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第五話:ホットワインの香りと
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空港を出ると、空気の冷たさが頬を刺した。
ドイツ・フランクフルト。
冬の留学先として選んだこの街は、想像以上に寒くて、そして寂しかった。
大学の交換留学プログラム。異国の言葉、見慣れない生活習慣、慣れないバスの乗り方、長く続く夜――
私はここで、自分が何も知らない存在なのだと、何度も思い知らされた。
十二月も半ばを過ぎたころ、教授がこう言った。
「週末、クリスマスマーケットに行ってみたらいい。君のドイツ語も、少しは役に立つかもしれないよ」
勧められるがままに、私はひとり、街の中心部へ向かった。
広場にはたくさんの屋台が並び、カラフルなイルミネーションが夜空を染めていた。
甘い焼き菓子の香り、木製のおもちゃ、手作りのオーナメント……
まるで絵本の中に迷い込んだような景色。だけど、私の手はポケットの中でこわばったまま。
通りすがりの声は早口のドイツ語で、看板の意味もすぐにはわからない。注文の仕方も、お金の渡し方もぎこちない。
まわりは楽しそうなのに、自分だけがこの場に溶け込めていないような気がして、胸がざわついた。
そんなときだった。
「……Entschuldigung?(すみません)」
やさしい声が、肩越しにかけられた。振り返ると、そこにひとりの青年が立っていた。
金髪で、瞳は明るい灰色。毛糸のニット帽を被り、頬は少し赤い。私より少し年上に見えた。
「迷ってる? グリューワイン、飲んだことある?」
「……グリューワイン?」
「温かいワイン。冬のドイツでは定番だよ。飲める?」
その英語に助けられ、私はこくりとうなずいた。
「……じゃあ、奢る。お礼はいらない。君、ちょっと寂しそうな顔してたから」
そう言って、彼は手招きする。私は言われるままについていった。
屋台の前で注文を終えると、すぐにふたつのマグカップが手渡された。
赤ワインにスパイスと果物を煮込んだ香りが、ふわりと立ち上る。
冷えた指に、カップの熱がじんわりと染み込んできた。
「乾杯……って、日本語で何て言うの?」
「かんぱい、だよ」
「カンパイ。いい言葉だね」
ふたりは、紙のコースター越しに静かにマグを合わせた。
名前はレオン。フランクフルト出身で、美術系の大学に通っているという。日本文化に少し興味があるらしく、アニメの名前をいくつか挙げてみせた。
「でも、実際に日本人と話すの、君が初めて」
「私も、ドイツの人とこんな風に話すの、初めて」
言葉はときどきつかえながら、でも不思議と会話は止まらなかった。
レオンは言った。
「君の英語、ちゃんと伝わってる。発音もきれい。心が通ってるから、大丈夫」
その一言で、私の緊張は一気にほどけた。
「ありがとう。……ほんとに、ありがとう」
その夜、ふたりはマーケットの端まで歩いた。
木のスノードームを手に取り、レオンが「これ、どこかで見たことある」と笑う。焼き栗の屋台では、熱々の栗を半分こして食べた。
「寒いね」と言えば、彼は自分のマフラーをそっと半分、私の肩にかけてくれた。
それはまるで、誰かと待ち合わせをしていたのに、間違ってこの世界に来てしまったふたりが、偶然にも出会ったような感覚だった。
「明日も、ここに来る?」
別れ際、レオンがそう訊いた。
「うん。来る。……あなたに、また会いたいから」
言葉にしてしまってから、顔が熱くなった。
でも、レオンは優しくうなずいてくれた。
「じゃあ、また明日。19時、ここで」
翌日も、そしてその次の日も、私はレオンと過ごした。
彼は絵を描く人で、好きな風景をスケッチするために、いつもスケッチブックを持っていた。
その日、ふと見せてくれたスケッチの中に、昨日の私の姿があった。
屋台の灯りの下で、マグカップを手にした私。柔らかい線で描かれていて、少しだけ笑っていた。
「……これ、私?」
「そう。君がいた景色が、すごく綺麗だったから」
その言葉が、何よりうれしかった。
そして、クリスマス・イブの夜。
マーケットは一番の盛り上がりを見せていた。
レオンと並んで歩きながら、私は言った。
「私、年明けには日本に帰るの。……あと、十日しかない」
彼は黙って、それからそっと言った。
「十日あれば、君をちゃんと好きになるには、十分だよ」
その一言で、胸がいっぱいになった。
私たちは、観覧車に乗った。静かな夜空に、ゆっくりと浮かび上がっていく。上から見るマーケットは、小さな光の海だった。
私はレオンの肩に頭を預けて、ぽつりと言った。
「ありがとう。あなたに会えてよかった。あのとき、声をかけてくれて」
「僕の方こそ。君に出会えて、今年一番のプレゼントだった」
帰国の日、空港まで彼が来てくれた。
別れ際、私の手に、小さな包みがそっと渡された。
「開けるのは、飛行機が飛んでから」
言われたとおり、私は機内で包みを開いた。
中にあったのは、木でできた小さなマグカップのオーナメント。そこには「KANPAI」と焼き印が入っていた。
そして、メモにこう書かれていた。
“You were the warmth in my winter.”
