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第1部:序章 ままならぬ世へ
第9話:過去という名の、再生され続ける悪夢。
しおりを挟む時間が、止まっていた。
僕の目には、水面のように滑らかな断面を見せて崩れ落ちた、巨大な丸太の残骸が映っている。耳の奥では、先ほどの「スパッ」という、あまりにも静かで、あまりにも場違いな音が、何度も木霊していた。
風が、訓練場の乾いた土埃を巻き上げる。周囲では、他の冒険者たちが打ち合いを止め、信じられないものを見るような目で、こちらを遠巻きに眺めていた。その畏敬の視線は、玄さん一人に注がれていた。
「どうだ、坊主。ちったあ、やる気になったかい?」
沈黙を破ったのは、玄さん本人だった。
いつの間にか、彼の全身から発せられていた鋼のような気配は完全に消え失せ、再び、だらしなくて下品な、いつもの酔っ払いのそれに変わっていた。彼は、僕の肩をバン、と馴れ馴れしく叩くと、にやあ、と歯を見せて笑った。
その問いかけは、僕だけに向けられたものではなかった。周囲の冒険者たちの好奇の視線が、今度は僕へと突き刺さる。「大剣豪が実力を示したんだ。次は、あの天下一が連れてる新入りが何を見せるのか」、そんな期待が、じりじりと肌を焼くように感じられた。
陽菜は「宗一郎さんも、何か見せてあげて!」と、無邪気に僕の袖を引っ張る。朱鷺さんは、何も言わない。ただ、値踏みするような、全てを見透かすような、穏やかな笑みで僕を見ている。
(無理だ)
心の中で、僕は即答していた。
(あんな神業の後で、俺に何ができる? あの人の剣は、何十年という鍛錬の果てに辿り着いた、本物の『技』だ。それに比べて、俺の力はなんだ? ただの、バグ技じゃないか)
逃げたい。帰りたい。この場から消えてしまいたい。
しかし、僕を取り囲む期待の輪は、それを許してはくれなかった。
「……分かりました」
僕は、蚊の鳴くような声で、かろうじて返事をした。
戦うのは無理だ。玄さんのように、何かを破壊するなんて、僕にはできない。そもそも、僕の力はそういうものじゃない。
ならば、見せるべきは一つだけ。
この力の、本質。その、異常なまでの『制御能力』を。
僕は、訓練場の隅に目を向けた。そこには、先ほど玄さんが斬り捨てた丸太の他にも、訓練用の的や、大きさの違う岩、使い古された武具などが、無造作に転がっている。僕は、それら全てを、一度だけ、ゆっくりと視界に収めた。
そして、静かに、息を吸う。
「……っ」
僕は、ただ、念じた。
戦いのためじゃない。誰かを傷つけるためでもない。
ただ、そこにある「モノ」の「位置」を、僕の頭の中にある設計図通りに、完璧に、寸分の狂いもなく、「置き換える」ことだけを。
次の瞬間、訓練場にいた誰もが、息を呑んだ。
ゴトリ、という音も、風が唸る音も、何もなかった。
ただ、静かに。
先ほどまで地面に転がっていた、数十個の丸太、岩、錆びた剣や盾が、まるで最初からそこにあったかのように、訓練場の中心の空間に、整然と浮かび上がっていた。
それは、異様というほかない光景だった。
一番大きな丸太を土台として、その上に岩が絶妙なバランスで乗り、さらにその上に剣や盾が幾何学的な模様を描くように配置され、一つの巨大な、歪んだ芸術作品(オブジェ)のように、空中で完全に静止していた。互いに支え合うことなく、物理法則を完全に無視して。まるで、時間が凍りついたかのように。
「……な」
誰かが、呆然と声を漏らした。
それまで軽薄な笑みを浮かべていた玄さんの顔から、表情が消えていた。彼は、空中に浮かぶオブジェと僕の顔を、信じられないものを見るかのように、何度も見比べた。
朱鷺さんは、その美しい瞳を、驚きに見開いている。しかし、その奥には、歓喜に近い、強い光が宿っていた。「……やはり、私の目に狂いはありませんでしたか」
僕は、何も言わずに、もう一度、指を鳴らした。
パチン、と乾いた音が響くと同時に、空中に浮かんでいた全ての物体が、再び、音もなく、元のあった場所へと戻っていった。まるで、全てが幻だったかのように。
「……ったく、とんでもねえな、お前」
ようやく我に返った玄さんが、悪態とも、賞賛ともつかない声で、ぼそりと呟いた。
周囲の冒険者たちは、もう僕のことをヒソヒソと見ることもできず、ただ、化け物を見るような目で、遠巻きに立ち尽くしているだけだった。
僕は、そんな周囲の反応に、心の底から居心地の悪さを感じていた。
すごい、と言われているのが分かる。
