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第5話「壁ドンは突然に」
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朝。
自室のカーテンを開ける前から、今日が「やばい日」だということは、感覚でわかっていた。
「凛音~♡ 今日の髪型はこっちにしてくれると、お姉ちゃん、嬉しいな~」
「いやいや、こっちの方が断然いいって! 今年の春、韓国のアイドルがやってる流行ヘアだよ!? SNS映えするって!」
「それより! この新作のジャケット試してみて! えへへ……実は凛音サイズで作ってみたの♡」
長女・由依の冷静な圧力、
次女・美咲の押し売りオシャ活マシンガン、
三女・紗奈の創作魂による試着地獄。
朝から三人が「凛音改造会議」を勝手に開催し、
鏡の前に立たされた凛音は、すでにエネルギーゲージの半分以上を消耗していた。
「俺の顔はカンバスじゃねえって、いつも言ってんだろ……」
「なーに言ってんの♡ 凛音の顔面は国家遺産レベルなんだから!」
「そうそう、弟を最大限に活かすのが、姉の義務!」
「紗奈も、凛音くんが今日もかっこよくてうれしい……(ぴとっ)」
「離れろ!」
一見平和そうに見えるこの朝食前の時間帯は、凛音にとっては戦場だった。
今日も家を出るまでに3度着替えさせられ、2回ヘアセットされ、1回逃走未遂で階段を滑り落ちかけた。
結果として――
彼は完璧すぎるヘアセットと、姉カスタムの私服のまま、学校に向かう羽目になった。
(……自由時間、夜の9時から11時の2時間だけって、やっぱ異常だろ……)
校門をくぐる瞬間、すでに疲労感はマックスだった。
だが、地獄は学校にもあった。
そう。白石天音。
登校と同時に、教室内がなぜか華やいでいる。
男子がざわざわし、女子がピリピリしている。
原因はもちろん、教室の真ん中で笑顔を振りまく、無自覚ヒロイン。
「おはよう、りおん♡」
「“りおん様”って呼べって昨日も言ったろ」
「え~、でも私は“りおん”の方がしっくりくるんだもん」
クラス全体の空気が再びピリつく。
天音は今日も、男子に囲まれながら女子に敵意を向けられているというのに、
それに全く気づく様子もなく、真っ直ぐに凛音だけを見て笑っている。
(……無防備すぎんだろ)
それでも、いつものように軽くいなしてやり過ごす……つもりだった。
だが、今日は
――何かが違っていた。
3時間目の現代文。
先生が黒板に難解な文法構造を書いている間、凛音は窓の外に視線を向けていた。
自分の中に、言葉にしづらい“ざわざわ”がある。
(なんで……)
天音が、隣の男子と笑い合っている。
いつものように。
ごく自然に。
笑って、話して、誰にでも同じように接している。
――それが、
どうしようもなく、腹立たしかった。
(……俺には、あんな顔しねぇのに)
いや、してるかもしれない。
でも、自分には特別だと思っていた。
思いたかった。
けれど、そうではなかったのかもしれないと思った瞬間――
感情が、爆発した。
休み時間。
天音が廊下でクラスの男子たちに囲まれて笑っていた。
何かの話題で盛り上がり、その輪の中心で小さく笑う天音。
その姿が、どうしても我慢ならなかった。
凛音は、衝動のままに動いた。
「おい」
その声は、廊下にいた数人の視線を釘付けにする。
天音が振り返るより早く、凛音は彼女の手首を掴んだ。
「ちょ、凛音っ……」
そのまま、彼女を教室の脇――階段踊り場の陰に連れ込んだ。
誰の視線も届かないその場所で、彼は、彼女を壁際に押しやった。
「ちょ、ちょっと、近い……! なに……?」
天音の声が、驚きと戸惑いに震える。
けれど、その大きな瞳は、逃げることなく真っ直ぐ凛音を見ていた。
「俺はもう、子供じゃねぇんだよ」
その言葉と同時に、凛音の右手が“壁ドン”を決める。
天音の顔の横、白い壁に拳がぶつかる音が小さく響く。
「……っ」
静寂。
数秒の沈黙。
天音は、一瞬だけ驚いた顔をしていた。
けれど、次の瞬間、笑った。
「……ふふっ」
「な、何がおかしい」
「ううん、びっくりしただけ。まさか、りおんが壁ドンしてくるなんて」
