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12)駅前の雨とナポリタン
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1. 雨の日の喫茶店
その日、空は朝から重たくて、昼を待たずに本格的な雨が降り出した。
六月の終わり、就活中の大学四年生・佐藤悠(さとうゆう)は、都心のとある出版社の面接に向かっていた。黒いスーツに身を包み、緊張で喉が乾く。面接は、正直うまくいった気がしなかった。
「なにか質問ありますか?」
「……特に、ありません」
あの一言が、いまでも胸にひっかかっている。
(本当は、いろいろ聞きたかったのに)
就活という舞台の上では、うまく話せない。自分を売り込むことが、どうしても苦手だった。
駅へと急ぐ帰り道。傘を持っていなかった彼は、案の定、全身びしょ濡れになった。
シャツの襟が肌に張りついて気持ち悪い。駅前のロータリーに出たところで、悠は立ち止まった。
ふと視界に入ったのは、小さな古びた喫茶店。「珈琲 軽食 モカ」と書かれた木製の看板。濡れた文字がやけに優しく見えた。
「……入ってみるか」
雨宿りのつもりで、彼はガラス戸を押した。
2. ナポリタンの香り
カラン、とドアベルが鳴った瞬間、懐かしい匂いに包まれた。
コーヒー、トースト、タバコの残り香、そして……ナポリタン。
「いらっしゃいませ」
奥から現れたのは、エプロンをかけた女性だった。年は自分より少し上。落ち着いた雰囲気で、明るすぎない声が心地よい。
「ひとり? 濡れちゃってるね。窓際、空いてるよ」
「……はい」
案内された席に座ると、白いカーテン越しに雨の駅前が見えた。店内にはジャズが流れていた。サックスの音が、雨音に混じってやわらかく揺れる。
「ナポリタン、ちょうどできたとこだけど、どう?」
「じゃあ……それ、ください」
「お水と一緒に持ってくるね」
そのやりとりが終わったあと、悠はカバンの中の履歴書を見つめて、ため息をついた。
(ほんとに、何がやりたいんだろう)
この数ヶ月、そんなことばかりを考えている。
やがて、香ばしい香りとともに皿が運ばれてきた。
「はい、ナポリタンと、水。あと、よかったらおしぼりも」
テーブルに置かれたおしぼりから湯気が立ち上っている。
「……ありがとうございます」
悠は、思わず笑った。こんな風に誰かにあたたかく接してもらったのは、久しぶりだった。
3. 優しい味
ナポリタンは、ケチャップが強すぎず、玉ねぎの甘さとウィンナーの塩気が絶妙だった。
麺の固さも、しっかりしていて、まるで“家の味”のよう。
食べながら、悠は自然と店の中を見渡した。古いポスター、手書きのメニュー、飴色のテーブル。
すべてが、丁寧に、でも力を抜いて整えられている。
彼女──店員の女性は、カウンターで帳簿をつけていた。長い髪を後ろでまとめ、指先だけで軽やかに電卓を打っている。
「美味しい?」
不意に声をかけられ、悠はハッとした。
「はい、すごく……」
「よかった。今日、雨すごいから、お客さんぜんぜん来ないの。久しぶりに出せて嬉しいな」
その笑顔に、胸があたたかくなった。
「ここのお店、長くやってるんですか?」
「んー、もう10年くらいになるかな。もともとは親の店だったんだけど、今は私がひとりでやってる」
「……落ち着きます」
「ありがとう」
雨音が強くなるなかで、ふたりの間にやわらかな沈黙が生まれた。
4. 手紙みたいな時間
ナポリタンを食べ終えたあと、悠はコーヒーを頼んだ。
彼女がいれたコーヒーは、香りが高く、苦味のあとにほんの少しだけ甘さが残った。
「就活、大変?」
彼女の問いに、悠は驚いたように顔を上げた。
「……わかります?」
「うん、すごく“就活スーツ”だから。でも似合ってるよ。真面目そうで」
