ゆめうつつ

平野耕一郎

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第二章 復讐

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 記録十七
 日付:二〇二三年七月十六日
 時刻:午後九時
 場所:東京都墨田区緑三丁目キャリオール五〇二号室のダイニング

 細い針のようなものが分厚い皮膚を押している。痛みがある。目覚めが悪いときは強めに押すよう言っていたが、ちょっと強すぎる。
 目覚めの時。視界の先に映る優里は聖母の微笑みをもって私を起こした。
 夢と現実を区別する合図。私は実家に帰る夢を見ていた。
 いつもの夢だ。
 恋人の優里はベッドで寝ている私の手首に爪楊枝を押し当てている。
 別に変な趣味があるわけじゃない。仕方がない。この合図が私には必要だ。右手首を見て私は安堵する。右手首に赤いうっ血があり爪楊枝の痕だ。
「あんまり笑いながら爪楊枝で刺さないでくれないか?」
「なら真顔でグサグサ刺すようにすればいい?」
「オッケー。今のままでいい。今日の合図は強すぎる」
「加減したつもりだけど」
 優里は首を傾げた。
「だいぶ痕が残っているようだが。優しくしてもらいたい」
「いいけど。それで時間は?」
「午後九時ですよ。旦那様のお目覚めの時間です。やるんでしょ、復讐の議事録」
 あーと大きなあくびが出る。私は二十年前に家族を失ってから体調が崩しがちになった。火事の記億が蘇るストレス障害により寝つきが悪くなっている。
 どうにもならなくなって心療内科の医師からベンゾジアゼピン系の睡眠導入剤ハルシオンの処方をされた。症状は和らいだが、副作用が起きた。
 睡眠導入剤は脳機能を抑制する力があり、物忘れや眠気という副作用と絶えず戦っている。
 過去の反省から量を減らしている。これでも効力は強いから意識が半日ほど飛んでしまう。薬を変える、投薬を一切やめることも考えたが、そのとたんにあの忌々しい焦げた記憶が蘇って苛まれる。
 おかげで私は職を転々とする生活を続いていると仕事は基本三か月も持たない。優里の支えと両親が私に残した遺産と、遺族年金で食いつないでいる。
 私はテレビを付けた。テレビは芸能人の吉森さとみの実子誘拐に関するニュースで大騒ぎになっていた。どのニュース報道も、ネット記事も、さとみの件でもちきりだ。
 これでさとみは終わりだ。
「ホットミルクを入れてくれないか」
「今日はどうするの? もうあいつらは制裁を受けたわけだし、治療に専念しないの?」
 その通りだが、事情は変わった。なーちゃんの存在だ。
 私は過去のデータを見て振り返る。
 家に忍び込み家に火を放ったのは北宮弘毅、武田知名、川内猛、吉森さとみである。証拠を掴めずにいたところから始まる。
 十三歳だった私は焼け果てた実家を離れて親戚の家で生活を始めていた。時が過ぎていく。私は復讐をする気力がなくなっていった。
 カメラへの録画を続けてきて六年が経った。部屋はだいぶ録音テープで溢れかえっていた。私に復讐をする意思を与えてくれたのが優里だった。
 私は四人をスキャンダルで社会的に抹殺した。命は奪わず社会的に葬り去る。私たちはあらゆる職業になりすまし、四人に近づいて地獄の淵に叩き落とす。
 それで終わるはずだった。実際、四人は一生を棒に振っただろう。
「はい」
 コトリとホットミルクが入ったマグカップが二木製のテーブルに置かれた。寝起きにまず飲むのがこれだ。乳白色のミルクを私は漫然と見ていた。
「飲んで」
 私は手元のマグカップを取らず、優里の手元にあったそれを取る。
「なに、どうしたのよ?」
「念のためだよ」
 テーブルに座り、三角台に設置したカメラを見る。私はスクラッチブックに日付、撮影時刻、場所を記載する。
 始めようか。
「二〇二三年六月二十六日午後九時二十三分十秒。お相手は西本正夢と」
「希坂優里でお送りします」
いつもの切り口はラジオ感覚だ。私の所持しているiPhone十三の録音アプリに向かって言葉を投げかける。
「復讐は終わったかにみえた。でもそうじゃない可能性が表れた」
 私はカメラのレンズを見つめる。映し出されるのは私の過去。足跡は確実に残し齟齬を無くす。 
