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第3部:王都の陰謀と穢れの森
第27話:出陣前夜の宴と、決して縮まらない距離。
しおりを挟む出陣は、明日の夜明けに決まった。
その前夜、王宮の広大な中庭では、俺たち一行の壮行の宴とやらが、盛大に、そしてどこか物々しい雰囲気の中で催されていた。
夜空には、満月に近い、蒼白い光を放つ大きな月が浮かんでいる。その光はあまりに明るく、普段なら瞬いているはずの星々の輝きを、そのほとんどを飲み込んでしまっているようだった。
庭のあちこちで、ぱちぱちと音を立てて燃える篝火が、闇を赤く、そして暖かく染め上げている。その揺らめく炎は、宴に招かれた貴族たちが纏う、豪奢で色鮮やかな絹の着物を幻想的に照らし出し、庭の警備に立つ騎士たちの、磨き上げられた銀色の鎧に反射しては、きらきらと火の粉のように煌めいていた。
どこからか、楽団が奏でているのだろう、雅やかだが、どこか物悲しい弦楽器の調べが、夏の夜の湿った空気に乗って、静かに、静かに響き渡っている。
テーブルの上には、王宮の料理人たちが腕によりをかけて作ったのであろう、見たこともないような豪華な料理や、宝石のように輝く果物が、これでもかと並べられていた。肉の焼ける香ばしい匂いと、甘い果実の香りが混じり合い、食欲をそそるはずなのだが、どうにも俺の腹はうんともすんとも言わない。
その華やかさとは裏腹に、宴の空気は、まるで薄氷のように、ぴんと張り詰めていた。
誰もが、明日から始まるであろう死闘を前に、口数は少なく、ただ黙って、目の前の豪奢な杯を重ねている。その表情には、緊張と、覚悟と、そして隠しきれない恐怖の色が、篝火の光に照らされて、濃い影のように浮かび上がっていた。
偽りの饗宴。俺には、そうとしか思えなかった。
俺たち一行も、当然ながらこの場に招かれていた。
陽菜は、小雪姫の隣の席に座り、何やら静かに言葉を交わしている。姫は、今日もまた、完璧な微笑みを浮かべているが、その瞳には昨日よりもさらに深い憂いの色が宿っているように見えた。陽菜は、そんな姫の心を少しでも和らげようとしているのか、時折、身振り手振りを交えて、村での暮らしのことでも話しているのだろうか。二人の周りだけは、この張り詰めた宴の中で、唯一、穏やかな空気が流れているように見えた。
玄はと言えば、その真逆だった。美しい侍女たちを見つけては、いつもの調子で「お嬢ちゃん、その杯よりもっと甘い蜜を吸ってみないかい?」などと下品な軽口を叩き、そのたびに、姫の護衛についている近衛騎士たちから、殺気にも似た鋭い視線で睨まれ、「へっ、野暮なこった」と悪態をつきながら、そそくさと退散している。あの男の、ああいう空気を読まない、というか意図的に読もうとしない図太さは、ある意味では尊敬に値する。
そして俺、相田宗一郎は、その全てから逃げるように、庭の隅にある、大理石でできたテラスの手すりに一人寄りかかり、ただぼんやりと、夜空に浮かぶ月を見上げていた。
(完全に、場違いだ。なんで俺が、こんなところにいるんだ)
心の声が、冷えた葡萄酒と共に、腹の底へと落ちていく。
貴族たちの会話が、風に乗って微かに聞こえてくる。「あの者たちが、宰相閣下が呼び寄せた冒険者か」「見るからに品がない」「本当に、あの化け物どもに太刀打ちできるのかしら」。
好奇と、侮蔑と、そして値踏みするような視線が、背中に突き刺さる。現世の教室で感じた、あの粘つくような視線の暴力とはまた違う。こちらはもっと冷たく、硬質で、まるで昆虫標本でも観察するかのような、無機質な視線だった。
(あの料理、絶対高いんだろうな。味がしない。というか、緊張で喉を通らない)
