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02)影盗り
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またお会いいたしましたね。
ええ、もちろん覚えておりますとも。
前回の物語、若い読者の方々には、少しばかり刺激が強すぎはしなかったかと、老婆心ながら案じておりました。
しかし、こうして再びご欄頂けるということは、私の杞憂だったようでございますね。
今回は、海外旅行がテーマ。
異国の地の、あの独特の開放感。
それが、一転して逃げ場のない閉塞感へと変わる瞬間を、描いてみようと思います。
舞台は、日本からほど近い、日本語が当たり前に通じるという、夢のような島。
しかし、夢には、悪夢もございますからな。
では、ご準備はよろしいですかな。
卒業旅行の行き先を、その島に決めたのは、本当に些細な偶然からだった。
「ねえ、ミサキ。ここ、どうかな」。
親友のアヤノが、スマホの画面を見せながら言った。
画面に映し出されていたのは、抜けるような青い空と、エメラルドグリーンの海。
そして、白い砂浜に建てられた、異国情緒あふれるコテージの写真。
『鳴島(なりしま)』。
それが、その南国の楽園の名前だった。
「鳴島…? 聞いたことないな」。
「最近、女子旅で人気急上昇中なんだって。日本から飛行機で四時間ぐらいだし、何より、公用語が日本語なんだって」。
アヤノは興奮気味に続けた。
「え、そうなの?」。
「うん。昔、日本の統治下にあったらしくて、今でもすごく親日的なんだって。だから、看板も日本語だし、ホテルもお店も、みーんな日本語でオッケーらしいよ」。
海外旅行には行きたい。
でも、言葉の壁が不安。
そんな、私たちのような大学生にとっては、まさに夢のような話だった。
私たちは、ほとんど迷うことなく、四泊五日の鳴島旅行を決めた。
あの時の高揚感を、今でも思い出す。
まさか、その選択が、私のすべてを終わらせるための、始まりの一歩だったとは、知る由もなかった。
◇◆◇
鳴島は、想像していた以上の楽園だった。
空港に降り立った瞬間から、甘く濃厚な花の香りが私たちを包み込んだ。
街には、赤や黄色といった原色の花々が咲き乱れ、人々は皆、ゆったりとした笑顔を浮かべている。
アヤ-ノの言った通り、街中の看板には、見慣れた日本語が並んでいた。
タクシーの運転手も、ホテルのコンシェルジュも、流暢な日本語で、私たちを歓迎してくれた。
まるで、日本のどこか南の島にでも来たかのような、不思議な安心感があった。
「すごいね、本当に全部日本語だ」。
「でしょ? ここなら、ミサキも安心でしょ」。
アヤノは、私の腕に自分の腕を絡ませながら、いたずらっぽく笑った。
私は、昔から少し人見知りで、知らない場所では、いつもアヤノの後ろに隠れているような子供だった。
そんな私の性格を、アヤノは誰よりもよく分かってくれていた。
私たちは、ビーチで泳いだり、カラフルな市場を冷やかしたり、現地の美味しい料理に舌鼓を打ったりと、夢のような時間を過ごした。
旅の三日目。
私たちは、島の西側にある、「夕凪の岬」と呼ばれる場所を訪れた。
その名の通り、島で一番美しい夕日が見られるという、有名な観光スポットだ。
水平線に沈んでいく太陽が、空と海を、燃えるようなオレンジ色に染め上げていく。
あまりの美しさに、私たちは言葉を失った。
砂浜に座り込み、ただ黙って、その光景に見入っていた。
「綺麗だね…」。
どちらからともなく、同じタイミングで呟いた。
私たちは顔を見合わせ、くすくすと笑い合った。
その時だった。
近くで土産物を売っていた、腰の曲がった老婆が、にこにことした笑顔で、私たちに話しかけてきた。
もちろん、その言葉も、完璧な日本語だった。
「お嬢さんたち、仲がよろしいですな」。
