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第十話:春を待たずに
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大きな窓の向こうには、淡くけぶる冬の空が広がっていた。
病室のベッドに座りながら、私は今日もその空を眺めている。
色を失った枝々が風に揺れ、屋上の隅に積もった雪が、少しずつ溶けていく。
この病院に入院して、もうすぐ半年になる。
病名は難しくて、説明されても全部は理解できなかったけど、要するに「時間には限りがある」ということだった。
高校を休学し、友達とも会えず、校舎の中の時間から切り離されて、私はここで冬を迎えた。
毎日が静かだった。
ときどき胸が痛くなる。体が熱を持つ。
でも、それよりも苦しかったのは、何も「変わらない」ことだった。
そんな中で――彼は現れた。
彼の名前は**伊織(いおり)**くん。
病院内のボランティア活動で、週に二回、図書室の本を各病室へ届ける係をしている大学生だった。
はじめて会ったのは、十二月の初め。
あの日、私の部屋に彼が本を届けに来たとき、うっかり持ってきたのは、絵本だった。
「す、すみません! 間違えました! 子ども向けのやつでしたよね、これ……」
その慌てっぷりに、思わず笑ってしまった。
「別にいいよ。かわいいし。……読んであげてもいいよ?」
からかうように言ったら、彼は困った顔をしながらも、素直にページをめくって読んでくれた。
優しい声だった。声を聞くだけで、少し眠くなるくらい。
それから、彼は毎週、私に本を届けに来るようになった。
もちろん、それは仕事の一環だったのだろうけれど――
「ついでに、少し話していってもいい?」と彼が言ったときから、私たちの関係は少しだけ変わり始めた。
伊織くんは、音楽が好きで、大学ではピアノを専攻していた。
「趣味で作曲もするんだけど、誰にも聴かせたことなくてさ……」
「じゃあ、私が聴いてあげる」
私はそう言って、彼のスマホから流れるメロディに耳を傾けた。
ゆるやかで、どこか切ない旋律。だけど、その中にしっかりと温もりがあった。
「……好き。これ。なんていう曲?」
「……まだ名前、ないんだ。でも、君が最初の“リスナー”だね」
「それじゃ、“雪の部屋で”とか、どう?」
彼は笑ってうなずいた。
「いいね。じゃあ、この曲は君のための曲にしよう」
年が明けて、雪が強くなる日が増えてきた頃。
私は、少しずつ体がきつくなっていた。
伊織くんはそれに気づいていた。でも、何も訊かなかった。
代わりに、話してくれたのは――春から留学が決まったという話だった。
「ドイツに行くんだ。ベルリン。音楽の勉強、もっとしたくて」
「……そっか。すごいね」
そう言った声が、ほんの少しだけ震えてしまったのを、自分でもわかった。
「でも、迷ってたんだ。君に会うようになってから。……もっと、ここにいたくなったから」
「そんなの、ダメ」
私は、強く言った。
「私のせいで、夢を諦めるなんて、そんなの絶対に違う。……伊織くんは、行くべきだよ」
彼はしばらく黙って、それからぽつりとつぶやいた。
「……君がいなくなってしまうのが、怖いんだ」
「私も、伊織くんが遠くに行くの、怖いよ」
目の奥が熱くなった。泣きたくなかったけれど、涙は勝手にあふれてくる。
「でも」
私は、精一杯の笑顔で言った。
「春を待たなくても……好きになっていい?」
彼は、強くうなずいた。
そして、そっと私の手を握った。
指先は細くて、少し冷たかった。
でも、それはこの冬のなかで、いちばん温かいぬくもりだった。
彼が旅立つ朝、私は病室のベッドで手紙を書いた。
春を待たずに、私はあなたを好きになりました。
言葉じゃ足りないほど、あなたに救われました。
私はもう、春を待つことはできないかもしれないけど――あなたの音楽が、私の春です。
それが、彼に渡した最後の手紙になった。
あれから何年も経った今でも、あの冬の空を思い出す。
カーテン越しに見た白い光。手のぬくもり。名もなきメロディ。
――私はたしかに、恋をして、生きていた。
春を待たずに生まれた恋は、季節を越えて、静かに心に残る。
