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第三章 魔王の子、召喚

23話 フラグを立てる

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 世界は、大きく分けて三つで構成されています。
 全知全能の神がおわす天界、人が蔓延る地界、そして――魔物の跋扈する最果て地、魔界。
 私が地界で十八年の生を終え、この魔界で新たな身体を与えられて、はや半月が過ぎました。
 いまだ、生前と色違いになってしまった髪と瞳は見慣れませんが、それでもまあなんとか面白おかしく魔界ライフを満喫していたのです。
 それなのに……

「ぐふふふ……恐ろしいか、小娘! 恨むなら、魔王の子として生まれたことを恨むんだな!」

 私はこの時、暗い地下の底に横たわる洞窟で、おぞましい相手と対峙しておりました。
 毛むくじゃらの八本の足を持つ、巨大な蜘蛛の姿をした魔物です。
 ちょっと動くだけでガサガサワサワサゾワゾワと、騒がしいったらありません。
 ぐふふふって何なんですか、その下品な笑い方。お里が知れますわよ。
 どうにもこうにもムカムカした気分を抑えられないまま、私はキッとそいつを見上げて口を開きました。

「ところで、クモ太郎」
「クモ太郎ぉ? 誰だ、そいつは! オレはクモ之介だぞ!」
「はあ……クモ吉でもクモ右衛門でもクモノビッチでも何でもいいですしどうでもいいですけれど、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「なんだよ、クモノビッチって、どこ出身だよ!? って、なんだ、尋ねたいこととは!」

 挙手をして質問の許可を求める私に、クモ之介とやらは八本の足をギチギチ鳴らして向き直ります。
 暗闇の中にありながら、二列に並んだ八つの目がギラリと禍々しく輝きました。
 それを目にして、おぞましいとは思っても、恐ろしいとは思わないのは、この身がすでに人ならぬものであるばかりか、魔界の頂点たる魔王の血肉であるがゆえでしょう。

「あなたの恋人であるクモ美が魔王ことギュスターヴに殺された報復として、私は今こうして攫われてしまっている、という認識で間違いございませんか?」
「そうだ! 魔王は、お前を殊更可愛がっているというじゃないか! 大事なものを成す術もなく奪われる苦しみを、あの野郎にも味わわせてやるっ……!!」

 私のこの身体が魔界で爆誕したその日の朝、魔界の門から忍び出そうとした愚かな魔物が一匹、魔王ギュスターヴの手によりバラバラになりました。
 それが、このクモ之介の恋人、クモ美だったというのです。
 それにしましても、魔界の最高権力者を〝あの野郎〟呼ばわりするとは、恐れ入ります。
 鎌状になった鋏角をギチギチと鳴らしながら息巻く相手にドン引きしつつ、私はもう一度小さく手を上げました。

「では、もう一つお聞きします。私を攫ったまではいいですが、その事実はギュスターヴに伝わっているのでしょうか? 脅迫状やら犯行声明やらはちゃんとお出しになりましたか?」
「脅迫状? 犯行声明だとぉ? そんなものなくても、子が行方不明になったら、魔王の野郎だって……」
「お言葉ですが、あの方は少々私の姿が見当たらなくてもそこいらで遊んでいると思っていらしゃいますよ。門限の五時にならないと迎えにきません」
「門限五時かよ! 過保護か!」

 そうなのです。半月経っても、私の門限はいまだ五時のままなのです。
 逆を言えば、午後五時になると、私が魔界のどこにいようともギュスターヴが簡単に探し出して城に連れ戻してしまいます。
 ですので最近では、歩いて帰るのが面倒になったら五時までその場で時間を潰すという、合理的かつ効率的な毎日を送っておりました。
 しかしながら、現在の時刻はまだ午後一時を回ったところ。
 門限まで四時間近くありますし、それまでこのガサガサワサワサゾワゾワとそこにいるだけで騒がしい相手と一緒なのは心底ご遠慮願いたいところです。
 携帯端末で連絡できればいいのですが、あいにくこの地下深くまでは電波も届かないらしく、圏外になっております。
 そういうわけですので、私は一刻も早くこの状況を打開すべく、最も合理的かつ効率的な手段に打って出ることにました。

「お手数ですが、あなたのその鋭い爪で、私の腕をプスリとやっていただけませんか?」
「何だとぉ!?」
「おっしゃる通り、ギュスターヴは私の〝お父さん〟を自任していらっしゃいます。私の血が流れたと知れば、あの方も焦るかもしれませんよ。魔王の焦っている顔――見たくありませんか?」
「……み、見たい」

