も入っているからだとか。
 ギュスターヴが頭上でやれやれとため息を吐いていますが、やれやれと言いたいのはこちらの方です。

「ほんの少しの血肉でも意外と影響するものだな。それで、ノエル。アヴィスに血肉を与えた者は、私と貴様とオランジュと……他に誰がいる?」
「さあ? なにせ、私もベロンベロンでしたので」

 魔王と側近がそんなことを言い交わしている隙に、後者の脇の下を潜って夢魔が身を乗り出してきました。
 何が嬉しいのか満面の笑みを浮かべた顔が迫り、ぽってりとした唇が私のそれを塞ぎます。
 と同時に、すうっと身体の力が抜けるような感覚を覚え、私はとっさにギュスターヴの胸に縋りつきました。
 どうやら、オランジュに精気を吸われてしまったようです。
 彼女はすぐさまギュスターヴに引き剥がされましたが、相変わらずにこにこしたままとんでもないことを口にしました。
 
「んまあぁ、アヴィスちゃぁん。あなたの精気、魔王様と同じ味だわぁ」
「えっ、そんな……くどいってことですか? すごく心外です」
「うふふ、アヴィスちゃんはまだ味覚がお子ちゃまなのねぇ。これはくどいんじゃなくてぇ、コクがあるって言うのよぉ?」
「おい、ひとの精気をチーズみたいに評価するのはやめろ」

 ちなみに、私があっさりして美味しいと思ったノエルの精気は、オランジュに言わせれば熟成の足りない安物のワインだそうです。
 なんだか貧乏舌と言われたようで癪ですが、安物のワイン呼ばわりされたノエルの方がもっと業腹でしょう。笑顔なのが逆に怖いです。
 一方ギュスターヴは、私から引き剥がしたオランジュを突き放し、しっしっと追い払う仕草をしながら、それで? と続けました。
 
「私はな、私の血肉で健気に生きているアヴィスがとにかく可愛くてならんのだが、貴様らとしてはどうなんだ?」
「もちろん、可愛いですよ。我々も、血を分けた子なんて持つの、初めてですので」
「元天使様に同感ですぅ。相手が魔王様じゃなかったらぁ、力尽くで奪い取ってぇ、巣に持って帰ってぇ、ずうっっっと独り占めしておきたいくらい、可愛いですねぇ」

 自分の血肉でできた存在が可愛いって……それは結局、自己愛なんじゃないでしょうか。
 そう思いましたが、私は賢明にも口にはしませんでした。
 地界に戻ってあの豹変したエミールともう一度対峙する勇気はまだありませんし、かといって自分を殺した憎き天使の総本山である天界になんて絶対に行きたくありません。
 となると、今のところ私の居場所はこの魔界しかないわけで、それならば魔王やその側近達の後ろ盾はあるに越したことがないでしょう。
 そんな打算が働いてにっこりと愛想笑いを浮かべる私に、魔界人達の眼差しはたちまち生まれたての赤ちゃんを囲んでいるかのようなほのぼのとしたものに変わりました。
 どいつもこいつも、どうかしています。
 
「それでは、ギュスターヴも起きたことですし、出かけて参ります」

 私は顔に笑みを貼り付けたまま、そう断ってギュスターヴの腕の中から抜け出しました。
 この自称〝アヴィスのお父さん〟は、こうしてちゃんと筋を通しておけば、さほど私のすることに干渉してこないのです。
 ただし……

「携帯を忘れず持って行け。五時まで戻らねば迎えにいく」

 門限五時は健在です。
 なんだかんだ言いつつ、ギュスターヴはちゃんとお父さんっぽいです。
 けして、口にはしませんが。


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