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第三話「小さな冒険、絢子の脱走」
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春の風が、庭の梅の枝をさらりと揺らした朝。
桐原家の一角、女中部屋にて。
「お嬢様、今日は女学校にいらっしゃるのではないのでしょうか?」
女中の一人、おちかが声をかけたが、部屋の奥ではすでに布団が畳まれ、衣桁に掛けられた制服がぽつんと揺れているばかりだった。
「お、お嬢様……?」
異変に気づいた使用人たちが邸内を探し回ること数十分。
桐原家の一人娘・絢子の姿が、忽然と消えていた。
* * *
一方、町の外れ――。
小さな呉服屋の軒先で、着物姿の少女がにこにこと笑っていた。
彼女の身なりは質素だが丁寧で、何よりもその笑顔に人々は心を引かれる。
「まあ、こんな綺麗なお嬢さんが一人で。どこから来たの?」
「お使いなんです。あの、ちょっとだけ町を見たくなって」
嘘ではなかった。いや、正確には“ちょっとした冒険”だった。
――お絢さまの脱走である。
それは、朝食後のほんの一瞬の出来事だった。
女中たちが洗い物に追われている隙を縫い、台所裏の勝手口からするりと抜け出し、塀を越えた。
絢子の頭には、まるで小鳥が巣立つかのような、無邪気な興奮が渦巻いていた。
「だって、女学校ばかりじゃ面白くないもの。たまには、町の人たちと話したいのよ」
春の町並みは、どこまでも明るく、どこか懐かしかった。
あちらでは漬物を干す老婦人、こちらでは風呂焚きの煙がくゆり、商家の前では番頭が帳簿を片手に店員を叱っている。
庶民の生活の音が、どこもかしこも絢子には“宝物”のように感じられた。
「わあ、あの草履かわいい……」
つい足を止めたのは、履物屋。淡い紅色の鼻緒に絵柄が刺繍された草履が並んでいた。
「見るだけ、見るだけよ……」
そうつぶやきながら店先に腰を下ろし、草履を手に取った。
「お嬢さん、なかなか目が高いね。けど、そいつはちと高いぜ?」
茶色い作務衣を着た老職人が、にやりと笑って話しかけてきた。
「おいくら?」
「二十五銭さ」
「……むむむ」
絢子は帯の下から、布袋に入った小銭を取り出し、一枚一枚数え始めた。
「いち、に、さん、……十八銭、足りない」
「残念だったね、坊やが買ってくれる日まで待っとくれ」
おどけた職人の言葉に、絢子はむっと唇をとがらせた。
「そういうんじゃ、ないです。私は自分の分は、自分で買います」
「ほほぅ、そいつはえらい」
その時、背後から声がした。
「……まったく。いったい、ここで何をしているのですか」
聞き覚えのある低く冷たい声に、絢子はびくりと肩を震わせた。
振り向けば、そこに立っていたのは――
「牧野さん!?」
役場の制服をきちんと着こなし、眉間に皺を寄せた慎之介の姿。
「まさか、町中でお嬢様と遭遇するとは……。こんなところで、何をしていたんですか。今日は女学校では?」
「ちょっと、冒険を……」
「冒険?」
慎之介の目が細められた。
彼はゆっくりと深呼吸し、一歩近づく。
「名家の娘が、たった一人で町をうろつくことが、あなたにとっては“冒険”になるのですか。万一、誰かに攫われでもしたら――」
「攫われたら、その人が悪いんでしょう? 私が悪いみたいに言わないでください」
絢子の声は、少しだけ震えていた。
慎之介はその一言に言葉を詰まらせた。
正論である。だが、世の中は正しさだけでは回らない。
「私はただ……みんながどうやって暮らしてるか、ちゃんと見たかったの。家の中や女学校だけじゃ、本当の町のことなんてわからないから」
「……子供のような理屈です」