「はい、もう十年以上の親友なんです」。
アヤノが、少し得意げに答えた。
「それなら、ちょうどいい。この島に古くから伝わる、おまじないをやってごらんなさい」。
老婆は、皺だらけの指で、私たちの足元を指した。
夕日を背にした私たちの影が、砂浜の上に、長く、長く伸びている。
「『影結び』、と言いましてな。こうして夕暮れ時に、二人の影の先端が重なった瞬間に、心から願い事をすると、その願いが叶うと言われておるのです」。
「影結び…」。
ロマンチックな響きに、アヤノが目を輝かせた。
「素敵! やってみようよ、ミサキ」。
私は、少しだけ躊躇した。
見ず知らずの老婆の言葉を、そんなに簡単に信じていいのだろうか。
だが、アヤノの期待に満ちた顔を見ると、断ることはできなかった。
私たちは立ち上がり、老婆に言われた通り、手をつないだ。
そして、ゆっくりと体を動かし、二人の影の先端が、砂浜の上で一つに重なるように調整した。
「じゃあ、いくよ…せーのっ」。
アヤノの合図で、私たちは同時に、心の中で強く願った。
『ずっと、アヤノと親友でいられますように』。
それが、私の、心からの願いだった。
願い終えた瞬間、それまで聞こえていた波の音が、ふっと遠くなったような気がした。
そして、足元の影が、一瞬だけ、インクを垂らしたように、じわりと濃くなったように見えた。
気のせいだ、と思った。
夕日のせいだ、と。
老婆は、いつの間にか、姿を消していた。
私たちは、少しだけ不思議な気持ちになりながらも、その日はホテルへと戻った。
あの「影結び」が、ただのロマンチックなおまじないなどではない、恐ろしい儀式の始まりだったということを、この時の私は、まだ知らなかった。
◇◆◇
その夜、ベッドに入ってから、私は奇妙な感覚に襲われた。
隣で眠るアヤノの寝息が、やけに大きく聞こえるのだ。
それも、ただ大きく聞こえるだけではない。
スゥー、ハァー、というその呼吸のリズムが、まるで自分の呼吸と、完全に同調しているかのように感じられた。
アヤノが息を吸うと、私の胸も膨らみ、アヤノが息を吐くと、私の胸も萎む。
気味が悪くなって、私はベッドから体を起こした。
アヤノは、すやすやと、穏やかな顔で眠っている。
疲れているのだろうか。
私は、その日はなかなか寝付けなかった。
翌日から、アヤノの様子が、少しずつおかしくなっていった。
朝食のレストランで、私が「パンケーキが食べたいな」と心の中で思った、まさにその瞬間。
「私、パンケーキにしよっと」と、アヤノが先に言った。
ただの偶然だ、とその時は思った。
だが、そういうことが、一日に何度も起こるようになった。
私が言おうとしたことを、アヤノが先に言う。
私が行きたいと思った場所に、アヤノが先に行こうと提案する。
まるで、私の心を、すべて見透かしているかのようだった。
「ねえ、アヤノ。なんか、最近…」。
「ん? 何か、変?」。
私が言い終わる前に、アヤノが問い返してきた。
その、こともなげな表情に、私は言葉を詰まらせた。
考えすぎなのだろうか。
でも、この違和感は、日に日に、確実に大きくなっていった。
ある日の午後、私たちはホテルのプールサイドで寛いでいた。
私が、ふと、子供の頃の癖で、指のささくれをいじり始めると、隣のデッキチェアに寝そべっていたアヤノが、全く同じ仕草を始めたのだ。
それは、私しか知らないはずの、私の癖だった。
「…アヤノ、何してるの?」。
「え? 何が?」。
アヤノは、きょとんとした顔で、自分の指先を見つめた。
そして、はっとしたように、慌ててその手を下ろした。
「ご、ごめん。何でだろ、無意識に…」。
その笑顔は、明らかに引きつっていた。
恐怖が、私の背筋を駆け上がった。
これは、おかしい。
絶対に、何かがおかしい。
その日の夜、私は、さらに恐ろしい体験をした。