「どういうこと? 説明をお願いね」
「なーちゃんが火を付けたと、さとみは俺に言った。養護施設にレイナがいただろう。あいつが真犯人の可能性がある。君の姉さんだ」
「何でわかるの?」
「あの日、君は私を助けに来てくれた。君はずぶ濡れだった。なぜだ?」
「だって火が付いていたから」
「おかしいだろ。まるで火が付いていることを予見していたようじゃないか。それに私の家には鍵が閉まっているのにどうやって入った?」
「開いていた窓あったから入ったの」
「違うな。私の部屋は三階にあってテラスがないから、よじ登るものがない。君は当時十歳じゃないか。物理的に外から入るのは無理だ。なら答えは一つだ」
 優里は澄ました表情でいた。
「君はそもそも最初から自宅にいた。これが答えだ。次に君は私に飛び火しないように自分に水をかけたんじゃないのか? 水はどこで用意した?」
「知らないわよ。何が言いたいの?」
 私は一度口をつぐんだ。
「火を付けたのは君じゃないかと言っている」
「変だよ。火を付けたのは私の姉さんでしょ」
「そうだ」
「だったら」
 私は手を出して制した。もはや言い訳は聞かない。
「君がレイナで、私の家を放火した犯人だ」
「違うわよ! なんでよ。正夢が言っていたじゃない。手に傷があるほうがニイナだって」
「傷はあって当然だ。ニイナ、いや優里のふりをして最初から私に近づいたんだから」
 私は優里の手を握ってみる。
「こんな傷跡で姉妹の区別を付けていたのが間違っていたんだ。そもそも君は何で右手首を怪我したんだ?」
 私はじっと優里をにらんだ。
「火事において怪我をする場所は背中が多いんだ。なぜなら誰だって火元から逃げようとするからね。君の怪我は右手首を中心とした手だけだ。ガソリンタンクを四人を使って家に運び入れ、火を付けたときに火傷を負ったんだ」
 入院していたときの記憶がよぎる。
「そうだと仮定してさ、私が火を付ける理由って何?」
「父さんへの復讐だ。君は父の性的暴行の被害者だろ」
「違うわよ。証拠ないでしょ?」
 アッアッ……
 頭によぎるうめき声。トイレの隣の螺旋階段から聞こえる獣人の本性を表した父の声だ。
「私の疑問についてはどうだ?」
「二十年前の話。覚えているほうが変」
 記憶は脳という引き出しに煩雑に入った過去の残存。私は逃げまどう過程で記憶を引き出しのどこかに置いてきた。やがて無意識のうちに忘れた。
 十三の少年の精神が崩れる。燃え盛る炎が焼いたのは家だけではない。人は都合の悪い過去を忘れるようにできている。
 私はどう切り出していいか困っていた。だから矢継ぎ早に調べて優里に吐露した。
「父の素顔は知っているだろう。よく子どもを家に招き入れていた。あの日は、レイナが相手をしていた。君は父のお気に入りだった」
「確かにお父さんがロリコンさんなのは知っているけど。手は出されていない」
「いや。私は聞いた」
 私と父の部屋の間に合った空き部屋は子どもたちの部屋だ。夜な夜な父は自らの欲望を満たすために部屋を訪れる。火事の日は地下室からだった。
 四人が火を放ったとでっち上げの情報を信じ込ませる。四人が犯人である前提をもとに捜査を続けていた。思い込みとは恐ろしい。
「ね、私が犯人ならどうして正夢を助けるの? 矛盾しすぎじゃない?」
「そうだ。単に復讐するだけなら矛盾している。私はレイナについて少女を考えた。養護施設ではリーダー格の子で周りを従えていた。常に己の利益を追求する。
 十歳の少女は、私が裕福な坊ちゃんと知り、財産を狙った。お人好しの坊ちゃん以外を殺す。自分は四人がやったと信じ込ませて、助けに来たという。パニック状態の坊ちゃんは信じる。復讐ごっこをしながら、財産を狙う。それだけの筋書きをレイナは考える」
「正夢の話が事実なら私は悪魔だね」
「悪魔……」
 人を不幸にして喜ぶ悪魔的な傾向を見たから私は交際をやめたのだ。
「とにかく終わっていない。四人は利用されていただけだ。あいつらだけじゃない。実は俺も。すべては金のため。違うか?」
 体を蝕まれた少女はこれ以上侵されないよう反撃に転じたのだろう。十二歳の少女は父の部屋に火を放ち、すべてを灰にした。
 私は助けられた。発症した記憶障害を利用して北宮弘毅、武田知名、川内猛、吉森さとみの犯行だと植え付けられていた。