それは、終わらなかった恋。
たとえ時間が止まってしまっても、あの旋律は、ずっと、胸の奥で鳴り続けている。
病室のベッドに座りながら、私は今日もその空を眺めている。
色を失った枝々が風に揺れ、屋上の隅に積もった雪が、少しずつ溶けていく。
この病院に入院して、もうすぐ半年になる。
病名は難しくて、説明されても全部は理解できなかったけど、要するに「時間には限りがある」ということだった。
高校を休学し、友達とも会えず、校舎の中の時間から切り離されて、私はここで冬を迎えた。
毎日が静かだった。
ときどき胸が痛くなる。体が熱を持つ。
でも、それよりも苦しかったのは、何も「変わらない」ことだった。
そんな中で――彼は現れた。
彼の名前は**伊織(いおり)**くん。
病院内のボランティア活動で、週に二回、図書室の本を各病室へ届ける係をしている大学生だった。
はじめて会ったのは、十二月の初め。
あの日、私の部屋に彼が本を届けに来たとき、うっかり持ってきたのは、絵本だった。
「す、すみません! 間違えました! 子ども向けのやつでしたよね、これ……」
その慌てっぷりに、思わず笑ってしまった。
「別にいいよ。かわいいし。……読んであげてもいいよ?」
からかうように言ったら、彼は困った顔をしながらも、素直にページをめくって読んでくれた。
優しい声だった。声を聞くだけで、少し眠くなるくらい。
それから、彼は毎週、私に本を届けに来るようになった。
もちろん、それは仕事の一環だったのだろうけれど――
「ついでに、少し話していってもいい?」と彼が言ったときから、私たちの関係は少しだけ変わり始めた。
伊織くんは、音楽が好きで、大学ではピアノを専攻していた。
「趣味で作曲もするんだけど、誰にも聴かせたことなくてさ……」
「じゃあ、私が聴いてあげる」
私はそう言って、彼のスマホから流れるメロディに耳を傾けた。
ゆるやかで、どこか切ない旋律。だけど、その中にしっかりと温もりがあった。
「……好き。これ。なんていう曲?」
「……まだ名前、ないんだ。でも、君が最初の“リスナー”だね」
「それじゃ、“雪の部屋で”とか、どう?」
彼は笑ってうなずいた。
「いいね。じゃあ、この曲は君のための曲にしよう」
年が明けて、雪が強くなる日が増えてきた頃。
私は、少しずつ体がきつくなっていた。
伊織くんはそれに気づいていた。でも、何も訊かなかった。
代わりに、話してくれたのは――春から留学が決まったという話だった。
「ドイツに行くんだ。ベルリン。音楽の勉強、もっとしたくて」
「……そっか。すごいね」
そう言った声が、ほんの少しだけ震えてしまったのを、自分でもわかった。
「でも、迷ってたんだ。君に会うようになってから。……もっと、ここにいたくなったから」
「そんなの、ダメ」
私は、強く言った。
「私のせいで、夢を諦めるなんて、そんなの絶対に違う。……伊織くんは、行くべきだよ」
彼はしばらく黙って、それからぽつりとつぶやいた。
「……君がいなくなってしまうのが、怖いんだ」
「私も、伊織くんが遠くに行くの、怖いよ」
目の奥が熱くなった。泣きたくなかったけれど、涙は勝手にあふれてくる。
「でも」
私は、精一杯の笑顔で言った。
「春を待たなくても……好きになっていい?」
彼は、強くうなずいた。
そして、そっと私の手を握った。
指先は細くて、少し冷たかった。
でも、それはこの冬のなかで、いちばん温かいぬくもりだった。
彼が旅立つ朝、私は病室のベッドで手紙を書いた。
春を待たずに、私はあなたを好きになりました。
言葉じゃ足りないほど、あなたに救われました。
私はもう、春を待つことはできないかもしれないけど――あなたの音楽が、私の春です。
それが、彼に渡した最後の手紙になった。
あれから何年も経った今でも、あの冬の空を思い出す。
カーテン越しに見た白い光。手のぬくもり。名もなきメロディ。
――私はたしかに、恋をして、生きていた。
春を待たずに生まれた恋は、季節を越えて、静かに心に残る。
それは、終わらなかった恋。
たとえ時間が止まってしまっても、あの旋律は、ずっと、胸の奥で鳴り続けている。
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