シャワーを浴びて部屋に戻ると、アヤノが、テラスでマンゴージュースを飲んでいた。
「おかえり、ミサキ」。
そう言ったアヤノと目が合った瞬間、私の口の中に、マンゴーの、ねっとりとした甘い味が、ぶわりと広がったのだ。
私は、マンゴージュースなど、飲んでいない。
なのに、その味も、香りも、喉を通る冷たい感触さえも、あまりにリアルに感じられた。
「うっ…」。
思わず、口元を押さえる。
「どうしたの、ミサキ? 顔色が悪いよ」。
アヤノが、心配そうに駆け寄ってくる。
だが、その顔が、近づけば近づくほど、まるで知らない誰かの顔のように見えて、私は思わず後ずさってしまった。
「もう、帰ろう、アヤノ。日本に、帰ろう」。
私は、懇願するように言った。
もう、この島にいるのは、耐えられなかった。
すると、アヤノは、それまで浮かべていた心配そうな表情をすっと消し、無表情で、こう言ったのだ。
「どうして? まだいたいでしょ?」。
そして、続けた。
「『私』は、まだここにいたいの」。
主語が、「私たち」ではなく、「私」になっていた。
その瞳は、ガラス玉のように冷たく、光を映していなかった。
私は、目の前にいるのが、本当に自分の親友なのかどうか、もう分からなくなっていた。
◇◆◇
私は、パニックに陥っていた。
アヤノから逃げなければ。
一刻も早く、一人で。
私は、アヤノが眠っている隙に、そっとベッドを抜け出し、荷物も持たずに部屋を飛び出した。
深夜のホテルは、静まり返っている。
エレベーターを待ちきれず、非常階段を駆け下りた。
ロビーを抜け、外に出る。
むっとするような、湿った夜の空気が、肌にまとわりついた。
助けを求めなければ。
そうだ、交番だ。
この島の警察なら、きっと助けてくれるはずだ。
私は、夜の街を、必死で走った。
幸い、ホテルのすぐ近くに、小さな交番があった。
明かりがついている。
中にいる警察官の姿も見える。
私は、息を切らしながら、交番のドアに駆け寄った。
「た、助けてください!」。
ガラスのドアを叩きながら、叫んだ。
中の警察官が、こちらに気づき、ゆっくりと立ち上がった。
だが、その表情は、いぶかしげだった。
彼は、私のことを見ていない。
私の、背後。
誰もいないはずの、私の後ろを見つめて、こう言ったのだ。
「お嬢さん、どうされましたかな?」。
「え…?」。
私は、振り返った。
誰もいない。
いるのは、私だけだ。
「あの、私です! 私が、助けを…」。
しかし、警察官は、私の言葉が聞こえていないかのように、首を傾げている。
そして、再び、私の背後に向かって、話しかけた。
「お連れさんは、どうかなされたのですかな? 何か、怯えておられるようですが」。
その瞬間、私は悟った。
この人には、私が見えていない。
私の声も、聞こえていない。
まるで、私が、そこに存在しないかのように。
絶望的な気持ちで、私は、街をさまよった。
道行く人に、声をかけても、誰も私に気づかない。
皆、私の隣にいる「誰か」に話しかけ、そして、憐れむような、同情するような目で、私を一瞥して、通り過ぎていく。
なぜ。
どうして。
私は、ここにいるのに。
私は、泣きながら、ホテルへと引き返した。
もう、どこにも、行く場所はなかった。
部屋に戻ると、アヤノが、ベッドの上に、人形のように座っていた。
私が帰ってきたことに、気づいていないようだった。
その目は、虚ろで、どこか遠くを見つめている。
私は、吸い寄せられるように、部屋の姿見の前に立った。
自分の姿を、確認したかった。
私は、まだ、ここにいるのだと。
だが。
鏡に映っていたのは、虚ろな目をしたアヤノの姿、ただ一人。
私の姿は、どこにもなかった。
あるのは、ただ。
アヤノの足元から伸びる、不自然なほど、濃く、黒い、一つの影だけ。
「ああ…」。
声にならない声が、漏れた。
私は、もう、人間ではない。
影。