――「君は、僕の冬のぬくもりだった」
ホットワインの香りが、今も記憶に残っている。
それは、言葉を超えて通じ合った、短くてあたたかな冬の恋の味だった。
ドイツ・フランクフルト。
冬の留学先として選んだこの街は、想像以上に寒くて、そして寂しかった。
大学の交換留学プログラム。異国の言葉、見慣れない生活習慣、慣れないバスの乗り方、長く続く夜――
私はここで、自分が何も知らない存在なのだと、何度も思い知らされた。
十二月も半ばを過ぎたころ、教授がこう言った。
「週末、クリスマスマーケットに行ってみたらいい。君のドイツ語も、少しは役に立つかもしれないよ」
勧められるがままに、私はひとり、街の中心部へ向かった。
広場にはたくさんの屋台が並び、カラフルなイルミネーションが夜空を染めていた。
甘い焼き菓子の香り、木製のおもちゃ、手作りのオーナメント……
まるで絵本の中に迷い込んだような景色。だけど、私の手はポケットの中でこわばったまま。
通りすがりの声は早口のドイツ語で、看板の意味もすぐにはわからない。注文の仕方も、お金の渡し方もぎこちない。
まわりは楽しそうなのに、自分だけがこの場に溶け込めていないような気がして、胸がざわついた。
そんなときだった。
「……Entschuldigung?(すみません)」
やさしい声が、肩越しにかけられた。振り返ると、そこにひとりの青年が立っていた。
金髪で、瞳は明るい灰色。毛糸のニット帽を被り、頬は少し赤い。私より少し年上に見えた。
「迷ってる? グリューワイン、飲んだことある?」
「……グリューワイン?」
「温かいワイン。冬のドイツでは定番だよ。飲める?」
その英語に助けられ、私はこくりとうなずいた。
「……じゃあ、奢る。お礼はいらない。君、ちょっと寂しそうな顔してたから」
そう言って、彼は手招きする。私は言われるままについていった。
屋台の前で注文を終えると、すぐにふたつのマグカップが手渡された。
赤ワインにスパイスと果物を煮込んだ香りが、ふわりと立ち上る。
冷えた指に、カップの熱がじんわりと染み込んできた。
「乾杯……って、日本語で何て言うの?」
「かんぱい、だよ」
「カンパイ。いい言葉だね」
ふたりは、紙のコースター越しに静かにマグを合わせた。
名前はレオン。フランクフルト出身で、美術系の大学に通っているという。日本文化に少し興味があるらしく、アニメの名前をいくつか挙げてみせた。
「でも、実際に日本人と話すの、君が初めて」
「私も、ドイツの人とこんな風に話すの、初めて」
言葉はときどきつかえながら、でも不思議と会話は止まらなかった。
レオンは言った。
「君の英語、ちゃんと伝わってる。発音もきれい。心が通ってるから、大丈夫」
その一言で、私の緊張は一気にほどけた。
「ありがとう。……ほんとに、ありがとう」
その夜、ふたりはマーケットの端まで歩いた。
木のスノードームを手に取り、レオンが「これ、どこかで見たことある」と笑う。焼き栗の屋台では、熱々の栗を半分こして食べた。
「寒いね」と言えば、彼は自分のマフラーをそっと半分、私の肩にかけてくれた。
それはまるで、誰かと待ち合わせをしていたのに、間違ってこの世界に来てしまったふたりが、偶然にも出会ったような感覚だった。
「明日も、ここに来る?」
別れ際、レオンがそう訊いた。
「うん。来る。……あなたに、また会いたいから」
言葉にしてしまってから、顔が熱くなった。
でも、レオンは優しくうなずいてくれた。
「じゃあ、また明日。19時、ここで」
翌日も、そしてその次の日も、私はレオンと過ごした。
彼は絵を描く人で、好きな風景をスケッチするために、いつもスケッチブックを持っていた。
その日、ふと見せてくれたスケッチの中に、昨日の私の姿があった。
屋台の灯りの下で、マグカップを手にした私。柔らかい線で描かれていて、少しだけ笑っていた。
「……これ、私?」
「そう。君がいた景色が、すごく綺麗だったから」
その言葉が、何よりうれしかった。
そして、クリスマス・イブの夜。
マーケットは一番の盛り上がりを見せていた。
レオンと並んで歩きながら、私は言った。
「私、年明けには日本に帰るの。……あと、十日しかない」
彼は黙って、それからそっと言った。
「十日あれば、君をちゃんと好きになるには、十分だよ」
その一言で、胸がいっぱいになった。
私たちは、観覧車に乗った。静かな夜空に、ゆっくりと浮かび上がっていく。上から見るマーケットは、小さな光の海だった。
私はレオンの肩に頭を預けて、ぽつりと言った。
「ありがとう。あなたに会えてよかった。あのとき、声をかけてくれて」
「僕の方こそ。君に出会えて、今年一番のプレゼントだった」
帰国の日、空港まで彼が来てくれた。
別れ際、私の手に、小さな包みがそっと渡された。
「開けるのは、飛行機が飛んでから」
言われたとおり、私は機内で包みを開いた。
中にあったのは、木でできた小さなマグカップのオーナメント。そこには「KANPAI」と焼き印が入っていた。
そして、メモにこう書かれていた。
“You were the warmth in my winter.”
――「君は、僕の冬のぬくもりだった」
ホットワインの香りが、今も記憶に残っている。
それは、言葉を超えて通じ合った、短くてあたたかな冬の恋の味だった。
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