さっき、侍女に勧められるがままに口にした、鳥の肉の何か。柔らかくて、上品な味がしたような気もするが、砂を噛んでいるようで、よく分からなかった。食べ慣れない高級な料理は、胃の中で石のようになっている。今すぐ、陽菜さんが握ってくれた、あの少し塩辛い、不格好なおにぎりが食べたい。
(明日から、あの森に行くのか。死ぬかもしれないのに、なんでみんな、こんな平気な顔してられるんだ? いや、平気なフリをしてるだけか。だとしたら、余計に息が詰まる)
俺は、もう一度、葡萄酒を呷った。
自己嫌悪と、場違い感と、そして明日へのどうしようもない恐怖。それらがごちゃ混ぜになった黒い感情が、胃の奥からせり上がってくる。吐き気すらした。
その、時だった。
ふと、背後に人の気配を感じた。
振り返ると、そこに、彼女が立っていた。
息を、呑んだ。
それは、朱鷺さんだった。
しかし、俺が知っている、いつもの彼女とは、全く違う姿だった。
彼女は、白地に淡い藤の花が、まるで水墨画のように、しかし繊細に描かれた、美しい訪問着のような着物を、寸分の隙もなく着こなしていた。いつもは無造作に後ろで一つに束ねられているだけの黒髪は、今日はうなじが綺麗に見える夜会巻きのように、ふわりと結い上げられている。そして、普段は決して挿していない、一本の、細く美しい銀のかんざしが、月の光をきらりと反射して、彼女の髪を飾っていた。
それは、もはや「天下一」という名の戦士の姿ではなかった。
あまりにも美しく、あまりにも艶やかで、そしてどこか儚げな、「一人の女性」としての彼女が、そこにいた。
俺は、その姿に完全に言葉を失い、自分の心臓が、ドクン、と大きく、そして間抜けに、跳ねる音を聞いた。
彼女は、俺が呆然としていることにも気づいているのかいないのか、何も言わず、俺の隣に、そっと立った。
二人の間の距離は、ほんの五十センチほど。
彼女の着物の袖が風に揺れるたびに、白檀のような、甘く、しかしどこか心が落ち着くような、上品な香りがふわりと漂ってきて、俺の鼻腔をくすぐった。俺は、意識しないようにすればするほど、その香りを強く意識してしまい、呼吸が少しだけ、浅くなった。
彼女は、俺と同じように、テラスの手すりに軽く肘をつき、夜空を見上げた。
その美しい横顔が、月光に青白く照らし出されている。長い睫毛、すっと通った鼻筋、そして少しだけ開かれた、桜色の唇。俺は、見てはいけないものを見ているような気分になり、慌てて視線を空へと戻した。
しばらく、気まずい沈黙が続いた。
遠くで聞こえる弦楽器の音と、庭の虫の声だけが、やけに大きく聞こえる。
やがて、彼女は、静かに、そしてどこか吐息が混じるような、鈴の鳴るような声で、ぽつりと、呟いた。
「月が、綺麗ですね」
その、言葉。
その、シチュエーション。
その、雰囲気。
瞬間、俺の乏しい恋愛知識のデータベースが、けたたましい警報を鳴らし始めた。
これは、やばい。
これは、何か、気の利いたことを言わなければならない場面だ。
それも、ただの気の利いたことじゃない。人生を左右するレベルの、何かを。
俺の脳内で、緊急対策会議が、超光速で開始された。
(『月が綺麗ですね』!? 出た! これ、現世の、なんかすごい文豪が使ったとされる、伝説の告白の言葉じゃないか!?)
(いや、待て、落ち着け、俺。ここは異世界だ。文化も風習も違う。現世の常識が通用するとは限らない。ただの、時候の挨拶かもしれない。「今日は月が綺麗ですね、ええ、本当に」「では、また」で終わるパターンかもしれない)
(でも、この雰囲気は絶対違う! さっきまでの、あの戦士の顔じゃない。完全に、『女』の顔だ! 横顔、めちゃくちゃ綺麗だったし! いい匂いしたし! これは、絶対、そういうやつだ!)