私は、アヤノの、影になってしまったのだ。
「やっと、気づいたのね」。
背後から、声がした。
それは、アヤノの声ではなかった。
低く、しゃがれた、老婆の声。
鏡の中のアヤノが、ゆっくりと、こちらを振り返る。
その顔が、見る見るうちに、皺だらけの老婆の顔へと、変わっていく。
あの、夕凪の岬で会った、土産物売りの老婆だ。
「『影結び』じゃないよ。あれは、『影盗り』という、私たちの儀式さ」。
老婆は、アヤノの顔で、しわくちゃに笑った。
「この島のもんは、こうやって、旅人の若い影を盗んで、新しい体を手に入れるのさ。あんたの魂は、これから、この体と一つになる。あんたの願い通り、ずっと、親友と一緒だよ。永遠にね」。
『ずっと親友でいられますように』。
あの時の願いが、こんなにも皮肉な形で、叶えられるなんて。
私の意識が、急速に薄れていく。
体が、思考が、老婆の魂を持つこの肉体に、溶かされていく、吸収されていく。
抵抗は、できなかった。
鏡の中の、老婆の顔をしたアヤノが、満足げに、にたりと笑う。
「ありがとうよ、新しい体を」。
それが、私が最後に聞いた、言葉だった。
私の意識は、濃く、冷たい影の底へと、沈んでいった。
永遠に、抜け出すことのできない、闇の中へ。
---
数日後、鳴島の空港から、一人の日本人女性が旅立った。
アヤノ、と呼ばれたその女性は、少しやつれた様子だったが、その足取りは驚くほどしっかりとしていた。
ゲートをくぐる直前、彼女は携帯電話で、日本の誰かと話している。
「…うん、ごめんね、ミサキのお母さん。ミサキ、まだ島に残って、一人で旅を続けるって聞かなくて…。ええ、私? 私はもう大丈夫。すっかり元気になったから。本当に、ご心配おかけしました」。
電話を切った彼女は、ふっと息をつくと、にこりと笑った。
その若々しい笑顔とは裏腹に、足元に伸びる影は、真昼の光の下だというのに、不自然なほど濃く、まるで古井戸の底を覗き込むような、深い深い闇を湛えていた。
ええ、もちろん覚えておりますとも。
前回の物語、若い読者の方々には、少しばかり刺激が強すぎはしなかったかと、老婆心ながら案じておりました。
しかし、こうして再びご欄頂けるということは、私の杞憂だったようでございますね。
今回は、海外旅行がテーマ。
異国の地の、あの独特の開放感。
それが、一転して逃げ場のない閉塞感へと変わる瞬間を、描いてみようと思います。
舞台は、日本からほど近い、日本語が当たり前に通じるという、夢のような島。
しかし、夢には、悪夢もございますからな。
では、ご準備はよろしいですかな。
卒業旅行の行き先を、その島に決めたのは、本当に些細な偶然からだった。
「ねえ、ミサキ。ここ、どうかな」。
親友のアヤノが、スマホの画面を見せながら言った。
画面に映し出されていたのは、抜けるような青い空と、エメラルドグリーンの海。
そして、白い砂浜に建てられた、異国情緒あふれるコテージの写真。
『鳴島(なりしま)』。
それが、その南国の楽園の名前だった。
「鳴島…? 聞いたことないな」。
「最近、女子旅で人気急上昇中なんだって。日本から飛行機で四時間ぐらいだし、何より、公用語が日本語なんだって」。
アヤノは興奮気味に続けた。
「え、そうなの?」。
「うん。昔、日本の統治下にあったらしくて、今でもすごく親日的なんだって。だから、看板も日本語だし、ホテルもお店も、みーんな日本語でオッケーらしいよ」。
海外旅行には行きたい。
でも、言葉の壁が不安。
そんな、私たちのような大学生にとっては、まさに夢のような話だった。
私たちは、ほとんど迷うことなく、四泊五日の鳴島旅行を決めた。
あの時の高揚感を、今でも思い出す。
まさか、その選択が、私のすべてを終わらせるための、始まりの一歩だったとは、知る由もなかった。
◇◆◇
鳴島は、想像していた以上の楽園だった。