 かくして、クモ之介の鎌の先みたいな爪が、私の左腕にサクッと突き刺さります。
 この紛い物の身体には痛覚が備わっておりませんので、痛くも痒くもないのですが、自分の中に異物が入り込むというのはやはり気持ちのいいものではありませんね。
 傷口から鮮血が溢れ出すのを感じれば、自ら望んだこととはいえ少しばかりぞっとしました。
 ぽたりっ、と一滴。
 私の血が硬い岩盤の上に垂れる音が、いやに大きく響いたような気がしました。
 そのとたんです。


「――私の子に何をする」


 突然灯りが点いたみたいに、洞窟の底がぱっと明るくなりました。
 魔王ギュスターヴ――その上質のシルクのごとく銀髪の一本一本が発光し、辺りを照らしているのです。
 魔王のくせに、やたらと神々しい登場です。
 けれども、クモ之介がその光景を目にすることはありませんでした。
 もちろん、魔王の焦り顔を見ることも叶いません。
 なぜなら彼は、ギュスターヴが現れると同時に細切れになってしまったのです。
 もしかしたら、魔王が来たことに気付く暇もなかったかもしれません。
 私の左腕を刺した爪なんて、もはや粉末です。
 とにかくクモ之介は、悲鳴を上げる間もなくクモ美のもとに召されてしまいました。
 ギュスターヴの方も、クモ之介という存在をどれほど認識していたでしょう。
 その残骸になど目もくれず、現れた瞬間から彼の視線が捉えているのは私ただ一人でした。

「城から出たとは思っていたが……アヴィス、これはどういう状況だ」

 グリュン城でエミールと対峙した時は、子供の喧嘩に親が口を出すべきではないだのと言って、自分と私以外の者の動きを封じただけでしたが、相手が魔物であれば一ミクロンも容赦をしないようです。
 私が、今し方自分の身に起こった出来事を掻い摘んで説明しますと、ギュスターヴはそのお綺麗な顔をわずかに顰めました。

「事情は分かった。しかし、アヴィス。軽率に血を流すのはやめろ」
「ですが、ギュスターヴに気づいてもらおうと思ったら、血を流すのが一番手っ取り早いではありませんか。別に痛くも痒くもありませんし」
「私の心が痛むのだ。お前はまだ親になったことがないから分からないのだろうが、可愛い我が子が血を流す姿を見ることは、我が身を引き裂かれるより辛いことなんだぞ」
「……親になったことがないのはお互い様でしょう」

 ツカツカと歩み寄ってきたギュスターヴは私を抱き上げ、有無を言わさず口付けました。
 流れ込んできた精気は、今日もやっぱりちょっとくどいですが、傷には覿面。たちどころに塞がります。
 おかげで傷ひとつなくなった私を検分して、ギュスターヴはようやく満足そうに頷きました。
 眉間から皺が消え、それこそ彫刻のように完璧で美しい魔王の顔をまじまじと眺めた私は、それにしましても、と口を開きます。
 
「クモ美は罪作りな方でしたのね。このクモ之介も、クモ太郎もクモ吉もクモ右衛門もクモノビッチも、クモンスキーもクモンベルトも、みなさんご自分が彼女の唯一の恋人だと思っていらっしゃいました」
「待て、アヴィス。クモノビッチまでは把握しているが、クモンスキーとクモンベルトは初耳なんだが?」
「クモンスキーは三日前。話し合う余地がございましたので、クモ美に他に何人も恋人がいたことをお伝えしましたところ、あっさりと解放してくださいました。今は、クモ江という新しい恋人と楽しくやっていらっしゃいます。ちなみに、相互フォロワーです」
「……そうか。クモンベルトは?」

 いまだ、私にブロックされたままのギュスターヴは、ちょっぴり切ない顔をします。
 なお、ギュスターヴの寝顔と、彼とヒヨコと三人でタピオカを食べている写真を投稿したのをきっかけに、私は一気にフォロワーが増えて見事インフルエンサーの仲間入りを果たしました。

「クモンベルトにお会いしたのは昨日のことです。むしゃくしゃしていたので、声をかけられた瞬間振り向きざまに殴りつけてやりましたら、泣いて謝ってきたのでもう一度殴りました」
「クモンベルトはまだ声をかけただけではないか。泣いて謝ってきたのなら少しくらい話を聞いてやったらどうだ」
「いやです。だって、むしゃくしゃしていたんですもの」
「そうか……」