(どうする!? なんて返すのが正解だ!? 確か、この言葉への模範解答は、『死んでもいいわ』だったか!? いや、待て待て待て! 明日から文字通り死地に向かうっていう、このタイミングで、それはあまりにも縁起が悪すぎる! 不謹慎極まりない! デリカシー皆無男として、未来永劫、軽蔑される!)
(じゃあ、なんて言えばいいんだ!? 『あなたの方が綺麗ですよ』か!? 無理だ! 恥ずかしすぎて舌を噛み切って死ぬ! 俺みたいなのが言ったら、ただのキモい奴だ!)
(何か、何か気の利いた、それでいて当たり障りのない、それでいて俺の知性をさりげなく感じさせるような、それでいてこの場の雰囲気を壊さない、完璧で、非の打ちどころのない、百点満点の返答を! 捻り出せ! 俺の脳細胞!)
数秒間の、しかし俺にとっては永遠のように感じられる、地獄のような沈黙の後。
極度のパニックと思考のショートの果てに、俺が絞り出した言葉は。
彼の人生における、ワースト回答の一つとして、長く、長く記憶されることになる、驚天動地の一言だった。
「あ、はいっ! 月齢から見て、ほぼ望月(もちづき)かと! 大変明るく、視界も良好です! 明日の天候も安定が見込まれ、行軍に支障はないものと判断されます!」
それは、完璧なまでに、感情の介在しない。
完璧なまでに、ロマンのかけらもない。
完璧なまでに、無機質で、事務的で、そして絶望的にトンチンカンな、気象予報士の解説だった。
言った、瞬間。
俺は、全身から血の気が引いていくのを感じた。
(終わった。俺の人生、終わった)
俺の魂の返答を聞いた瞬間、朱鷺さんの動きが、完全に、止まった。
彼女は、美しい横顔のまま、まるで時が止まったかのように、化石のように固まっている。その表情は、驚いているのか、呆れているのか、それとも怒っているのか、それすらも全く読み取ることができない、完璧な「無」だった。
気まずい、という言葉では到底表現しきれない、宇宙的な沈黙が、俺たち二人を支配する。
遠くで鳴り響く、物悲しい弦の音と、篝火の爆ぜる音だけが、やけに、やけに大きく聞こえた。
数秒後。
いや、数分だったかもしれない。
朱鷺さんの、着物の袖に隠された華奢な肩が、くすくすと、小刻みに震え始めた。
そして、彼女はゆっくりと、本当にゆっくりと、俺の方に向き直ると、口元を袖で隠しながら、俯いてしまった。
「ふっ……ふふっ……」
やがて、彼女はもう、こらえきれなくなったように、声を上げて笑い出した。
「あ、ははははっ! な、なんですの、それは! ぎょ、行軍に、支障は、ない! あははははっ!」
その笑い声は、俺が今まで一度も聞いたことのないものだった。
いつも完璧にコントロールされた、穏やかで、上品な微笑みではない。
涙をうっすらと目に浮かべ、腹を抱え、心の底から、本当におかしくてたまらないといった、完全に無防備で、少女のような、本物の笑い声だった。
彼女は、しばらくの間、腹をよじらせて笑い続けていた。俺は、そのあまりのことに、ただ呆然と、立ち尽くすことしかできない。
ひとしきり笑った後、朱鷺さんは、まだ涙の滲んだ目で、まだ化石のように固まっている俺を見つめた。
「ありがとうございます、宗一郎さん」
彼女は、そう言って、ふわりと微笑んだ。
その笑顔は、いつもの完璧な笑顔よりも、ずっと自然で、ずっと温かくて、そして、ずっと美しく見えた。
「おかげで、少し、肩の力が抜けましたわ」
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俺たちの間の距離は、果たして、縮まったのだろうか。
それとも、もう二度と修復不可能なほど、絶望的に開いてしまったのだろうか。
俺には、全く分からなかった。
ただ、彼女の本当の笑顔を初めて見れたことに、胸の奥が、ほんの少しだけ、ちりりと、温かくなるのを、感じていた。
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