空港に降り立った瞬間から、甘く濃厚な花の香りが私たちを包み込んだ。
街には、赤や黄色といった原色の花々が咲き乱れ、人々は皆、ゆったりとした笑顔を浮かべている。
アヤ-ノの言った通り、街中の看板には、見慣れた日本語が並んでいた。
タクシーの運転手も、ホテルのコンシェルジュも、流暢な日本語で、私たちを歓迎してくれた。
まるで、日本のどこか南の島にでも来たかのような、不思議な安心感があった。
「すごいね、本当に全部日本語だ」。
「でしょ? ここなら、ミサキも安心でしょ」。
アヤノは、私の腕に自分の腕を絡ませながら、いたずらっぽく笑った。
私は、昔から少し人見知りで、知らない場所では、いつもアヤノの後ろに隠れているような子供だった。
そんな私の性格を、アヤノは誰よりもよく分かってくれていた。
私たちは、ビーチで泳いだり、カラフルな市場を冷やかしたり、現地の美味しい料理に舌鼓を打ったりと、夢のような時間を過ごした。
旅の三日目。
私たちは、島の西側にある、「夕凪の岬」と呼ばれる場所を訪れた。
その名の通り、島で一番美しい夕日が見られるという、有名な観光スポットだ。
水平線に沈んでいく太陽が、空と海を、燃えるようなオレンジ色に染め上げていく。
あまりの美しさに、私たちは言葉を失った。
砂浜に座り込み、ただ黙って、その光景に見入っていた。
「綺麗だね…」。
どちらからともなく、同じタイミングで呟いた。
私たちは顔を見合わせ、くすくすと笑い合った。
その時だった。
近くで土産物を売っていた、腰の曲がった老婆が、にこにことした笑顔で、私たちに話しかけてきた。
もちろん、その言葉も、完璧な日本語だった。
「お嬢さんたち、仲がよろしいですな」。
「はい、もう十年以上の親友なんです」。
アヤノが、少し得意げに答えた。
「それなら、ちょうどいい。この島に古くから伝わる、おまじないをやってごらんなさい」。
老婆は、皺だらけの指で、私たちの足元を指した。
夕日を背にした私たちの影が、砂浜の上に、長く、長く伸びている。
「『影結び』、と言いましてな。こうして夕暮れ時に、二人の影の先端が重なった瞬間に、心から願い事をすると、その願いが叶うと言われておるのです」。
「影結び…」。
ロマンチックな響きに、アヤノが目を輝かせた。
「素敵! やってみようよ、ミサキ」。
私は、少しだけ躊躇した。
見ず知らずの老婆の言葉を、そんなに簡単に信じていいのだろうか。
だが、アヤノの期待に満ちた顔を見ると、断ることはできなかった。
私たちは立ち上がり、老婆に言われた通り、手をつないだ。
そして、ゆっくりと体を動かし、二人の影の先端が、砂浜の上で一つに重なるように調整した。
「じゃあ、いくよ…せーのっ」。
アヤノの合図で、私たちは同時に、心の中で強く願った。
『ずっと、アヤノと親友でいられますように』。
それが、私の、心からの願いだった。
願い終えた瞬間、それまで聞こえていた波の音が、ふっと遠くなったような気がした。
そして、足元の影が、一瞬だけ、インクを垂らしたように、じわりと濃くなったように見えた。
気のせいだ、と思った。
夕日のせいだ、と。
老婆は、いつの間にか、姿を消していた。
私たちは、少しだけ不思議な気持ちになりながらも、その日はホテルへと戻った。
あの「影結び」が、ただのロマンチックなおまじないなどではない、恐ろしい儀式の始まりだったということを、この時の私は、まだ知らなかった。
◇◆◇
その夜、ベッドに入ってから、私は奇妙な感覚に襲われた。
隣で眠るアヤノの寝息が、やけに大きく聞こえるのだ。
それも、ただ大きく聞こえるだけではない。
スゥー、ハァー、というその呼吸のリズムが、まるで自分の呼吸と、完全に同調しているかのように感じられた。
アヤノが息を吸うと、私の胸も膨らみ、アヤノが息を吐くと、私の胸も萎む。
気味が悪くなって、私はベッドから体を起こした。
