澪のかたち

naomikoryo

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【第3話】記憶の中の違和感

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朝、目を覚ました瞬間、頭の奥で何かが引っかかっていた。
それは夢の残滓のようでもあり、昨日見た“現実”のようでもあった。

(……本当に、置いてあったんだよな?)

赤いスカーフ。

昨夜、封筒と一緒に紙袋に入れて、リビングの引き出しにしまったはずだった。

だが朝、目覚めると、それはベッドサイドに丁寧に畳まれて置かれていた。

部屋は施錠されていた。
窓も閉まっていた。

家には俺しかいないはずだ。
けれど確かに、誰かがここに入り込んだ痕跡がある。

誰かが――“俺の生活”に、静かに入り込んでいる。

(昨日の足音……あれは夢じゃなかった)
(本当に誰かが家の中を歩いていた)

壁掛け時計の針が午前7時を指している。

会社に行く支度をしながらも、心はずっと、背後を気にしていた。

何気なく歯を磨くときも。
コーヒーを淹れるときも。
スーツのジャケットを羽織るときも。
まるで背後に、誰かの視線を感じているような――そんな感覚が、肌にまとわりつく。

(誰かが、俺を見ている)

◇◆◇

出社すると、オフィスの空気が昨日よりも幾分張り詰めていた。
挨拶もまばらで、誰もが妙に口数が少ない。

中には、警備チームに呼び出されている社員もいた。

神原本部長の姿は見えなかった。

(情報規制か。昨日の件、まだ表には出さないつもりだな)

そう思いながら、PCの電源を入れたときだった。

「おはようございます、如月さん」

あの声が背後から響いた。

振り返ると、そこには白衣を着た澪が立っていた。

「この前、資料棚でファイル探してたとき、つい……手が滑ってしまって」

と、澪は笑った。

「癖で、ファイルを五十音順に並べ替えちゃったんです。元の順番に戻したほうがいいですか?」

その瞬間、胸の奥が冷たくなった。

(……癖?)

(由衣も、まったく同じことをやっていた)

記録用のファイルや患者データを「自分の見やすいように」と五十音順に並べ替え、後で注意される――そんな出来事が、何度もあった。

「あ、でも、迷惑でしたら今すぐ直しますね。私、つい手が勝手に……」

(それも、同じ言い方だ)
(“手が勝手に”――由衣はいつもそう言ってた)

思わず、口が動いた。

「……それ、前にも言ったことない?」

「え?」

「“手が勝手に”って。どこかで……聞いた気がして」

澪は一瞬、驚いたように目を見開き――そして、ふっと笑った。

「私、よく言うんです。子どもの頃からの口癖で」

そう答えたが、その笑顔の裏に、何かを隠しているような気配があった。

(いや……隠しているのか? それとも、彼女自身が気づいていないのか?)

◇◆◇

その日の午後、俺は昼休みを利用して、研究棟Bの奥にある資料室に向かった。

旧プロジェクトに関する物理資料の中に、由衣が生前に関与していた可能性のある記録が残っているかもしれない――そう考えたからだ。

資料室のドアを開けると、埃とインクの混じった匂いが鼻をついた。
照明は一部しか点いておらず、棚の影が床に伸びていた。

ファイル棚を手繰るうち、ふと、茶色い古いフォルダーが目に留まった。

「記憶転写試験プロトタイプ - 2018年6月期」

それは――由衣が事故死した年の、直前の時期のものだった。

震える手で中身を取り出す。

そこには、手書きでびっしりと埋められた実験記録と、被験者コード「Y-K04」の文字があった。

(Y-K……由衣・如月?)

さらにその記録の端に、小さな走り書きがあった。

「被験者の精神安定度、良好。記憶転写試験において感情領域が過剰活性化。注意」

記録には、日付とともに、被験者との面談要旨が記されていた。

『記憶とは、魂の模倣ではなく、魂そのものを呼び起こす“鍵”かもしれない』
『意識が生まれる条件は、情報の総量よりも、順番にある』
『転写が完了すれば、それはもう“同一人物”と呼んでいいのではないか』

読んでいるうちに、胸がざわめいた。

(由衣は……本当にこの研究に、関わっていたのか?)

(記憶の転写……魂の模倣……)

(まさか、澪は……)

そのとき、背後で何かが落ちる音がした。

ぎょっとして振り向く。

誰もいない。

だが、棚の上から資料の束が落ちていた。

慌てて拾い上げると、その中に一枚の写真が紛れていた。

そこに映っていたのは――由衣だった。

いや、由衣に“しか”見えない女性だった。

白衣を着て、何かのサンプルを持ちながら、こちらに向かって微笑んでいる。

撮影日付は、2018年6月12日。
由衣が事故で亡くなる、わずか10日前。

だがその写真の裏には、奇妙なメモが書かれていた。

『補完対象:“葉山 澪”』

(……どういうことだ?)

(由衣が……澪を“補完”する?)

背中に冷たい汗が流れた。

◇◆◇

その夜、帰宅すると部屋の空気がわずかに変わっていた。
家具の配置が微妙に違う。
リモコンの向き、置いていたコースターの角度、壁にかけたジャケットのズレ。

(誰かが入った……)

鍵には異常はない。
だが“居た”という感覚だけが、部屋のあちこちに染みついていた。

俺は意を決して、USBメモリを金庫へとしまった。
これ以上、表に出しておくのは危険すぎる。

そしてベッドに倒れ込むように横になる。

だが、目を閉じても、瞼の裏に浮かぶのは澪の顔だった。

(あれは、由衣ではない)

(でも、どこかで“続いている”)

(記憶の中の違和感――それは、澪が“由衣の続きを生きている”からだ)

目を開けると、天井の隅に、何かが見えた。

小さな黒い点。

それは……カメラだった。

(……嘘だろ)

天井裏から伸びた、微細な光学ケーブルが光を反射していた。

(いつから……? 誰が?)

その瞬間、スマホが震えた。

通知は“画像添付ファイル”。

開くと、そこには“俺がUSBメモリを金庫にしまう瞬間の写真”があった。

(誰かが……家の中の俺を監視している)

(――いや、“彼女”か?)

画面に、次のメッセージが現れる。

『彼女に触れ続けると、記憶は侵食される。
お前は、どこまで自分でいられるか?』

頭が割れるように痛くなった。

この記憶は、自分のものなのか?
この感情は、由衣のものなのか?
この恐怖は――

(もう、何が現実か分からない)

◇◆◇

次の日、澪が俺に微笑んだ。

「昨日、夢に如月さんが出てきたんです」

「夢に……?」

「なんでか分からないけど、懐かしい感じがして……うまく言えないんですけど」

彼女は、唇に手を添えて言った。

「……たぶん、あれは“前にも見た夢”なんだと思います」

俺は、背中が凍るのを感じた。

それは由衣が生前、まったく同じ言葉で俺に語った“夢”の記憶だった。

「夢なのに、なつかしい。
もう会ったことのある人みたいな、そんな感じ」

(なぜ、そんな言葉を――)

(なぜ、君は……由衣を、なぞっている?)

彼女は、俺の顔をじっと見つめた。

その目は、どこか……哀しげだった。
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