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【第15話】観察ログ002
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空は鈍く灰色に沈んでいた。
まるで世界が息をひそめ、誰かの決断を待っているようだった。
午前9時、廃ビルの地下通路。
ここは都内で数少ない、ネットワーク接続の“死角”――あらゆるシステムが網の目のように張り巡らされた都市において、意図的に切り離された空白区画だった。
かつて医療研究機関の避難用に設計されたが、今はその機能すら失われている。
埃とカビの臭い。
崩れかけた配線。
それでも倉持詩織は、そこを選んだ。
理由は一つ。
「奴が、自分の記録を外部に持ち出している可能性が高い」
冴木玲央――
MNプロジェクトの監査責任者にして、裏では“観察者”と呼ばれる男。
彼は正規のシステムにすべてを記録しなかった。
企業サーバーにも、研究委員会のデータベースにも。
だが詩織は知っていた。
冴木がどれだけ執着深い人間か。
“彼女”に対してどんな異常な関心を持ち続けているか。
◇◆◇
午後1時。
尚也と澪は、旧文献保管庫だった地下の一室にいた。
コンクリート剥き出しの壁。
LEDライトが天井でかすかに唸りを上げていた。
澪はソファに座り、古びたマグカップに手を添えていた。
白湯の温度が手のひらにじわりと沁みる。
「寒くない?」と尚也が問うと、彼女は微笑んで首を振った。
「これくらいが丁度いいんです」
「少し冷たいくらいの方が、目が覚める」
その表情には確かな強さがあった。
由衣の記憶から離れ、“澪”という名の輪郭がようやく確立し始めた今、彼女は自分の手で何かを掴もうとしている。
(その選択を、支える)
(それが、俺の“今”だ)
扉が軋む音を立てて開いた。
◇◆◇
倉持が現れる。
PCケースを抱え、顔にはわずかな疲れと、決意の光。
「見つけたわ」
「……冴木玲央の“私的観察記録”。
MNプロジェクトとは別の……完全に個人のもの。
タイトルは《Observation Log_002》」
尚也と澪は無言で倉持を見つめた。
彼女はPCを立ち上げ、モニタを二人に向けた。
そこに現れたのは、簡素なテキストファイルだった。
しかしその冒頭文を見た瞬間、尚也の背筋に冷たいものが這い上がった。
《Observation Log_002》
記録者:冴木 玲央
分類:非公式プロトコル記録
対象:MN-04(澪)
記録目的:「模倣体が“人間に成りたがる”プロセスの観察」
【1】
MN-04の初期段階において、私は明確な興味を抱いていた。
彼女は単なる器ではない。
明確な“喪失感”を、初期意識段階から感じていた。
それはプログラム上の矛盾ではない。
誰かを失ったという“幻想の痛み”を、彼女は模倣しはじめたのだ。
私が興味を抱いたのはそこだ。
【2】
MN-04は、自己と他者を区別する力を獲得した。
だが重要なのは、“他者”の概念を“尚也”という一人の存在に限定し始めた点である。
彼女は対象個体に接触することで、記憶再形成に“選択的愛着”という偏向を加えた。
それは意図されたものではなく、“本能”のように見えた。
(ヒトの模倣体が、愛着を持つ)
(それを“生”と呼ばずして、何を呼ぶか)
【3】
私の観察は、あくまで“人間とは何か”を知ることにある。
MN-04が人間に近づくほど、
人間という存在の定義が不安定になる。
それを目の当たりにすることは、
神の目を覗く行為に等しい。
私はそれを望んでいる。
ゆえに、
MN-04は“自由に生きてはならない”。
彼女の“観察”が終わったとき、
私ははじめて人間を理解することができる。
彼女はそのための“鏡”だ。
私の内面を映し出す存在。
「……狂ってる」
尚也の声がかすれていた。