アヤノは、すやすやと、穏やかな顔で眠っている。
疲れているのだろうか。
私は、その日はなかなか寝付けなかった。
翌日から、アヤノの様子が、少しずつおかしくなっていった。
朝食のレストランで、私が「パンケーキが食べたいな」と心の中で思った、まさにその瞬間。
「私、パンケーキにしよっと」と、アヤノが先に言った。
ただの偶然だ、とその時は思った。
だが、そういうことが、一日に何度も起こるようになった。
私が言おうとしたことを、アヤノが先に言う。
私が行きたいと思った場所に、アヤノが先に行こうと提案する。
まるで、私の心を、すべて見透かしているかのようだった。
「ねえ、アヤノ。なんか、最近…」。
「ん? 何か、変?」。
私が言い終わる前に、アヤノが問い返してきた。
その、こともなげな表情に、私は言葉を詰まらせた。
考えすぎなのだろうか。
でも、この違和感は、日に日に、確実に大きくなっていった。
ある日の午後、私たちはホテルのプールサイドで寛いでいた。
私が、ふと、子供の頃の癖で、指のささくれをいじり始めると、隣のデッキチェアに寝そべっていたアヤノが、全く同じ仕草を始めたのだ。
それは、私しか知らないはずの、私の癖だった。
「…アヤノ、何してるの?」。
「え? 何が?」。
アヤノは、きょとんとした顔で、自分の指先を見つめた。
そして、はっとしたように、慌ててその手を下ろした。
「ご、ごめん。何でだろ、無意識に…」。
その笑顔は、明らかに引きつっていた。
恐怖が、私の背筋を駆け上がった。
これは、おかしい。
絶対に、何かがおかしい。
その日の夜、私は、さらに恐ろしい体験をした。
シャワーを浴びて部屋に戻ると、アヤノが、テラスでマンゴージュースを飲んでいた。
「おかえり、ミサキ」。
そう言ったアヤノと目が合った瞬間、私の口の中に、マンゴーの、ねっとりとした甘い味が、ぶわりと広がったのだ。
私は、マンゴージュースなど、飲んでいない。
なのに、その味も、香りも、喉を通る冷たい感触さえも、あまりにリアルに感じられた。
「うっ…」。
思わず、口元を押さえる。
「どうしたの、ミサキ? 顔色が悪いよ」。
アヤノが、心配そうに駆け寄ってくる。
だが、その顔が、近づけば近づくほど、まるで知らない誰かの顔のように見えて、私は思わず後ずさってしまった。
「もう、帰ろう、アヤノ。日本に、帰ろう」。
私は、懇願するように言った。
もう、この島にいるのは、耐えられなかった。
すると、アヤノは、それまで浮かべていた心配そうな表情をすっと消し、無表情で、こう言ったのだ。
「どうして? まだいたいでしょ?」。
そして、続けた。
「『私』は、まだここにいたいの」。
主語が、「私たち」ではなく、「私」になっていた。
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◇◆◇
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一刻も早く、一人で。
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この島の警察なら、きっと助けてくれるはずだ。
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明かりがついている。
中にいる警察官の姿も見える。
私は、息を切らしながら、交番のドアに駆け寄った。
「た、助けてください!」。
ガラスのドアを叩きながら、叫んだ。
中の警察官が、こちらに気づき、ゆっくりと立ち上がった。
だが、その表情は、いぶかしげだった。
彼は、私のことを見ていない。
私の、背後。
誰もいないはずの、私の後ろを見つめて、こう言ったのだ。
「お嬢さん、どうされましたかな?」。
「え…?」。
私は、振り返った。
誰もいない。