とんでもない力だと、驚かれているのも分かる。
でも、その賞賛は、僕には少しも響かなかった。
それどころか、まるで自分の身体に合わない、借り物の服を着せられているような、強い疎外感だけが募っていく。
(やっぱり、俺の力は、気持ち悪いんだ)
(玄さんの剣は、人が見て、素直に『すごい』と憧れる、本物の強さだ。でも、俺のは違う。理解できなくて、ただ不気味なだけだ)
(俺は、やっぱり、みんなとは違う。同じ場所には、いられない)
帰り道、陽菜や玄さんからかけられる賞賛の言葉も、僕の耳には、どこか遠い世界の出来事のようにしか聞こえなかった。
夕日が、僕の心を置き去りにして、世界を茜色に染めていく。
その夜。
僕は、陽菜の家の小さな部屋で、眠れずにいた。
布団の上に体育座りのまま、障子越しの青白い月明かりに照らされた、自分の長い影を、ただぼんやりと見つめていた。
昼間の出来事が、何度も、何度も、繰り返し再生される。
玄さんの、神速の剣技。
僕が作り出した、あの不気味な光景。
そして、それを見た時の、仲間たちの、あの驚愕の表情。
彼らの眩しさが、僕自身の歪で、空虚な輪郭を、容赦なく浮かび上がらせる。
『すごい』と言われる資格なんて、俺にはない。
俺は、あの教室の隅で、息を殺しているべき人間なんだ。
その時だった。
ふと、耳の奥で、微かな音が聞こえた。
人の、笑い声だ。
――うわ、相田まだいたのかよ。
心臓が、どきり、と嫌な音を立てて跳ねた。
違う。気のせいだ。疲れているんだ。
僕は、ぎゅっと目を閉じて、頭を振った。
――早く帰れよ、空気汚れるだろ。
だが、声は消えない。それどころか、どんどん鮮明になっていく。
脳裏に、光景が浮かび上がった。
薄暗い、放課後の教室。
机に彫られた「死ね」の文字。
画鋲の刺さった、僕の顔写真。
笑いながら、スマホのカメラを向ける、クラスメイトたち。
――お前みたいなのが、輪の中に入ってこようとすんなよ。
――いるだけで、こっちの気分が悪くなるんだよ。
やめろ。
やめてくれ。
それは、もう終わったことだ。ここは、あの教室じゃない。
叫びたいのに、声が出ない。身体が、金縛りにあったように動かない。
――なあ、なんで生きてんの?
その問いかけと共に、腹部に、鈍い衝撃が走った。
「ぐっ……!」
思わず、声が漏れた。
殴られてはいない。僕は今、布団の上に座っている。
なのに、痛い。
腹の奥で、内臓が捻じ切れるような、あの鈍い痛みが、今、この瞬間に、リアルな身体感覚として蘇っている。
顔が、熱い。屈辱と、無力感で、燃えるように熱くなる、あの感覚。
「はっ、はっ、ひっ……」
息が、できなくなった。
僕は、うずくまる。喉の奥がひゅうひゅうと鳴り、空気が肺に入ってこない。
耳を塞ぐ手に、力を込める。幻聴をかき消そうと、爪が食い込むほど、強く。
だが、無駄だった。
過去は、過ぎ去った出来事などではなかった。
それは、僕の心の中に、脳の奥深くに、今も生々しい傷として巣食い、こうして、僕の「現在」を、容赦なく侵食し続ける。
再生され続ける、終わらない悪夢だ。
どれくらいの時間が経ったのか。
ようやく発作が収まり、浅く速い呼吸を繰り返しながら、僕は、ゆっくりと顔を上げた。
窓の外には、相変わらず、静かな夜が広がっていた。美しい庭の緑、満点の星空。
それは、ここに来た日に見た、あまりにも穏やかで、美しい光景のはずだった。
なのに。
今の僕の目には、その全てが、色を失って見えた。
月は、ただ冷たく光るだけの白い円盤に。
庭の木々は、黒い影の染みに。
星空は、闇に開いた、無数の虚ろな穴に。
世界が、死んだ。
いや、違う。
世界は何も変わっていない。
死んだのは、僕の心だ。
(そうだ)
僕は、乾いた唇で、かろうじて言葉の形を紡いだ。
(思い出した。俺は、こういう人間だったんだ)
(誰からも必要とされず、誰からも顧みられず、ただ、教室の隅っこで、息を殺しているだけの、何の価値もない人間)
(異世界に来て、少しだけ、忘れてた。勘違い、してたんだ)
(俺が、変われるかもしれないなんて)
(変われるわけ、ないのに)
過去から逃げることは、できない。
そして、その過去に作り上げられた「俺」という人間は、もう、決して変わることはない。
僕は、そのどうしようもない、絶対的な真実を前に、ただ、震えていた。
過ぎ去るはずの嵐が、自分の内で、いつまでも、いつまでも、激しく吹き荒れるのを、耐えることしかできずに。
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