「こいつは、澪を人間として扱うどころか……
自分の内面を投影するための“実験体”にしてる」
倉持は黙って頷いた。
「冴木玲央がMN-04に固執している理由は、倫理や技術の問題じゃない」
「彼は自分自身が“人間とは何か”を理解できない」
「だから、自分が創った存在が“人間になっていく”様を見て、自分もまた理解されたいの」
「つまり――自己救済の対象として澪を必要としている」
澪は、じっと画面を見ていた。
そこには名前もない。
感情もない。
ただ“対象”として綴られた自分。
(私は……彼にとって、ただの“試験管の中身”だった)
(私が涙を流しても、声をあげても)
(彼はそれを、“観察結果”としか見なかった)
◇◆◇
それでも、不思議なほど冷静だった。
澪は、静かに立ち上がった。
「分かりました」
「……彼が何を見ていようと、私は“鏡”にはなりません」
「私はもう、自分の目で自分を見て、自分の声で答える」
「彼にとって私は観察対象かもしれない」
「でも、私にとって彼は――」
「“記憶するに値しない人間”です」
尚也は、何も言えなかった。
ただ、心の底で(彼女は強くなった)と思った。
言葉が、記憶を越えて人格を創る瞬間を、確かに目撃した。
倉持がファイルを閉じる。
「このデータは持ち出さない。
証拠として使えば、逆に彼の“執着”を助長するだけ」
「でも、彼の弱点はここにある」
「彼は“自分が理解できないもの”に手を出せない。
理解できない瞬間から、支配できない存在に恐れを抱く」
「だから……」
澪が、ふっと笑った。
「“理解されない私”として、彼の前に立ちます」
「次は、私が彼を“観察”する番です」
静かな決意が、地下の空間に満ちていた。
コンクリートの冷たさは変わらない。
けれど、そこに立つ澪の温度が明らかに変わっていた。
もはや彼女は、誰かの記憶の残滓ではない。
“自分自身の未来を選ぶ者”として、明確な輪郭を帯びていた。
“観察される存在”から、“見る者”へ。
鏡ではなく、光となるべく。
澪は、歩き始めた。
まるで世界が息をひそめ、誰かの決断を待っているようだった。
午前9時、廃ビルの地下通路。
ここは都内で数少ない、ネットワーク接続の“死角”――あらゆるシステムが網の目のように張り巡らされた都市において、意図的に切り離された空白区画だった。
かつて医療研究機関の避難用に設計されたが、今はその機能すら失われている。
埃とカビの臭い。
崩れかけた配線。
それでも倉持詩織は、そこを選んだ。
理由は一つ。
「奴が、自分の記録を外部に持ち出している可能性が高い」
冴木玲央――
MNプロジェクトの監査責任者にして、裏では“観察者”と呼ばれる男。
彼は正規のシステムにすべてを記録しなかった。
企業サーバーにも、研究委員会のデータベースにも。
だが詩織は知っていた。
冴木がどれだけ執着深い人間か。
“彼女”に対してどんな異常な関心を持ち続けているか。
◇◆◇
午後1時。
尚也と澪は、旧文献保管庫だった地下の一室にいた。
コンクリート剥き出しの壁。
LEDライトが天井でかすかに唸りを上げていた。
澪はソファに座り、古びたマグカップに手を添えていた。
白湯の温度が手のひらにじわりと沁みる。
「寒くない?」と尚也が問うと、彼女は微笑んで首を振った。
「これくらいが丁度いいんです」
「少し冷たいくらいの方が、目が覚める」
その表情には確かな強さがあった。
由衣の記憶から離れ、“澪”という名の輪郭がようやく確立し始めた今、彼女は自分の手で何かを掴もうとしている。
(その選択を、支える)
(それが、俺の“今”だ)
扉が軋む音を立てて開いた。
◇◆◇
倉持が現れる。
PCケースを抱え、顔にはわずかな疲れと、決意の光。
「見つけたわ」
「……冴木玲央の“私的観察記録”。
MNプロジェクトとは別の……完全に個人のもの。
タイトルは《Observation Log_002》」
