炭火の夜、潮の香りに灯る店 〜異世界港町グルメ、元冒険者が営む炭火居酒屋〜

夢宮

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七章「秋の芯、静かな火の宴 - Quiet Feast by the Ember」

第32話「香草と火と蛸」

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 昼のはすでに柔らかく、白壁しらかべの軒先をなぞる光はあわく揺れていた。石畳いしだたみに落ちる影は細く、秋の潮風しおかぜがそれを撫でては通り抜けてゆく。乾いた空気に、わずかに塩の匂いが混じっていた。

 ベネリオは、いつものように店のの前に立っていた。

 炭火すみびはまだ浅く、赤みを帯びたしんが静かに息をしている。炉の上では、今朝仕入れた干物ひものが一枚、わずかに反りながら音も立てずにあぶられていた。油が落ちるには、まだ火が若い。

 彼は左手で火鋏ひばさみを操り、中央の炭を少し寄せた。ぱちり、と小さく弾ける音がして、赤が芯に沈みこむ。煙はほとんど上がらず、ただほのかな香りだけが炉の上を漂った。

 ──今は、静かな火の時間だ。

 引き戸の向こう、表通りの気配がふと近づいた。小走りの足音、軽やかな荷物の擦れる音。そして、馴染みの声が戸を押し開けた。

「おーい、大将。仕込み中だろうけど、ちょいと香草こうそうを持ってきたよ」

 リモンだった。旅商人たびしょうにんの男は、背負い袋から覗く数束の香草を片手に、いつもの軽口を伴って入ってくる。日焼けした顔に笑みを浮かべ、荷を炉端にそっと置いた。

「今日のはね、しおの芯に合わせたやつだ。ちょっと試してみたくてさ」
「……ったく、おまえの“試したくて”は信用ならねぇんだよな」

 ベネリオは火鋏を脇に置きながら、口元だけで笑った。

「でもまあ、悪くねぇ匂いだ。これは?」
「海沿いの丘で採れたタイムさ、朝露がちょっと残ってるやつを摘んできた。芯が走る感じがね、今日の火にちょうど合うと思って」

 リモンはそう言いながら、指先で一枝を摘まみ、くるりと捻った。細い葉先がきゅっと縮み、あわい緑の香りが空気に解けた。わずかに甘く、青い。だが、その奥には潮に似た乾いた苦味も含まれている。

「火が鳴るぞ、大将。こいつは“鳴る葉”なんだ」
「鳴る葉、ねぇ……火の上で跳ねるってことか?」
「そう。火が走ると、香りが一歩遅れて追いかける。ほんの短い間だけど、そこに芯が通る。……その間に、魚が逃げるんだよ」
「ったく……おまえの比喩ひゆは、毎度ながら妙に刺さるな」

 ベネリオは炉の上に残る干物を一瞥した。まだ火に乗せて間もないさばの切り身。あぶらの筋がじわりと溶けはじめたところだ。

「これに合わせるなら──塩、抑えめだな」
「さすが、大将。塩が立ちすぎると、鳴った香りをかき消しちまう。むしろ、塩の代わりに葉の苦味で締めるくらいが、今日の火には合うのさ」
「……面白ぇ。なら、芋でもいけるか?」
「もちろん。里芋なら中に香りが溜まるし、蓮根れんこんなら穴の中で跳ね返る。焼きの進み方次第だけど、炭が今くらいの芯なら──……」

 リモンは炉を覗き込んで、目を細めた。

「……いいね、この火。舌が欲しがる匂いが上がってきてる」
「火は今が静かで、いい頃合いだ」

 ベネリオは火鋏を取り直し、炭の隙間すきまを少しだけ調整した。ほんのわずか、空気の通り道が変わる。その変化を、炉の上の香りがすぐに応じる。

 リモンは唸るように小声を漏らした。

「これだよ……火が音も立てずに鳴ってる。この芯が聞こえる瞬間がたまらないんだ」

 炉端に静かな満足の空気が満ちていった。しおの香りがわずかに入り込み、香草と干物の匂いと交わる。

「……で、だ」

 ベネリオが火鋏を戻し、顔を上げた。

「今日の仕込みはもう少し遊べそうだが──今の季節、他に当てるなら何だ?」
「うん……潮に甘みを乗せるなら、くりもいい。けど、それは夜の客向きかな」
「じゃあ、昼向きは?」
たこでしょ」

 リモンの言葉は、迷いなく落ちた。
 二人の目が合う。火の芯の上で、静かに鯖の脂が弾けた。

「……たこ、か」
「そうそう。ちょうど今が身が締まって脂も乗る。塩と火だけで立たせてもいいし、このタイムをほんのひと刷毛はけ、炙る直前に添えたら跳ねるよ」
「……ったく、おまえの口車に乗せられてばかりだな」

 ベネリオは苦笑しながらも、すでに決めていた。

「行くか。仕入れだ」
「港だね?」
「ああ。親父のとこに声を掛けりゃ、揚がったばかりのやつを出してくれるだろ」

 リモンは笑い、背負い袋を整えた。

「じゃあ、大将。しおの匂いの中を歩こう。今なら昼の陽がまだ残ってる」

 引き戸を開けると、柔らかな秋の光が二人を包んだ。潮風しおかぜほおを撫で、通りを抜けていく。
 二人は肩を並べ、港へ向かって歩き出した。



 港通りは、昼の陽を背に受けながら静かな活気を保っていた。荷車のきしむ音、帆綱を締め直す音、海鳥の声──それらが途切れなく流れてゆく。潮風しおかぜにはまだ新しい漁の気配が残っていた。