「子供ですもの」
ぴしゃりと、絢子は言い返した。
ふたりの間に、しばし沈黙が落ちた。
だが、その沈黙を破ったのは慎之介だった。
「……いいでしょう。せっかくですから、少し町をご案内します。私の知っている場所で、特にあなたが知らなさそうな場所を」
「……いいの?」
「どうせ、このまま帰れと言っても、あなたは帰らないでしょう」
絢子は嬉しそうにぱあっと顔を明るくした。
「ありがとうございます! じゃあ、どこに連れてってくれるの?」
慎之介は少し考え、ある場所を思い出した。
「……製糸場の裏に、小さな神社があります。誰も来ないようなところですが、古い絵馬がずらりと並んでいる。中には、明治維新の頃のものもあると聞きました」
「それ、見たい!」
絢子はぴょんと跳ね、慎之介の袖を引っ張った。
その手のぬくもりに、彼は思わず背筋を強張らせたが、拒むことはなかった。
* * *
小さな神社の境内に、落ち葉を踏む音が響いた。
絢子は古びた絵馬を見つめながら、ぽつりとつぶやいた。
「これを書いた人、今はどうしてるのかな」
「多くはもうこの世にいないでしょう」
「でも、思いは残ってるのね」
「……そうですね」
風が吹いた。境内に結んだ赤い紐が揺れる。
慎之介は、ふと隣を見た。
名家の娘、格式ある家柄の令嬢
――その肩書きの下に、こんなにも人懐っこく、好奇心に満ち、時に危なっかしい少女がいるなど、誰が想像しただろう。
「……あまり、私のような者と出歩くのは好ましくありませんよ」
彼が低く告げたその言葉に、絢子は首をかしげた。
「なぜ? 牧野さんは、まっすぐで正しい人だもの。私、そういう人が好きよ」
好き――その一言が、慎之介の胸に残った。
それは、恋の始まりというにはあまりにも曖昧で、幼く、だが確かな言葉だった。
風が、木々を揺らす。
この日の出来事は、二人の距離をわずかに縮めた。
そしてこの先、もっと多くの冒険と、感情が待っている――
(第三話 完)
桐原家の一角、女中部屋にて。
「お嬢様、今日は女学校にいらっしゃるのではないのでしょうか?」
女中の一人、おちかが声をかけたが、部屋の奥ではすでに布団が畳まれ、衣桁に掛けられた制服がぽつんと揺れているばかりだった。
「お、お嬢様……?」
異変に気づいた使用人たちが邸内を探し回ること数十分。
桐原家の一人娘・絢子の姿が、忽然と消えていた。
* * *
一方、町の外れ――。
小さな呉服屋の軒先で、着物姿の少女がにこにこと笑っていた。
彼女の身なりは質素だが丁寧で、何よりもその笑顔に人々は心を引かれる。
「まあ、こんな綺麗なお嬢さんが一人で。どこから来たの?」
「お使いなんです。あの、ちょっとだけ町を見たくなって」
嘘ではなかった。いや、正確には“ちょっとした冒険”だった。
――お絢さまの脱走である。
それは、朝食後のほんの一瞬の出来事だった。
女中たちが洗い物に追われている隙を縫い、台所裏の勝手口からするりと抜け出し、塀を越えた。
絢子の頭には、まるで小鳥が巣立つかのような、無邪気な興奮が渦巻いていた。
「だって、女学校ばかりじゃ面白くないもの。たまには、町の人たちと話したいのよ」
春の町並みは、どこまでも明るく、どこか懐かしかった。
あちらでは漬物を干す老婦人、こちらでは風呂焚きの煙がくゆり、商家の前では番頭が帳簿を片手に店員を叱っている。
庶民の生活の音が、どこもかしこも絢子には“宝物”のように感じられた。
「わあ、あの草履かわいい……」
つい足を止めたのは、履物屋。淡い紅色の鼻緒に絵柄が刺繍された草履が並んでいた。
「見るだけ、見るだけよ……」
そうつぶやきながら店先に腰を下ろし、草履を手に取った。
「お嬢さん、なかなか目が高いね。けど、そいつはちと高いぜ?」