「……お前が俺をガキ扱いするからだろ」
「えっ、私そんなつもり――」
「昔と違うって言ってんだよ。もう、“泣き虫の弟くん”じゃねぇんだよ」
天音は、ふっと真剣な表情になった。
「うん……わかってるよ」
「なら、なんで俺にだけ、昔みたいな顔すんだよ」
「……だって、私は……」
声が、そこで途切れた。
二人の距離が、急激に縮まっていた。
凛音の手は壁に、顔はすぐそこに。
天音の鼓動が、聞こえるほど近い。
そして――
「……ちょっと、ドキドキしてきた」
天音が、ぽつりとそう呟いた。
「ば、バカ……そういうの、簡単に言うなって……」
「だって、ほんとに……してるんだもん」
凛音の手が、壁から離れる。
彼女の目を見られなくなって、背を向ける。
「……もう、知らね」
「また逃げるの?」
その言葉に、足が止まる。
「私、本当に嬉しかったんだよ。りおんが、そうやって……“俺はもう子供じゃない”って言ってくれたの」
「……っ」
「でもね、私、昔のりおんも好きだったんだよ。泣き虫でも、素直で、真っ直ぐだった」
「今の俺は、嫌いかよ」
「違う。今のりおんは――ちょっと怖いの」
その言葉は、深く、胸に刺さった。
「俺様ぶって、冷たくして、本当の気持ちを隠して。そうやって誰にも踏み込ませないでしょ?」
「お前には通じてんだろ……」
「うん。でもそれが、ちょっとずるいなって思うの」
凛音は何も言えなかった。
彼女は、全部見透かしている。
自分の防御も、照れ隠しも、全部。
それが、怖くて、そして――心地よかった。
◆
その日の夜、凛音は自室で、姉たちの呼び出しを全力で無視していた。
美咲がドアを叩く。
「今日のコーデ評価タイムだってば!」
紗奈がぬいぐるみを抱えてドアの前に寝転ぶ。
「凛音くんが無視すると、お姉ちゃん悲しくて眠れない……」
由依が部屋の管理アプリを起動し始める。
「スマートロックの解除試みます」
「絶対に出ねえからな!!」
凛音は、頭から布団をかぶった。
鼓動はまだ、さっきのまま。
壁ドンの感触も、天音の体温も、
全部、手のひらに残っている気がして
――眠れそうになかった。
【つづく】
自室のカーテンを開ける前から、今日が「やばい日」だということは、感覚でわかっていた。
「凛音~♡ 今日の髪型はこっちにしてくれると、お姉ちゃん、嬉しいな~」
「いやいや、こっちの方が断然いいって! 今年の春、韓国のアイドルがやってる流行ヘアだよ!? SNS映えするって!」
「それより! この新作のジャケット試してみて! えへへ……実は凛音サイズで作ってみたの♡」
長女・由依の冷静な圧力、
次女・美咲の押し売りオシャ活マシンガン、
三女・紗奈の創作魂による試着地獄。
朝から三人が「凛音改造会議」を勝手に開催し、
鏡の前に立たされた凛音は、すでにエネルギーゲージの半分以上を消耗していた。
「俺の顔はカンバスじゃねえって、いつも言ってんだろ……」
「なーに言ってんの♡ 凛音の顔面は国家遺産レベルなんだから!」
「そうそう、弟を最大限に活かすのが、姉の義務!」
「紗奈も、凛音くんが今日もかっこよくてうれしい……(ぴとっ)」
「離れろ!」
一見平和そうに見えるこの朝食前の時間帯は、凛音にとっては戦場だった。
今日も家を出るまでに3度着替えさせられ、2回ヘアセットされ、1回逃走未遂で階段を滑り落ちかけた。
結果として――
彼は完璧すぎるヘアセットと、姉カスタムの私服のまま、学校に向かう羽目になった。
(……自由時間、夜の9時から11時の2時間だけって、やっぱ異常だろ……)
校門をくぐる瞬間、すでに疲労感はマックスだった。
だが、地獄は学校にもあった。
そう。白石天音。
登校と同時に、教室内がなぜか華やいでいる。
男子がざわざわし、女子がピリピリしている。
原因はもちろん、教室の真ん中で笑顔を振りまく、無自覚ヒロイン。
「おはよう、りおん♡」
「“りおん様”って呼べって昨日も言ったろ」
「え~、でも私は“りおん”の方がしっくりくるんだもん」
クラス全体の空気が再びピリつく。
天音は今日も、男子に囲まれながら女子に敵意を向けられているというのに、