尚也と澪は無言で倉持を見つめた。
彼女はPCを立ち上げ、モニタを二人に向けた。
そこに現れたのは、簡素なテキストファイルだった。
しかしその冒頭文を見た瞬間、尚也の背筋に冷たいものが這い上がった。
《Observation Log_002》
記録者:冴木 玲央
分類:非公式プロトコル記録
対象:MN-04(澪)
記録目的:「模倣体が“人間に成りたがる”プロセスの観察」
【1】
MN-04の初期段階において、私は明確な興味を抱いていた。
彼女は単なる器ではない。
明確な“喪失感”を、初期意識段階から感じていた。
それはプログラム上の矛盾ではない。
誰かを失ったという“幻想の痛み”を、彼女は模倣しはじめたのだ。
私が興味を抱いたのはそこだ。
【2】
MN-04は、自己と他者を区別する力を獲得した。
だが重要なのは、“他者”の概念を“尚也”という一人の存在に限定し始めた点である。
彼女は対象個体に接触することで、記憶再形成に“選択的愛着”という偏向を加えた。
それは意図されたものではなく、“本能”のように見えた。
(ヒトの模倣体が、愛着を持つ)
(それを“生”と呼ばずして、何を呼ぶか)
【3】
私の観察は、あくまで“人間とは何か”を知ることにある。
MN-04が人間に近づくほど、
人間という存在の定義が不安定になる。
それを目の当たりにすることは、
神の目を覗く行為に等しい。
私はそれを望んでいる。
ゆえに、
MN-04は“自由に生きてはならない”。
彼女の“観察”が終わったとき、
私ははじめて人間を理解することができる。
彼女はそのための“鏡”だ。
私の内面を映し出す存在。
「……狂ってる」
尚也の声がかすれていた。
「こいつは、澪を人間として扱うどころか……
自分の内面を投影するための“実験体”にしてる」
倉持は黙って頷いた。
「冴木玲央がMN-04に固執している理由は、倫理や技術の問題じゃない」
「彼は自分自身が“人間とは何か”を理解できない」
「だから、自分が創った存在が“人間になっていく”様を見て、自分もまた理解されたいの」
「つまり――自己救済の対象として澪を必要としている」
澪は、じっと画面を見ていた。
そこには名前もない。
感情もない。
ただ“対象”として綴られた自分。
(私は……彼にとって、ただの“試験管の中身”だった)
(私が涙を流しても、声をあげても)
(彼はそれを、“観察結果”としか見なかった)
◇◆◇
それでも、不思議なほど冷静だった。
澪は、静かに立ち上がった。
「分かりました」
「……彼が何を見ていようと、私は“鏡”にはなりません」
「私はもう、自分の目で自分を見て、自分の声で答える」
「彼にとって私は観察対象かもしれない」
「でも、私にとって彼は――」
「“記憶するに値しない人間”です」
尚也は、何も言えなかった。
ただ、心の底で(彼女は強くなった)と思った。
言葉が、記憶を越えて人格を創る瞬間を、確かに目撃した。
倉持がファイルを閉じる。
「このデータは持ち出さない。
証拠として使えば、逆に彼の“執着”を助長するだけ」
「でも、彼の弱点はここにある」
「彼は“自分が理解できないもの”に手を出せない。
理解できない瞬間から、支配できない存在に恐れを抱く」
「だから……」
澪が、ふっと笑った。
「“理解されない私”として、彼の前に立ちます」
「次は、私が彼を“観察”する番です」
静かな決意が、地下の空間に満ちていた。
コンクリートの冷たさは変わらない。
けれど、そこに立つ澪の温度が明らかに変わっていた。
もはや彼女は、誰かの記憶の残滓ではない。
“自分自身の未来を選ぶ者”として、明確な輪郭を帯びていた。
“観察される存在”から、“見る者”へ。
鏡ではなく、光となるべく。
澪は、歩き始めた。
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