茶色い作務衣を着た老職人が、にやりと笑って話しかけてきた。
「おいくら?」
「二十五銭さ」
「……むむむ」
絢子は帯の下から、布袋に入った小銭を取り出し、一枚一枚数え始めた。
「いち、に、さん、……十八銭、足りない」
「残念だったね、坊やが買ってくれる日まで待っとくれ」
おどけた職人の言葉に、絢子はむっと唇をとがらせた。
「そういうんじゃ、ないです。私は自分の分は、自分で買います」
「ほほぅ、そいつはえらい」
その時、背後から声がした。
「……まったく。いったい、ここで何をしているのですか」
聞き覚えのある低く冷たい声に、絢子はびくりと肩を震わせた。
振り向けば、そこに立っていたのは――
「牧野さん!?」
役場の制服をきちんと着こなし、眉間に皺を寄せた慎之介の姿。
「まさか、町中でお嬢様と遭遇するとは……。こんなところで、何をしていたんですか。今日は女学校では?」
「ちょっと、冒険を……」
「冒険?」
慎之介の目が細められた。
彼はゆっくりと深呼吸し、一歩近づく。
「名家の娘が、たった一人で町をうろつくことが、あなたにとっては“冒険”になるのですか。万一、誰かに攫われでもしたら――」
「攫われたら、その人が悪いんでしょう? 私が悪いみたいに言わないでください」
絢子の声は、少しだけ震えていた。
慎之介はその一言に言葉を詰まらせた。
正論である。だが、世の中は正しさだけでは回らない。
「私はただ……みんながどうやって暮らしてるか、ちゃんと見たかったの。家の中や女学校だけじゃ、本当の町のことなんてわからないから」
「……子供のような理屈です」
「子供ですもの」
ぴしゃりと、絢子は言い返した。
ふたりの間に、しばし沈黙が落ちた。
だが、その沈黙を破ったのは慎之介だった。
「……いいでしょう。せっかくですから、少し町をご案内します。私の知っている場所で、特にあなたが知らなさそうな場所を」
「……いいの?」
「どうせ、このまま帰れと言っても、あなたは帰らないでしょう」
絢子は嬉しそうにぱあっと顔を明るくした。
「ありがとうございます! じゃあ、どこに連れてってくれるの?」
慎之介は少し考え、ある場所を思い出した。
「……製糸場の裏に、小さな神社があります。誰も来ないようなところですが、古い絵馬がずらりと並んでいる。中には、明治維新の頃のものもあると聞きました」
「それ、見たい!」
絢子はぴょんと跳ね、慎之介の袖を引っ張った。
その手のぬくもりに、彼は思わず背筋を強張らせたが、拒むことはなかった。
* * *
小さな神社の境内に、落ち葉を踏む音が響いた。
絢子は古びた絵馬を見つめながら、ぽつりとつぶやいた。
「これを書いた人、今はどうしてるのかな」
「多くはもうこの世にいないでしょう」
「でも、思いは残ってるのね」
「……そうですね」
風が吹いた。境内に結んだ赤い紐が揺れる。
慎之介は、ふと隣を見た。
名家の娘、格式ある家柄の令嬢
――その肩書きの下に、こんなにも人懐っこく、好奇心に満ち、時に危なっかしい少女がいるなど、誰が想像しただろう。
「……あまり、私のような者と出歩くのは好ましくありませんよ」
彼が低く告げたその言葉に、絢子は首をかしげた。
「なぜ? 牧野さんは、まっすぐで正しい人だもの。私、そういう人が好きよ」
好き――その一言が、慎之介の胸に残った。
それは、恋の始まりというにはあまりにも曖昧で、幼く、だが確かな言葉だった。
風が、木々を揺らす。
この日の出来事は、二人の距離をわずかに縮めた。
そしてこの先、もっと多くの冒険と、感情が待っている――
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