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第1部:序章 ままならぬ世へ
第8話:剣豪は、下ネタしか口にしない。
しおりを挟む天下一の剣士、朱鷺さんからのパーティ勧誘という名の、婉曲かつ慈悲のない死刑宣告を、『保留』という形でなんとか一時的に回避してから、数日が過ぎた。
僕、相田宗一郎の心は、晴れ渡る初夏の空とは裏腹に、分厚く、重苦しい梅雨雲に覆われたままだった。
「ねえ、宗一郎さん! この依頼、面白そうだよ! 『迷いの森に出没する踊るキノコの群れの討伐』だって! 報酬もいいし、これにしない?」
「却下。踊るキノコとか、字面だけでもう絶対ヤバい。毒の胞子とか飛ばしてくるに決まってる」
「じゃあ、こっちは? 『水晶湖の主、巨大ナマズの一本釣り』! なんだか楽しそう!」
「却下。水辺の依頼は装備が濡れるし、そもそも俺は魚が怖い。あの目が、何も考えてないように見えて、実は全てを見透かしているようで、怖い」
「もー! 宗一郎さん、さっきからそれも嫌、これも嫌って! これじゃあ、いつまで経ってもお金、稼げないよ!」
冒険者協同組合の、巨大な依頼掲示板の前。陽菜が頬をぷうっと膨らませて僕を睨みつけるが、僕は断固として譲らなかった。生きるためには稼がねばならない。そんなことは分かっている。だが、死ぬかもしれない危険を冒してまで稼ぎたいとは思わない。僕の望みは、ただ平穏に、誰にも関わらず、ひっそりと息をしていられることだけなのだから。
組合の建物の中は、いつ来てもむっとするような熱気と喧騒に満ちている。昼間から景気付けに呷る安酒の匂い、汗と土埃の匂い、そして壁際で焼かれている猪の丸焼きの、香ばしくも獣臭い匂い。あらゆる匂いが混じり合い、この世界の生命力の濃さを、僕の鼻腔に直接叩きつけてくる。
朱鷺さんとの一件以来、僕はなんとなく彼女と顔を合わせるのが気まずくて、組合に来る時間も少しずらしていた。あの人の笑顔は、穏やかであればあるほど、その裏にある氷の瞳を思い出させて、僕の心をざわつかせる。
(やっぱり、断って正解だった)
僕は、掲示板に貼られた依頼書を眺めるふりをしながら、内心で自分の判断の正しさを何度も反芻していた。
(あんな得体の知れない人たちとパーティなんて組んだら、俺の貧弱な精神は一日で崩壊する。俺は、陽菜さんと二人で、スライム駆除とか、薬草採取とか、そういう地味で、誰にも注目されない依頼を細々とこなしていくのが、性に合ってるんだ)
そう、これがいい。これが、僕の生きる道だ。目立たず、騒がず、石ころのように。
僕が、己の生き方を再確認し、静かに頷いた、その時だった。
ずしり、と。
唐突に、僕の右肩に、ずっしりとした重みがかかった。
驚いて振り返ると、そこには、僕の肩に馴れ馴れしく腕を回す、一人の男が立っていた。
背は僕より頭一つ分ほど高く、鍛えられているのか体格もいい。しかし、その出で立ちは、だらしがない、という言葉をそのまま体現したかのようだった。上等そうな着物は、胸元が大きくはだけてだらしない胸毛が覗き、腰に差した見事な太刀とは不釣り合いに、顔には無精髭が伸び放題。極めつけは、その男から漂ってくる、強烈なまでの酒の匂いだった。
「よぉ、坊主。隣のかわい子ちゃんは、お前の連れかい?」
男は、僕の存在など最初からいないかのように、僕の隣に立つ陽菜を、品定めするような粘ついた目つきで上から下まで眺めると、にやあ、と下品な笑みを浮かべた。
「いいねえ、若いってのは。瑞々しくて、実に美味そうだ。なあ嬢ちゃん、俺みたいな酸いも甘いも噛み分けた、枯れたおじさんと、一晩、熱くて濃厚な大人の冒険に出てみないかい?」
あまりにも直接的で、下劣な口説き文句。
