お絢さま風雲録 ~恋に学びに奔走中!名家のお嬢様、町を変える!?

naomikoryo

文字の大きさ
3 / 33

第三話「小さな冒険、絢子の脱走」

しおりを挟む
 春の風が、庭の梅の枝をさらりと揺らした朝。
 桐原家の一角、女中部屋にて。

「お嬢様、今日は女学校にいらっしゃるのではないのでしょうか?」

 女中の一人、おちかが声をかけたが、部屋の奥ではすでに布団が畳まれ、衣桁に掛けられた制服がぽつんと揺れているばかりだった。

「お、お嬢様……?」

 異変に気づいた使用人たちが邸内を探し回ること数十分。
 桐原家の一人娘・絢子の姿が、忽然と消えていた。

 * * *

 一方、町の外れ――。

 小さな呉服屋の軒先で、着物姿の少女がにこにこと笑っていた。
 彼女の身なりは質素だが丁寧で、何よりもその笑顔に人々は心を引かれる。

「まあ、こんな綺麗なお嬢さんが一人で。どこから来たの?」

「お使いなんです。あの、ちょっとだけ町を見たくなって」

 嘘ではなかった。いや、正確には“ちょっとした冒険”だった。

 ――お絢さまの脱走である。

 それは、朝食後のほんの一瞬の出来事だった。
 女中たちが洗い物に追われている隙を縫い、台所裏の勝手口からするりと抜け出し、塀を越えた。
 絢子の頭には、まるで小鳥が巣立つかのような、無邪気な興奮が渦巻いていた。

「だって、女学校ばかりじゃ面白くないもの。たまには、町の人たちと話したいのよ」

 春の町並みは、どこまでも明るく、どこか懐かしかった。
 あちらでは漬物を干す老婦人、こちらでは風呂焚きの煙がくゆり、商家の前では番頭が帳簿を片手に店員を叱っている。
 庶民の生活の音が、どこもかしこも絢子には“宝物”のように感じられた。

「わあ、あの草履かわいい……」

 つい足を止めたのは、履物屋。淡い紅色の鼻緒に絵柄が刺繍された草履が並んでいた。

「見るだけ、見るだけよ……」

 そうつぶやきながら店先に腰を下ろし、草履を手に取った。

「お嬢さん、なかなか目が高いね。けど、そいつはちと高いぜ?」

 茶色い作務衣を着た老職人が、にやりと笑って話しかけてきた。

「おいくら?」

「二十五銭さ」

「……むむむ」

 絢子は帯の下から、布袋に入った小銭を取り出し、一枚一枚数え始めた。

「いち、に、さん、……十八銭、足りない」

「残念だったね、坊やが買ってくれる日まで待っとくれ」

 おどけた職人の言葉に、絢子はむっと唇をとがらせた。

「そういうんじゃ、ないです。私は自分の分は、自分で買います」

「ほほぅ、そいつはえらい」

 その時、背後から声がした。

「……まったく。いったい、ここで何をしているのですか」

 聞き覚えのある低く冷たい声に、絢子はびくりと肩を震わせた。

 振り向けば、そこに立っていたのは――

「牧野さん!?」

 役場の制服をきちんと着こなし、眉間に皺を寄せた慎之介の姿。

「まさか、町中でお嬢様と遭遇するとは……。こんなところで、何をしていたんですか。今日は女学校では?」

「ちょっと、冒険を……」

「冒険?」

 慎之介の目が細められた。
 彼はゆっくりと深呼吸し、一歩近づく。

「名家の娘が、たった一人で町をうろつくことが、あなたにとっては“冒険”になるのですか。万一、誰かに攫われでもしたら――」

「攫われたら、その人が悪いんでしょう? 私が悪いみたいに言わないでください」

 絢子の声は、少しだけ震えていた。

 慎之介はその一言に言葉を詰まらせた。
 正論である。だが、世の中は正しさだけでは回らない。

「私はただ……みんながどうやって暮らしてるか、ちゃんと見たかったの。家の中や女学校だけじゃ、本当の町のことなんてわからないから」

「……子供のような理屈です」

「子供ですもの」

 ぴしゃりと、絢子は言い返した。

 ふたりの間に、しばし沈黙が落ちた。
 だが、その沈黙を破ったのは慎之介だった。

「……いいでしょう。せっかくですから、少し町をご案内します。私の知っている場所で、特にあなたが知らなさそうな場所を」

「……いいの?」

「どうせ、このまま帰れと言っても、あなたは帰らないでしょう」

 絢子は嬉しそうにぱあっと顔を明るくした。

「ありがとうございます! じゃあ、どこに連れてってくれるの?」

 慎之介は少し考え、ある場所を思い出した。

「……製糸場の裏に、小さな神社があります。誰も来ないようなところですが、古い絵馬がずらりと並んでいる。中には、明治維新の頃のものもあると聞きました」

「それ、見たい!」

 絢子はぴょんと跳ね、慎之介の袖を引っ張った。
 その手のぬくもりに、彼は思わず背筋を強張らせたが、拒むことはなかった。

 * * *

 小さな神社の境内に、落ち葉を踏む音が響いた。

 絢子は古びた絵馬を見つめながら、ぽつりとつぶやいた。

「これを書いた人、今はどうしてるのかな」

「多くはもうこの世にいないでしょう」

「でも、思いは残ってるのね」

「……そうですね」

 風が吹いた。境内に結んだ赤い紐が揺れる。

 慎之介は、ふと隣を見た。

 名家の娘、格式ある家柄の令嬢
 ――その肩書きの下に、こんなにも人懐っこく、好奇心に満ち、時に危なっかしい少女がいるなど、誰が想像しただろう。

「……あまり、私のような者と出歩くのは好ましくありませんよ」

 彼が低く告げたその言葉に、絢子は首をかしげた。

「なぜ? 牧野さんは、まっすぐで正しい人だもの。私、そういう人が好きよ」

 好き――その一言が、慎之介の胸に残った。

 それは、恋の始まりというにはあまりにも曖昧で、幼く、だが確かな言葉だった。

 風が、木々を揺らす。

 この日の出来事は、二人の距離をわずかに縮めた。
 そしてこの先、もっと多くの冒険と、感情が待っている――

(第三話 完)
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】

naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。 舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。 結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。 失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。 やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。 男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。 これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。 静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。 全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。

別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ 嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。 離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。 月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。 おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。 されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて—— ※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。

偽夫婦お家騒動始末記

紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】 故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。 紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。 隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。 江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。 そして、拾った陰間、紫音の正体は。 活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。

つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました

蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈ 絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。 絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!! 聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ! ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!! +++++ ・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)

【完結】異世界で神の元カノのゴミ屋敷を片付けたら世界の秘密が出てきました

小豆缶
ファンタジー
父の遺したゴミ屋敷を片付けていたはずが、気づけば異世界に転移していた私・飛鳥。 しかも、神の元カノと顔がそっくりという理由で、いきなり死刑寸前!? 助けてくれた太陽神ソラリクスから頼まれた仕事は、 「500年前に別れた元恋人のゴミ屋敷を片付けてほしい」というとんでもない依頼だった。 幽霊になった元神、罠だらけの屋敷、歪んだ世界のシステム。 ポンコツだけど諦めの悪い主人公が、ゴミ屋敷を片付けながら異世界の謎を暴いていく! ほのぼのお仕事×異世界コメディ×世界の秘密解明ファンタジー

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

処理中です...