花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】

naomikoryo

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第九話 文の向こうの顔

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 寺町の裏通りは、昼なお薄暗かった。
 祈祷札の色あせた表具屋や、墨の香のする写経屋がひしめく通りを、澪は笠の影を深くして歩いた。

 その道の奥、見落とすような狭い辻に、件の筆屋――松庵はあった。
 控えめな看板、煤けた暖簾、だが硯と紙だけは見事に整っている。

 澪が戸をくぐると、微かに鈴の音がした。

 「……どなた」

 店の奥から現れたのは、五十がらみの男。
 白髪混じりの結い上げた髪に、やせた面持ち。背は低いが、眼差しは鋭く澄んでいた。

 「結城宗真様に関わる件で、参りました。私は……」

 「――澪様か」

 男は言葉を遮った。

 「……御台様が、来られるとはな」

 その言い方に、澪はわずかに違和感を覚えた。
 “御台様”と呼ばれるのは、大名家の正室――つまり、澪ではなく志乃が似合う呼び名だった。

 だが、澪の問いかけを待たずに、松庵は静かに帳場の奥へと進んでいった。

 

◇ ◇ ◇

 裏の間には、簡素な文机と、封をされた木箱が置かれていた。
 松庵は黙ってその蓋を外し、一通の文を取り出して澪に差し出す。

 「それが、宗真様の遺された“第三の文”の写しです。あれが姿を消す数日前、私に写筆を依頼されました」

 澪は震える手で文を開いた。
 紙は薄く、墨のかすれが年月を思わせたが、筆跡は確かに宗真のものだった。

「金三百両、上納帳より消失。問屋神田屋を経て、篠原家へ渡る。
 篠原志乃、名義にて保管の記録あり」

 その一行を目にしたとき、澪は息を呑んだ。

 (……志乃?)

 文の下部には、さらに続く記述があった。

「篠原家内金帳、証拠品三。将軍家御覧に入るべく、伊織殿に託す」

 つまり、宗真は確かに“志乃”と“神田屋”の繋がりを突き止め、証拠を揃え、伊織に託した――
 しかしその動きは、誰かに漏れ、宗真は姿を消すことになった。

 「篠原志乃……」

 その名が、焙じ茶の香の中に生々しく立ち上る。

 あの舞の会。志乃の言葉。仕草。余裕のある視線。
 それらすべてが、“勝者のふるまい”だった理由――
 それは、ただの家格や気品によるものではない。
 金の力と、それを操る地位を、彼女が確かに握っているからだ。

 「松庵殿、この文は、なぜいままで伏せられていたのです?」

 「宗真様が言われた。“この文が知られれば、あなたの身に刃が向く”と。……だから私は、誰にも口外しなかった。伊織殿に託されたと聞いたとき、私はもう動かぬと決めていた」

 その言葉に、澪は頷いた。
 宗真は、澪の命と引き換えに、この証を封じたのだ。

 けれど今、澪はもう後戻りする気はなかった。

 

◇ ◇ ◇

 筆屋を出ると、町は春の陽に包まれていた。
 あたたかな陽光、軒下に吊るされた風鈴の音。
 それらの穏やかさが、かえって澪の背筋を冷たくした。

 宗真が残した証拠は、確かに志乃の名を指していた。
 だが、それだけではない。“その背後”に、大石勘解由の名がつながる。

 澪は、目を閉じてひとつ深く息を吸った。
 焙じ茶の香りが、まだ胸の奥に残っていた。伊織との出会いから始まった、真実への道のり。

 (宗真様……あなたの言葉は、届いております)

 けれど、まだ全てが揃ったわけではない。

 この証をどう動かすか。誰にぶつけるか。
 そして――どう守り抜くか。

 風に吹かれ、紅椿の花が空へと舞い上がる。
 その一片が、澪の肩にふわりと落ちた。

 その感触は、まるで宗真の手のひらが触れたように温かく、
 けれど、刃のような覚悟がそこに宿っていた。
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