陽菜は、その言葉の意味が半分も分かっていないのか、ただきょとんとして小首を傾げている。しかし、僕はその男の放つ不快なオーラに、全身の毛が逆立つのを感じていた。反射的に、陽菜を庇うように一歩前に出る。
僕が何か言おうと口を開きかけた、その時。
背後から、全ての喧騒を凪がせるような、穏やかで涼やかな声が響いた。
「玄さん。その辺になさらないと、今晩のお酒は抜き、ですよ?」
声の主は、朱鷺さんだった。
いつの間にそこに立っていたのか。彼女は、完璧な笑顔を浮かべて、そのだらしない男――玄、と呼ばれた男――を見つめていた。
玄と呼ばれた男は、朱鷺さんの姿を認めると、途端に酔っ払いの猫が飼い主に見つかったかのような、情けない声を出した。
「ひぃ、姐さん! こ、こいつは軽い挨拶ってもんでさあ! いやあ、この国も未来は明るいなあって、感心してたところでして!」
「あらあら、挨拶にしてはずいぶんと熱烈でしたねえ」
朱鷺さんは、笑顔のまま、ゆっくりと玄さんに歩み寄る。そして、その細腕で、信じられないほど自然な動作で、玄さんの首をがっしりと掴んだ。
「少し、頭を冷やした方がよろしいようですわね」
メキメキメキ、と。
静かな組合の片隅で、人間の骨が軋む、あまりにも生々しい音が響き渡った。
「ぎゃああああああ! あ、悪かった! 姐さん、俺が悪かったですから! 冗談だって! アメリカンジョーク!」
「あら、アメリカという国がどこにあるのか、後で詳しく教えていただけますか?」
「ぎゃあああああ!」
玄さんの情けない絶叫が、組合中に響き渡る。
しかし、驚くべきことに、周囲の屈強な冒険者たちは、その地獄のような光景を見て、誰一人止めようとしない。それどころか、「またやってるよ、玄の旦那も」「朱鷺様を怒らせるからだ」「今日の締め技はコブラツイストか」などと、楽しげに笑いながら酒の肴にしている。
どうやら、これが、彼らの日常らしい。
僕は、そのあまりにシュールで、暴力的な光景を前に、完全に凍りついていた。
(なんなんだ、この人たちは……)
呆然とする僕の横で、陽菜が「あ、あの人が、朱鷺さんのパーティの玄さんだよ! すごい剣の達人なんだって!」と、全く悪びれずに教えてくれる。
(この人が、あの朱鷺さんの仲間の、大剣豪!? 嘘だろ!?)
僕の頭の中の「大剣豪」というイメージは、もっとこう、宮本武蔵のような、ストイックで、威厳のある求道者のような姿だった。目の前で、女性に首を締め上げられて悲鳴を上げている、ただの酔っ払いのセクハラおやじでは、断じてない。
(やっぱり、俺がこのパーティに入らなくて、本当に、心の底から、正解だった)
もし、あの時、朱鷺さんの誘いを受けていたら、僕は今頃、あの公開処刑の輪の中にいたのかもしれない。考えただけで、胃がひっくり返りそうだった。
一頻り玄さんを締め上げた後、朱鷺さんは、乱れた着物の裾を一筋も直すことなく、何事もなかったかのように僕たちに向き直った。
「お見苦しいところをお見せしました。それで、宗一郎さん。先日の『保留』のお話ですが」
「滅相もございません!」
僕は、食い気味に、再び床に頭を擦り付けんばかりの勢いで断った。
そんな僕たちのやり取りを、解放された玄さんが、けほけほと咳き込みながら、面白そうに眺めている。
「へえ、お前さんが、姐さんが妙に気に入ってるっていう、例の新人か。見たところ、ひょろひょろのもやしっ子にしか見えねえがなあ」
その時、朱鷺さんが、ふと何かを思いついたように、ぽんと手を打った。
「そうですわ。言葉で説明するよりも、実際に見ていただくのが一番ですわね。玄さん、少しお付き合いいただけますか? 宗一郎さんの『歓迎会』を兼ねて、お互いの実力を見せ合うのも、良い経験になるでしょう」
「え、いや、僕は別に歓迎とか」
「坊主、姐さんの言うことは絶対だぜ」