「ありがとうございます。……でも、うまくいかなくて」
「そうか。でも、ナポリタン完食できたんだから、今日はそれだけでよしってことで」
「……なんか、それ、いいですね」
笑った彼女を見ながら、悠はふと感じていた。
この店の空気も、ナポリタンの味も、彼女の声も、全部が「手紙」みたいだった。
言葉じゃない何かが、心に届くような。
(もしかして、今、俺……)
自分でも気づかないまま、初恋に似た感情が芽生え始めていた。
5. 雨が上がる頃
時計は午後3時。そろそろ、次の会社説明会に向かわなければいけなかった。
悠は会計を済ませ、最後に言った。
「ありがとうございました。また、来ていいですか?」
「もちろん。雨の日でも、晴れの日でも、いつでも」
彼女は笑った。
「就活、応援してるね。次来たとき、ナポリタン以外のメニューも食べてほしいな」
「はい……あの、名前、聞いてもいいですか?」
彼女は少し驚いたあと、すこしだけ照れたように言った。
「美月(みづき)っていいます」
「美月さん……いい名前ですね」
「ありがと。あなたは?」
「佐藤 悠です」
そのやりとりが、何かの合図のように心に残った。
店を出ると、雨はやんでいた。アスファルトには雨の匂いが残っていて、空は少し明るくなっていた。
悠は思った。
(また来よう。晴れてても、雨でも、きっと)
6. 小さなはつこい
その後、何度か就活の途中で「モカ」に立ち寄った。
いつもナポリタンとコーヒー。美月は相変わらず、静かに優しく笑っていた。
ある日、内定が決まった帰り道、悠は美月に伝えた。
「報告、したかったんです。……受かりました」
「わぁ、よかった。ほんとうに、おめでとう」
「……ありがとうございます。ここのナポリタンで、がんばれました」
「ナポリタン、やるね」
二人で笑った。
何も特別なことはなかった。でも、それは確かに、人生で最初に“恋”に近い気持ちを抱いた瞬間だった。
今でも雨の日になると、悠は「モカ」の窓辺を思い出す。
あの匂いと、ナポリタンと、
そして、初恋の味。
その日、空は朝から重たくて、昼を待たずに本格的な雨が降り出した。
六月の終わり、就活中の大学四年生・佐藤悠(さとうゆう)は、都心のとある出版社の面接に向かっていた。黒いスーツに身を包み、緊張で喉が乾く。面接は、正直うまくいった気がしなかった。
「なにか質問ありますか?」
「……特に、ありません」
あの一言が、いまでも胸にひっかかっている。
(本当は、いろいろ聞きたかったのに)
就活という舞台の上では、うまく話せない。自分を売り込むことが、どうしても苦手だった。
駅へと急ぐ帰り道。傘を持っていなかった彼は、案の定、全身びしょ濡れになった。
シャツの襟が肌に張りついて気持ち悪い。駅前のロータリーに出たところで、悠は立ち止まった。
ふと視界に入ったのは、小さな古びた喫茶店。「珈琲 軽食 モカ」と書かれた木製の看板。濡れた文字がやけに優しく見えた。
「……入ってみるか」
雨宿りのつもりで、彼はガラス戸を押した。
2. ナポリタンの香り
カラン、とドアベルが鳴った瞬間、懐かしい匂いに包まれた。
コーヒー、トースト、タバコの残り香、そして……ナポリタン。
「いらっしゃいませ」
奥から現れたのは、エプロンをかけた女性だった。年は自分より少し上。落ち着いた雰囲気で、明るすぎない声が心地よい。
「ひとり? 濡れちゃってるね。窓際、空いてるよ」
「……はい」
案内された席に座ると、白いカーテン越しに雨の駅前が見えた。店内にはジャズが流れていた。サックスの音が、雨音に混じってやわらかく揺れる。
「ナポリタン、ちょうどできたとこだけど、どう?」
「じゃあ……それ、ください」
「お水と一緒に持ってくるね」
そのやりとりが終わったあと、悠はカバンの中の履歴書を見つめて、ため息をついた。
(ほんとに、何がやりたいんだろう)
この数ヶ月、そんなことばかりを考えている。
