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第1部:序章 ままならぬ世へ
第10話:このぬくもりも、どうせいつか失うのだから。
しおりを挟むどれくらいの時間、そうしてうずくまっていたのだろうか。
過去という名の悪夢がようやく遠のき、過呼吸の発作が収まった頃には、僕の身体はすっかり冷え切っていた。窓の外では、虫の声が先ほどよりも高く、澄んだ音色で響いている。夜が、深まっている証拠だった。
僕は、まだ色を失ったままの世界の中で、ただ、自分の存在という名の重たい鉛を抱えて、座っていた。
その時、背後の障子が、そろり、と音もなく開いた。
振り返る気力もなかった。しかし、その気配だけで、誰なのかは分かった。僕の荒んだ心とは対極にある、温かく、清浄な気配。陽菜だ。
「宗一郎さん、大丈夫?」
彼女の声は、夜の静寂に溶けるように、優しく、そして心配の色を滲ませていた。彼女の手には、湯気の立つ湯呑みが握られている。先ほど、茶屋で朱鷺さんが淹れてくれたような、上等な茶葉の香りが、僕の鼻腔を微かにくすぐった。
「うなされてたみたいだったから。眠れないなら、温かいお茶でも、と思って」
その、あまりにも純粋な、何の裏もない善意が、今の僕には、鋭利な刃物のように感じられた。
やめろ。
心の中で、僕は叫んでいた。
そんな風に、優しくするな。
俺に慣れさせるな。期待させるな。この温かい場所に、俺の居場所があるなんて、勘違いさせるな。
どうせ、いつか壊れる。
いつか、必ず。
俺の正体が、このどうしようもない卑屈さや、醜い劣等感の塊であることがバレたら、あんたも、朱鷺さんたちも、みんな、現世のあいつらと同じ目で俺を見るようになるんだ。軽蔑と、侮蔑と、憐憫の目で。
そして、離れていく。
そうなる前に、俺の方から壁を作らなくちゃいけない。
傷つけられる前に、俺から、離れなくちゃいけない。それが、俺が学んだ、唯一の生きる術なんだ。
僕は、陽菜の顔を見ることができなかった。俯いたまま、自分でも驚くほど冷たく、硬い声で、言葉を吐き出した。
「……なんでもない」
喉が、錆びついた鉄のように軋む。
「放っておいてくれ」
僕の言葉は、短く、そして鋭く、二人の間にあった温かい空気を切り裂いた。
陽菜が、息を呑む気配がした。
彼女は、傷ついたように、何も言えずに立ち尽くしている。その沈黙が、僕の罪悪感を、まるでヤスリのように削っていく。
違うんだ。本当は、そんなことを言いたいんじゃない。ありがとう、と、ただその一言が言いたいだけなのに。僕の口から出てくるのは、いつも相手を傷つける、冷たい棘ばかりだ。
やがて、彼女は、悲しそうな顔で、僕の横の畳の上に、そっと湯呑みを置いた。
ことり、という小さな音が、静まり返った部屋に、やけに大きく響いた。
そして、来た時と同じように、音もなく、静かに部屋を出ていく。障子が、すうっと閉まる。その向こうで、彼女の気配が遠ざかっていくのが分かった。
一人になった部屋で、僕は、残された湯呑みから立ち上る白い湯気を、ただ、ぼんやりと見つめていた。
陽菜を傷つけてしまった、という罪悪感。
それでも、こうするしかなかったんだ、という惨めな自己正当化。
二つの感情が、僕の心の中で、どす黒い渦を巻いていた。
失うのが、怖い。
この、生まれて初めて手に入れた、陽だまりのような温かい場所を。陽菜の、あの太陽のような笑顔を。
それを失うくらいなら、最初から、手に入れなければよかったんだ。
僕は、手に入れた幸せを失うことを恐れるあまり、自らその幸せを、一番惨めな形で、遠ざけようとしていた。
その時だった。
コン、コン、と。
夜の静寂を破るように、家の戸を叩く音が、控えめに響いた。
こんな夜更けに、誰だろうか。
陽菜が、僕の部屋の前を通り過ぎ、玄関へと向かう気配がする。そして、小さな話し声。
僕は、警戒しながら、息を殺した。
やがて、陽菜の足音が、再び僕の部屋の前で止まった。
「宗一郎さん、起きてる?」
その声には、先ほどまでの悲しみの色とは違う、困惑と、緊張が混じっていた。
「朱鷺さんと、玄さんが……。宗一郎さんに、急ぎの話があるって」
心臓が、大きく跳ねた。
あの二人が、なぜ、こんな時間に。
僕が返事をする前に、障子の向こうから、朱鷺さんの、いつものように穏やかで、しかしどこか張り詰めた声がした。
「夜分に申し訳ありません、相田宗一郎殿。聞こえていますね?」
その声には、有無を言わせぬ響きがあった。
僕は、観念して、重い身体をどうにか起こした。
障子の向かいには、二つの人影が、月明かりに照らされて、黒く浮かび上がっている。朱鷺さんと、その隣に立つ、ひときわ体格のいい玄さんの影だ。
「あなたにしか頼めない、緊急の依頼があって参りました」
朱鷺さんの声は、どこまでも静かだった。しかし、その静けさの中に、尋常ではない事態が起きていることを、明確に感じさせた。
隣の玄さんも、珍しく、いつものような軽薄な口調ではなかった。
「坊主、ふてくされてる暇はねえぞ。こいつは、この国の運命が懸かってる、デカい仕事だ」
国の、運命。
その、あまりにも現実離れした言葉に、僕は、思考が追いつかなかった。
僕が何も言えずにいると、障子の下の隙間から、するり、と。
一通の、巻物のような羊皮紙が、差し入れられた。
それは、上質な紙で作られており、深紅の蝋で、厳重に封がされている。そして、その蝋の上には、僕でも見たことのある、この国の王家を示す、竜の紋章が、くっきりと刻まれていた。
「この国の姫君の護衛。それが、我々に下された勅命です」
朱鷺さんの言葉が、障子一枚を隔てて、僕の鼓膜を震わせた。
「そして、その成否の鍵を握るのは、あなたのその『理不尽な力』なのです」
僕は、畳の上に置かれた、王家の紋章を見つめていた。
それは、僕の個人的な、ちっぽけな絶望や、過去のトラウマなど、まるで意にも介さないかのように、ただ、冷たく、絶対的な事実として、そこにあった。
過去という名の、終わらない悪夢に囚われたままの僕を。
世界の、あまりにも巨大な渦が、容赦なく、その中心へと、引きずり込もうとしていた。
僕がまだ気づいていない、この尽きることのない苦しみの、本当の原因。それと向き合う旅は、この国の運命を左右する、壮大で、そして、あまりにも面倒くさそうな物語と共に、今、幕を開けようとしていた。
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