それに全く気づく様子もなく、真っ直ぐに凛音だけを見て笑っている。
(……無防備すぎんだろ)
それでも、いつものように軽くいなしてやり過ごす……つもりだった。
だが、今日は
――何かが違っていた。
3時間目の現代文。
先生が黒板に難解な文法構造を書いている間、凛音は窓の外に視線を向けていた。
自分の中に、言葉にしづらい“ざわざわ”がある。
(なんで……)
天音が、隣の男子と笑い合っている。
いつものように。
ごく自然に。
笑って、話して、誰にでも同じように接している。
――それが、
どうしようもなく、腹立たしかった。
(……俺には、あんな顔しねぇのに)
いや、してるかもしれない。
でも、自分には特別だと思っていた。
思いたかった。
けれど、そうではなかったのかもしれないと思った瞬間――
感情が、爆発した。
休み時間。
天音が廊下でクラスの男子たちに囲まれて笑っていた。
何かの話題で盛り上がり、その輪の中心で小さく笑う天音。
その姿が、どうしても我慢ならなかった。
凛音は、衝動のままに動いた。
「おい」
その声は、廊下にいた数人の視線を釘付けにする。
天音が振り返るより早く、凛音は彼女の手首を掴んだ。
「ちょ、凛音っ……」
そのまま、彼女を教室の脇――階段踊り場の陰に連れ込んだ。
誰の視線も届かないその場所で、彼は、彼女を壁際に押しやった。
「ちょ、ちょっと、近い……! なに……?」
天音の声が、驚きと戸惑いに震える。
けれど、その大きな瞳は、逃げることなく真っ直ぐ凛音を見ていた。
「俺はもう、子供じゃねぇんだよ」
その言葉と同時に、凛音の右手が“壁ドン”を決める。
天音の顔の横、白い壁に拳がぶつかる音が小さく響く。
「……っ」
静寂。
数秒の沈黙。
天音は、一瞬だけ驚いた顔をしていた。
けれど、次の瞬間、笑った。
「……ふふっ」
「な、何がおかしい」
「ううん、びっくりしただけ。まさか、りおんが壁ドンしてくるなんて」
「……お前が俺をガキ扱いするからだろ」
「えっ、私そんなつもり――」
「昔と違うって言ってんだよ。もう、“泣き虫の弟くん”じゃねぇんだよ」
天音は、ふっと真剣な表情になった。
「うん……わかってるよ」
「なら、なんで俺にだけ、昔みたいな顔すんだよ」
「……だって、私は……」
声が、そこで途切れた。
二人の距離が、急激に縮まっていた。
凛音の手は壁に、顔はすぐそこに。
天音の鼓動が、聞こえるほど近い。
そして――
「……ちょっと、ドキドキしてきた」
天音が、ぽつりとそう呟いた。
「ば、バカ……そういうの、簡単に言うなって……」
「だって、ほんとに……してるんだもん」
凛音の手が、壁から離れる。
彼女の目を見られなくなって、背を向ける。
「……もう、知らね」
「また逃げるの?」
その言葉に、足が止まる。
「私、本当に嬉しかったんだよ。りおんが、そうやって……“俺はもう子供じゃない”って言ってくれたの」
「……っ」
「でもね、私、昔のりおんも好きだったんだよ。泣き虫でも、素直で、真っ直ぐだった」
「今の俺は、嫌いかよ」
「違う。今のりおんは――ちょっと怖いの」
その言葉は、深く、胸に刺さった。
「俺様ぶって、冷たくして、本当の気持ちを隠して。そうやって誰にも踏み込ませないでしょ?」
「お前には通じてんだろ……」
「うん。でもそれが、ちょっとずるいなって思うの」
凛音は何も言えなかった。
彼女は、全部見透かしている。
自分の防御も、照れ隠しも、全部。
それが、怖くて、そして――心地よかった。
◆
その日の夜、凛音は自室で、姉たちの呼び出しを全力で無視していた。
美咲がドアを叩く。
「今日のコーデ評価タイムだってば!」
紗奈がぬいぐるみを抱えてドアの前に寝転ぶ。
「凛音くんが無視すると、お姉ちゃん悲しくて眠れない……」
由依が部屋の管理アプリを起動し始める。
「スマートロックの解除試みます」
「絶対に出ねえからな!!」
凛音は、頭から布団をかぶった。
鼓動はまだ、さっきのまま。
壁ドンの感触も、天音の体温も、
全部、手のひらに残っている気がして
――眠れそうになかった。
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