やがて、香ばしい香りとともに皿が運ばれてきた。
「はい、ナポリタンと、水。あと、よかったらおしぼりも」
テーブルに置かれたおしぼりから湯気が立ち上っている。
「……ありがとうございます」
悠は、思わず笑った。こんな風に誰かにあたたかく接してもらったのは、久しぶりだった。
3. 優しい味
ナポリタンは、ケチャップが強すぎず、玉ねぎの甘さとウィンナーの塩気が絶妙だった。
麺の固さも、しっかりしていて、まるで“家の味”のよう。
食べながら、悠は自然と店の中を見渡した。古いポスター、手書きのメニュー、飴色のテーブル。
すべてが、丁寧に、でも力を抜いて整えられている。
彼女──店員の女性は、カウンターで帳簿をつけていた。長い髪を後ろでまとめ、指先だけで軽やかに電卓を打っている。
「美味しい?」
不意に声をかけられ、悠はハッとした。
「はい、すごく……」
「よかった。今日、雨すごいから、お客さんぜんぜん来ないの。久しぶりに出せて嬉しいな」
その笑顔に、胸があたたかくなった。
「ここのお店、長くやってるんですか?」
「んー、もう10年くらいになるかな。もともとは親の店だったんだけど、今は私がひとりでやってる」
「……落ち着きます」
「ありがとう」
雨音が強くなるなかで、ふたりの間にやわらかな沈黙が生まれた。
4. 手紙みたいな時間
ナポリタンを食べ終えたあと、悠はコーヒーを頼んだ。
彼女がいれたコーヒーは、香りが高く、苦味のあとにほんの少しだけ甘さが残った。
「就活、大変?」
彼女の問いに、悠は驚いたように顔を上げた。
「……わかります?」
「うん、すごく“就活スーツ”だから。でも似合ってるよ。真面目そうで」
「ありがとうございます。……でも、うまくいかなくて」
「そうか。でも、ナポリタン完食できたんだから、今日はそれだけでよしってことで」
「……なんか、それ、いいですね」
笑った彼女を見ながら、悠はふと感じていた。
この店の空気も、ナポリタンの味も、彼女の声も、全部が「手紙」みたいだった。
言葉じゃない何かが、心に届くような。
(もしかして、今、俺……)
自分でも気づかないまま、初恋に似た感情が芽生え始めていた。
5. 雨が上がる頃
時計は午後3時。そろそろ、次の会社説明会に向かわなければいけなかった。
悠は会計を済ませ、最後に言った。
「ありがとうございました。また、来ていいですか?」
「もちろん。雨の日でも、晴れの日でも、いつでも」
彼女は笑った。
「就活、応援してるね。次来たとき、ナポリタン以外のメニューも食べてほしいな」
「はい……あの、名前、聞いてもいいですか?」
彼女は少し驚いたあと、すこしだけ照れたように言った。
「美月(みづき)っていいます」
「美月さん……いい名前ですね」
「ありがと。あなたは?」
「佐藤 悠です」
そのやりとりが、何かの合図のように心に残った。
店を出ると、雨はやんでいた。アスファルトには雨の匂いが残っていて、空は少し明るくなっていた。
悠は思った。
(また来よう。晴れてても、雨でも、きっと)
6. 小さなはつこい
その後、何度か就活の途中で「モカ」に立ち寄った。
いつもナポリタンとコーヒー。美月は相変わらず、静かに優しく笑っていた。
ある日、内定が決まった帰り道、悠は美月に伝えた。
「報告、したかったんです。……受かりました」
「わぁ、よかった。ほんとうに、おめでとう」
「……ありがとうございます。ここのナポリタンで、がんばれました」
「ナポリタン、やるね」
二人で笑った。
何も特別なことはなかった。でも、それは確かに、人生で最初に“恋”に近い気持ちを抱いた瞬間だった。
今でも雨の日になると、悠は「モカ」の窓辺を思い出す。
あの匂いと、ナポリタンと、
そして、初恋の味。
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