いるのは、私だけだ。
「あの、私です! 私が、助けを…」。
しかし、警察官は、私の言葉が聞こえていないかのように、首を傾げている。
そして、再び、私の背後に向かって、話しかけた。
「お連れさんは、どうかなされたのですかな? 何か、怯えておられるようですが」。
その瞬間、私は悟った。
この人には、私が見えていない。
私の声も、聞こえていない。
まるで、私が、そこに存在しないかのように。
絶望的な気持ちで、私は、街をさまよった。
道行く人に、声をかけても、誰も私に気づかない。
皆、私の隣にいる「誰か」に話しかけ、そして、憐れむような、同情するような目で、私を一瞥して、通り過ぎていく。
なぜ。
どうして。
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私は、泣きながら、ホテルへと引き返した。
もう、どこにも、行く場所はなかった。
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私が帰ってきたことに、気づいていないようだった。
その目は、虚ろで、どこか遠くを見つめている。
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自分の姿を、確認したかった。
私は、まだ、ここにいるのだと。
だが。
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私の姿は、どこにもなかった。
あるのは、ただ。
アヤノの足元から伸びる、不自然なほど、濃く、黒い、一つの影だけ。
「ああ…」。
声にならない声が、漏れた。
私は、もう、人間ではない。
影。
私は、アヤノの、影になってしまったのだ。
「やっと、気づいたのね」。
背後から、声がした。
それは、アヤノの声ではなかった。
低く、しゃがれた、老婆の声。
鏡の中のアヤノが、ゆっくりと、こちらを振り返る。
その顔が、見る見るうちに、皺だらけの老婆の顔へと、変わっていく。
あの、夕凪の岬で会った、土産物売りの老婆だ。
「『影結び』じゃないよ。あれは、『影盗り』という、私たちの儀式さ」。
老婆は、アヤノの顔で、しわくちゃに笑った。
「この島のもんは、こうやって、旅人の若い影を盗んで、新しい体を手に入れるのさ。あんたの魂は、これから、この体と一つになる。あんたの願い通り、ずっと、親友と一緒だよ。永遠にね」。
『ずっと親友でいられますように』。
あの時の願いが、こんなにも皮肉な形で、叶えられるなんて。
私の意識が、急速に薄れていく。
体が、思考が、老婆の魂を持つこの肉体に、溶かされていく、吸収されていく。
抵抗は、できなかった。
鏡の中の、老婆の顔をしたアヤノが、満足げに、にたりと笑う。
「ありがとうよ、新しい体を」。
それが、私が最後に聞いた、言葉だった。
私の意識は、濃く、冷たい影の底へと、沈んでいった。
永遠に、抜け出すことのできない、闇の中へ。
---
数日後、鳴島の空港から、一人の日本人女性が旅立った。
アヤノ、と呼ばれたその女性は、少しやつれた様子だったが、その足取りは驚くほどしっかりとしていた。
ゲートをくぐる直前、彼女は携帯電話で、日本の誰かと話している。
「…うん、ごめんね、ミサキのお母さん。ミサキ、まだ島に残って、一人で旅を続けるって聞かなくて…。ええ、私? 私はもう大丈夫。すっかり元気になったから。本当に、ご心配おかけしました」。
電話を切った彼女は、ふっと息をつくと、にこりと笑った。
その若々しい笑顔とは裏腹に、足元に伸びる影は、真昼の光の下だというのに、不自然なほど濃く、まるで古井戸の底を覗き込むような、深い深い闇を湛えていた。
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