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第三章 魔王の子、召喚

30話 お願いだから消えてちょうだい

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 血塗れの廊下に、一際太陽の光が差し込んできました。
 私の肩に止まっていたジゼルは、それから逃れるように柱の陰に移動します。
 黒から白銀色へと変わった私の髪が光を受けてキラキラと輝く一方で、陰になった客間の入り口に立つその人の表情は、暗く闇に沈んでしまっているように見えました。

「……あね、さま?」

 家令やメイド長、彼らの三男であるトニー、その他のローゼオ家の使用人達も、驚きこそしたものの蘇った私を受け入れ、再会を喜んでくれました。
 エミールはこの色が気に入らない様子ではありましたが、再び生きて出会えたこと自体は涙を流して喜びましたし、兄に至っては生きてさえいてくれればいいとまで言ってくれました。
 グライスとパルスだって、魔法陣で魔界から召喚された私を生前と変わらぬ様子で慕ってくれています。
 だから――私は、楽観しておりました。
 義姉様も当然、私との再会を手放しで喜んでくれると思っていたのです。
 きっと、兄と同じように私をぎゅっと抱き締めて、色なんてどうでもいい、どんな形でも、どんな姿でも、アヴィスが生きているのなら、と言ってくれると信じて疑いもしなかったのです。
 しかし……

「いや……いやよ! どうして! どうして!?」

 私はここでようやく現実を知ります。
 私を見つけた義姉の顔に浮かんでいるのは喜びなどではなく、恐怖と嫌悪と――そして、凄まじい絶望でした。

「どうして戻ってきてしまうの? やっと……やっと、あなたから解放されたのに!!」

 伯爵家の三女であった義姉は、期待に胸をふくらませて格上であるローゼオ侯爵家に嫁いできたのだと言います。
 ところが、彼女の夫――グラウ・ローゼオは、妹の私と第一王子エミール、それから騎士団にしか興味がありませんでした。
 その上、思わぬ事故で早々に先代夫妻が亡くなってしまって、義姉は右も左も分からぬまま一家を仕切らねばならなくなります。
 幸いにも、当時すでに双子を身籠っていたこともあり、使用人達は義姉に対して協力的でしたし、兄は家のことには無頓着なので彼女の仕事ぶりにケチをつけることもありません。
 それでも、義姉にとって精神的に多大な負担を強いられる存在がありました。
 それが、私だったというのです。

「アヴィスの母親役なんて――本当は、したくはなかった」

 真正面から投げつけられたその言葉に、私は全身に冷水を浴びせられたような心地になりました。
 そんな私から顔を逸らし、義姉が苦しそうな声に続けます。

「でも、そんなことは言えなかったわ。だって、あなたを蔑ろにしたら追い出されるのは私だもの。グラウも、家令もメイド長も、他の使用人達も……みんな、アヴィスの味方だった」
「あね、さま……」
「必死だったのよ。必死に我慢して、いい義姉を演じていたの。アヴィスはじきに王太子妃に、そして王妃になる。私は一介の侯爵夫人には収まらず、王妃に慕われる義姉という立場を手に入れられる――そう、何度も自分に言い聞かせてここまできたの」
「……あねさま……」

 私は、一歩二歩と後退りました。
 柱の陰では、ジゼルが再び傍観に徹しています。

「それなのに、呆気なく死んでしまって……私は何のために、十年も我慢させられたのかと悔しくなったわ」

 両の拳を血に染めたドリーは、私と義姉をおろおろと見比べます。
 グライスとパルスは、物陰に隠れたまま母の独白に耳を傾けていました。

「けれど、同時にほっとしたの。もう、いい義姉なんて演じなくていい。自分が産んだわけではない子供の母親役を務めなくていい、と」

 そうして最後に義姉は、さも辛そうに言うのです。



「お願い……お願いだから消えてちょうだい、アヴィス。これ以上、私の人生を掻き乱すのはやめて……」



 私は、なんと言葉を返せばいいのか分かりませんでした。

「義姉さま……」

 義姉が十年もの間、こんな思いを抱えていたなんて知らなかったのです。
 彼女が自分を愛してくれていると信じ、疑ったこともありませんでした。
 自分の存在が、この愛おしく慕わしい人を苦しめているなんて、考えも及ばなかったのです。

「ごめんなさい……」

 なんて、傲慢で浅はかで、そして愚かな人間だったのでしょう。
 私は、自分が恥ずかしくてたまらなくなりました。
 それでも、逃げ出したくなるのをどうにかこうにか堪え、その場に踏み止まります。