僕の拒否権は、この世界では人権として認められていないらしい。僕は、玄さんに再び馴れ馴れしく肩を組まれ、半ば引きずられるようにして、組合の裏手にあるという訓練場へと連行されていった。
組合の裏手にあったのは、だだっ広い、土がむき出しになった訓練場だった。
カンカンと照りつける太陽が、乾いた土の匂いを立ち上らせ、他の冒険者たちが打ち合う剣戟の音や、気合の掛け声が、熱風に乗って響いてくる。
僕は、この暴力的なまでの生命力に満ちた空間にいるだけで、体力を吸い取られていくような気分だった。
「まあ、そんなに緊張するなよ、坊主。姐さんがそこまで言うんだ、ちったあマシな腕してんだろ」
玄さんは、訓練場の隅に立てかけてあった、ずっしりと重そうな木刀を手に取ると、僕に向かってひらひらと振って見せた。その顔には、まだ先ほどの軽薄な笑みが浮かんでいる。
しかし。
彼が、木刀を、その右手に、完全に握りしめた、その瞬間だった。
空気が、変わった。
それまで彼の全身から発せられていた、酒の匂いも、だらしなさも、下品な笑みも、まるで陽炎のように揺らめいて、消え失せた。
代わりに現れたのは、研ぎ澄まされた鋼そのもののような、静かで、冷徹な気配。
瞳から、光が消えた。いや、違う。光が、その奥の、どこまでも深い一点に、凝縮されたのだ。それは、もはや獲物を狙う獣の目ですらない。ただ、斬るべき対象と、それまでの距離、角度、全てを寸分の狂いもなく計測する、精密機械のレンズのような瞳だった。
彼の立ち姿には、一切の隙がない。風が、彼の着物の裾をわずかに揺らす。その、風の流れすらも、彼が完全に支配しているかのような錯覚を覚えた。
「まあ、坊主も見るからにひょろいしな。一発だけ、見せてやるか」
その声は、先ほどまでの酔っ払いの声とは全く違う、低く、静かで、地の底から響いてくるような、凄みを帯びていた。
玄さんは、訓練場の中央に、的として無造作に立てられていた、大人が両腕で抱えるほどの太さがある丸太に向かって、ゆっくりと歩み寄った。
そして、木刀を、静かに、中段に構えた。
構えた、と僕が認識したか、しないか。
次の瞬間には、彼はもう、元の位置――僕の数メートル横に、立っていた。
いつの間に。
僕の目には、彼がほんの少しだけ、肩を揺らしたようにしか見えなかった。動体視力とか、そういう次元の話ではない。僕の脳が、彼の動きを「移動」として認識すること自体を、完全に拒絶していた。
何が、起きたんだ?
僕も、陽菜も、訓練場にいた他の冒険者たちも、ただ、呆然とその場に立ち尽くしていた。
訓練場には、風の音だけが響いている。
数秒の、永遠のように長い静寂の後。
スパッ。
乾いた、小さな音がした。
僕たちの目の前で、あの巨大な丸太が。
何の抵抗もなく、まるで豆腐でも切るかのように、水面のように滑らかな断面を見せて、地面に崩れ落ちた。
音も、衝撃も、一切なかった。
ただ、そこにあったはずの因果が、断ち切られた。そんな、理不尽な光景だった。
木刀で。たった一振りで。認識すらできない速度で。
「どうだ、坊主。ちったあ、やる気になったかい?」
玄さんは、いつの間にか、またあの下品な笑顔に戻っていた。
しかし、僕にはもう、彼の言葉は聞こえていなかった。
僕は、その信じがたい、人間の物理法則を完全に超越した光景に、ただ唖然として、言葉を失っていた。陽菜も、朱鷺さんも、まるで当然のように、それを見ている。
これが、この世界の「一流」。
これが、この国の大剣豪。
僕は、この世界の、そして目の前にいる仲間たちの、本当の深さを、まだ、何一つ、これっぽっちも、理解していなかったのだ。
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