 なお、素手ではなく得物で殴りました。
 半月前に骸骨門番のプルートーから奪った彼の大腿骨のことです。
 門番の大腿骨――略してモンコツ。
 プルートーは返せと言っているそうですが、知ったことではありません。

「勇ましいのは結構だが、極力怪我はするな」

 ギュスターヴはため息交じりにそう言って、今はもう傷の癒えた私の左腕を撫でました。
 この魔王は多少説教くさいところはありますが、兄と違ってしつこくないので相手をするのも楽ちんです。
 私はそんな彼の首に腕を回して言いました。
 
「ヒヨコがいたら、あんなクモ達なんてすぐに追い払ってくれたんです。ヒヨコはまだ帰らないのですか? 私の可愛いあの子を、いったいどこへやってしまったのです?」
「なんだ、あの死人が不在なせいでむしゃくしゃしているのか。あれは、お前のために強くなりに行っているのだぞ?」
「あれ以上強くならなくてもいいです。ヒヨコの手に負えないものは、ギュスターヴがやっつければいいだけです。できるでしょう?」
「まあ、できるがな。だが、お前に狂信的に尽くそうとするあいつのことは、私も嫌いではないのだ」

 吸血鬼ジゼルに歯が立たなかったことから、ヒヨコは生粋の魔物と渡り合える力を付けるために、ギュスターヴが紹介した相手のもとへ修行にいってしまいました。
 ジゼルとの一件のすぐ後のことですから、ヒヨコとはもう半月も会っていません。

「私のヒヨコのくせに、私の反対を押し切って行ってしまうだなんて、許し難いことです。万死に値します」
「まあ、あいつはもう死んでいるが」
「帰ってきたら、たっぷり文句を言って差し上げねばなりません。ヒヨコがいない間、私がどんなにクモ達に煩わされたのか、じっくり聞かせてやらねばなりません」
「そうだな。ところで、結局クモンベルトはどうなった?」

 クモンベルトは私に殴られているうちにだんだん気持ちよくなってしまったことから新たな性癖に目覚め、クモ美との思い出を胸に新たなクモ生を歩き出していらっしゃいます。ちなみに、彼も相互フォロワーです。

「ギュスターヴ、ヒヨコを返してください」
「じきに戻る。あれはもう、お前なしでは存在できない化け物だからな」
「化け物? 化け物とはなんですか。聞き捨てなりません。あんなに愛らしいのに!」
「魔物でも、もはや人間でもない。お前に対する思慕だけで屍となってもなお成長するあれを、化け物と言わず何と言おう」
 
 ふかふかのマントの襟に頬を埋めて文句を垂れる私の頭を、ギュスターヴの大きな手が優しく撫でます。
 巨大でおぞましい魔物を触れもせずに屠るその手は、私に対しては優しいばかりでした。
 不覚にも心地よくて、うっとりと目を閉じておりますと、何やらじっとギュスターヴに見つめられている気配がします。
 やがて、彼が囁くように問いました。

「……アヴィス、眠ったのか?」
「眠ってませんけど」

 私がすかさず答えますと、彼はがっかりしたようなため息を吐きます。

「お前はどうして眠らないのだろうな……」
「さあ? でも、別に眠くありませんし、眠らなくても動けますし、問題ないと思いますけど」
「問題ないわけがあるものか。睡眠は大事だぞ。現に、私は毎日十二時間は寝る」
「知ってます」

 十二時間はさすがに寝すぎだと思いますが、それで魔界がうまく回っているのならば、新参者の私がとやかく言うことではありません。
 そうこうしているうちに、ギュスターヴが洞窟の硬い岩盤をブーツの底でコツンと蹴りました。
 とたんに眩い光に包まれて、私はぎゅっと目を瞑ります。
 次に瞼を開いた時には、私達はすでに魔王城の門前へと戻ってきておりました。
 門番のガーゴイルがぎょっとした顔をしておりますが、ギュスターヴは気にも留めず、私を抱いたまま門を潜ります。
 
「私はこの後、城の地下に用がある。地下ではお前の気配も察知しにくいため、何かあってもすぐには駆けつけられないかもしれない」
「はあ」
「そういうわけだから、今日はもう城の中で大人しくしていなさい」
「お言葉ですが、ギュスターヴ。私はいつでも大人しくしているんですよ? 周りが勝手に騒がしくするだけです」

 私の反論に、分かった分かったとおざなりな返事をした魔王はきっと知らないのでしょう。
 彼のさっきの忠告は、世間では〝フラグを立てる〟と言われることを。
 そして、私も知りませんでした。
 洞窟の底に一滴垂れた私の血に、熱い視線を注ぐものがいたことを――。


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