「……いい匂いだと思わない、大将? 干した網としおの混じった、この昼の港の匂い」

 リモンが歩みを緩めずに言った。

「おまえ、いちいち匂いで季節を測るよな」
「だってさ、香草こうそうも火もしおも、ぜんぶ匂いで勝負だろ?」

 ベネリオは肩をすくめたが、内心では同意していた。

 桟橋の手前、小屋のように張り出した屋根の下に、太い声が響いた。

「おう、大将! この時間に顔出すなんざ、さてはさかな目当てだな?」

 声の主は、漁師の親父だった。肩に網を担ぎ、膝下まで濡れた長靴で立っている。濃い潮焼しおやけの肌に、粗布の袖を無造作むぞうさに巻き上げ、腰には縄と針の束が結わえられている。

「親父、ちょいとたこが欲しくてな。揚がってるか?」
「おうとも。今朝のしおでいいのが入ったぞ。ちょい待ちな──おい、カイ!」

 親父の呼び声に応じて、屋根の奥から若い声が返る。

「はーい! 今持ってくるっス!」

 桶を抱えて現れたのは、弟子のカイだった。白いシャツの袖をまくり、麦わら帽子の下からは海のように澄んだ青い瞳が覗いている。桶の中では、太い足をくねらせるたこがゆったりと動いていた。

「親方、これっス! 今さっき、網からあげたやつ!」
「ほらよ、大将。いい腹してるだろ?」

 親父は桶を軽々と傾け、中の蛸を見せた。脚は太く、ぬめりの奥にあわい赤味が透ける。吸盤がぴたりと桶の縁を這い、身の張りが生きの良さを物語っていた。

「……悪くねぇ。あぶらが走ってるな」

 ベネリオは屈みこみ、指先で脚を軽く弾いた。弾力が指に返る。締まりも上々だ。

「こりゃ、火に乗せりゃ跳ねるぞ」
「うん、ほんとにいい身してる。──これならタイムも負けないね」

 リモンが目を細めて言った。

「で、いくらだ?」
「今日はたっぷり揚がってるさ。大将になら──これくらいでいいさ」

 親父は指を二本、軽く立てた。
 ベネリオは小袋から銅貨を二枚、音を立てて手渡した。

「……毎度助かるぜ」
「おう、うまく焼いてやってくれりゃ、それで充分さ。……カイ、持ってってやれ」
「あっ、はいっス!」

 カイは桶を抱え直すと、嬉しそうに顔を輝かせた。

「じゃ、大将。店先まで持って行くっスね!」

 その後ろ姿を眺めつつ、ベネリオとリモンも歩を進めた。
 港の風が、また二人の間を抜けた。しおとが交じり合う、秋の昼下がりだった。

「──さて、大将。あとは火だね」
「火はもうできてる」
「じゃあ、あとは腹を空かせるだけさ」

 港通りを離れ、二人は表通りへ戻っていった。
 石畳いしだたみの上には、干物ひものの匂いや果実の香りが入り混じり、昼の熱気に重なっている。
 通り沿いの店先では、香草こうそうを干す布棚が風に揺れ、木陰には野菜籠が並んでいた。

「……昼間は、やっぱり匂いが賑やかだよね、大将」

 リモンが呟くように言った。
 その横でベネリオは、肩越しに空を仰いだ。

「まあな。潮と炭だけじゃねぇ、町全体が煮えてる」
「それもまた、いい匂いさ。──でも、大将の火は違う」

 リモンが言葉を続ける。

「匂いが、重ならない。沈むんだよ。炭の芯と一緒に」

 ベネリオは小さく笑った。

「おまえの比喩は、やっぱ刺さるな……ったく」

 そうして店に戻ると、カイが桶を置いて待っていた。
 の奥では、炭の芯が静かに息をしている。赤が沈み、煙は上がらず、香りだけが炉の上に留まっていた。

「お待たせしましたっス、大将! 親方の桶、ここに置いときますね!」
「ああ、助かる。いいたこだ」

 ベネリオは短く礼を返し、カイに軽く顎をしゃくった。

「港の仕事、もう終わりか?」
「今日は早めっス。網の修繕だけなんで」
「そうか。なら──腹が減ったらまた来い」
「もちろんっス!」

 カイは明るく返事をして、港の方へ駆け戻っていった。
 桶の中の蛸は、まだゆっくりと脚を動かしている。あわい赤味の張りが、活きの良さを物語っていた。

「……さて、大将」

 リモンが炉を覗き込みながら言った。

「仕込みの続きを始めるかい?」
「おう。火はもう呼んでる」

 ベネリオは火鋏を取った。炭の隙間をわずかに整え、空気の流れを作る。
 ぱちり、と小さく赤が弾けた。
 火は芯に沈みながら、静かに立ち上がる香りを作り始めていた。
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