 薄い目を少しだけ開く。吉森さとみが最後に言葉を話した。もう一人の、なーちゃんの存在。私は悪いほうと勝手に呼んでいた。
「さとみが嘘を言っていない証拠はあるの?」
「録音していた音声を何度も聞いたが、嘘をついているようには思えない」
「何だか証拠がみたい。それじゃ推理になっていないよ、迷探偵さん?」
「ぼくは探偵じゃない。正直に認めてくれないか?」
「証拠」
「ペンダントだよ。実はぼくは本当のニイナに会っている」
「は?」
「さとみの件が片付いた後だ。ばったりとニイナに会った。最初は信じられなかったが、私が挙げたペンダントを持っていた。あの中には遺言書が入っている。
 私は十年前に大切なものが入っているから捨てないでくれと言っておいた。君がニイナなら捨てるはずがない。これでどうだい?」
 優里はじっと私をにらんでいた。
「復讐を終わりにしよう。罪を認めてくれないか、その意思があるなら一緒に警察に行こう」
 私はギュッと片手で肩を強く握った。
「ハハ、お前の心が晴れたのか?」
「僕はそう信じている。どうした?」
 私はお前と呼ばれギョッとした。ガラリと口調が変わったからだ。
「当ててあげよう。正夢がどうしたいか? 何をしようとしているか?」
 私は答えなかった。
「自首してくれ。私は君を殺したくない」
「待て。少し休んだどうだ?」
 台所でコップに入れた白濁とした水を持ってきた。
「半錠なんてだめだ。もっとしっかり飲め」
「薬にも頼らない」
 ドンドンと私は頭を小突いた。意識が揺らいだ。瞼が重くなり、途切れがちになる。
「何をした?」
 なんだ?
「どうした? いつもの薬だろう」
 投薬した薬の名前はベンゾジアゼピン系の睡眠導入剤トリアゾラム。薬品名はハルシオン。超短時間作用で薬の効果は三時間から四時間である。私は薬漬けにされ、意識障害を過去三回も発症している。今回で合わせて四回目になる。
「やめろ」
「いつものことだろ?」
 いや急すぎる。こうならないよう優里の手元にあったマグカップに手を付けたのに。どちらにも睡眠薬が入っていたのか?
「お前、まさか薬を」
「両方のマグカップに薬を入れた。この掛けは私の勝ちだ」
「お前も薬を」
「膜だ。温めた牛乳が膜を張る。膜上に睡眠薬を置いてくるんでおいた。ならば眠くなることはない」
 あのホットミルクにハルシオンを入れていたのか。飲み物に含ませるのは目分量を誤ることが多いからやめたはずだ。そう話し合っていたはずなのに。
 この女は優里じゃない。なら一人しかない。レイナだ。
「眠いだろ。好きなだけ休め。見ているこっちも疲れた。あー」
「ふざけるな……」
「正夢は前に睡眠薬を過剰摂取して搬送されたことがあったな。誰も誤飲だと思うよ。正夢の担当医の藤井先生とは仲が良いからさ。大丈夫だ。安心して寝ていいぞ」
 ふざけるなと叫ぼうとした時。私はまともに世界を捉えられていなかった。抗しがたい睡魔。私の髪に右手が触れて、白い混じりけのない手の甲が視界に広がる。
 ハッと私は大変な誤解に気づいた。あり得なさすぎる失態。常人なら見破れない過ちだろう。
 すでに遅い。
「光奈か。いつの間に変わった……」
「なら教えてやる。最初から私は光奈だ。今までずっと気づかなかったのかよ、バーカ」
 勝ち誇った人を見下した声。
 最後にみえたその顔は無慈悲だった。右手は私から意識を吸い取る魔物にみえた。外見はともかく、人はどうしてここまで違うのだろう。
 最後の敵である光奈はすぐ近くにいた。
 本名は希坂光奈。
 一卵性双生児で、優里の双子の姉。夢にも出てきて私の思考を妨げていた。いわば天敵ともいうべき存在だ。
 私と付き合っている間に奈々は優里になった。大きな特徴がある。右の手の甲に火傷の痕である。優里と瓜二つの顔をしたレイナには手の甲に痕がない。
 この女は旧約聖書のカインだ。
 弟のアベルを殺し、神に呪いを受けた兄。誰かに殺されないよう額に印がある。紛らわしいが、印のないカインなのだ。
 カインが私に睡眠薬を飲まし、命を奪おうとしている。私は意識を失った。
 もはやすべてが混沌としている。このやり取りも目が覚めたときに覚えている保証はどこにもない。
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