「何も知らずに甘えてばかりで、ごめんなさい……」

 消えろと言われたのですから、一刻も早く義姉の目の前から去るべきなのかもしれません。

「ご恩返しもできないまま、死んでしまって申し訳ございませんでした」

 けれども、その前に、どうしても伝えておかなければいけないことがあったのです。

「この年まで育ててくださり、ありがとうございました。義姉様が側にいてくださったから、私は少しも寂しい思いをせずに参りました」

 私は深々と頭を下げます。
 そうして、半月前――毒入りワインを飲まされて迎えた突然の死によって、義姉に告げることも叶わなかった言葉をここに残すのでした。



「義姉様の今後の人生が幸多からんことを、心よりお祈り申し上げます」



 しん、とその場が静まり返りました。
 いえ、グチャグチャと、傭兵達の成れの果てが前大臣を貪っている音だけは響いておりますが、ドリーも、ジゼルも、物陰に隠れたままのグライスとパルスも、そして義姉も誰も口を開きません。
 重苦しい沈黙が、永遠に続くかと思われた――その時でした。


 ぽたりっ、と一滴。


 何かが足下に滴り落ちる気配がありました。
 そういえば、男に頬をぶたれてからずっと鼻の奥がムズムズしていて、こんなどシリアスな場面で鼻水を垂らしてはさすがに沽券にかかわると危ぶんでいたのです。
 やがてグリュン国王となるエミールの許嫁として、清く正しく慎ましく生きてきた私は、これまで鼻水を垂れるに任せたことなどありませんでした。
 ですから、いよいよ垂らしてしまったと思った瞬間は焦りましたが、しかしよくよく考えれば、もはや王太子妃にも王妃にもなれない私が少々鼻水を垂らしたところで、誰に迷惑をかけることもないでしょう。私一人が恥をかくだけです。
 そう開き直った私は、記念すべきハナタレ第一号の軌跡をこの目に焼き付けてやろうと、床に視線を落とし……

「あら……」

 そこに、ぽつり、と赤い点を見つけて瞠目します。
 驚きました。
 どうやら垂らしたのは鼻水ではなく……

「もしかして、鼻血……?」

 そう呟いた時でした。


 ――カツン


 ふいに、靴音が響きます。
 次いで、床をまじまじと眺めていた私の視界に、黒い靴の先が割り込んできたのでした。
 とたん、ひゅっと息を呑む声が聞こえましたが、ドリーでしょうか。
 しかし靴は、彼女のものでも、双子のものでも、ましてや義姉のものでもありません。ジゼルなんてコウモリ姿ですから論外です。
 そもそもそれは、どう見ても男物の靴でした。
 一体誰が、と思った刹那のこと。
 さらに視界に割り込んできた手のひらに顎を掴まれ、私は顔を上げさせられます。
 その手の形にも、大きさにも、感触にも、ぬくもりにも、そして優しさにも馴染みがあったものですから、抗おうなんて気持ちは少しも覚えません。
 はたして、床から移った私の視界に現れたのは、思った通りの相手でした。


「……ギュスターヴ」


 白銀色の髪と赤い瞳をした、やたらと尊大で馴れ馴れしく――そして、とても美しい魔界の王が、真っ白い毛皮の襟付きマントをはためかせて悠然と佇んでいます。
 なぜギュスターヴがここに、なんていうのは愚問でしょう。
 私が少しでも血を流せば、この自称〝アヴィスのお父さん〟は、どこにいたって飛んできてしまうのですから。
 たとえ、それが鼻血でも。
 とはいえ、この時のギュスターヴは、私も初めて見るような顔をしていました。
 それはもう、これぞ魔王とでもいうべき、凄まじい形相だったのです。

「――誰だ」

 低く、深く、重い声が、静かに問いました。
 とたんに、日の光が差し込んでいたはずの廊下が一気に暗くなった気がします。
 ギュスターヴは私の顔を――さっき男にぶたれた左の頬を凝視しているようでした。
 鮮血よりもまだあざやかな赤い瞳の奥では、ごうごうと炎が燃え盛っているように錯覚します。
 彼は私の顎を掴んだまま、その親指の腹で唇の端を撫でて続けました。

「誰が、私の子をぶった」

 魔王は――いえ、〝アヴィスのお父さん〟は、どうやらたいそうお怒りのようです。


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