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第5部:復讐の刃と忘れえぬ残照
第48話:朱鷺の追憶・五 ~再会と、傷を舐め合うだけの日常~
しおりを挟む(俺が、嫌なんだよ!)
あの叫び声が、まだ耳の奥で反響している。 朱鷺(とき)の意識は、宗一郎の腕の中で強制的に「現在」から引き剥がされ、再び、あの空虚な過去へと沈んでいった。
『天下一』という名の虚像。 それを手に入れた朱鷺は、王宮が差し出す地位も名誉も、その全てを拒否した。 彼女が欲しかったのは「称号」という名の「鍵」であり、王宮という「鳥かご」ではなかったからだ。
彼女は、王宮の息苦しい日常を抜け出し、再び、一介の冒険者として諸国を放浪していた。 「天下一が、なぜこのような辺境に?」 「何か、極秘の任務でも?」 どこへ行っても、その肩書は、彼女が望むと望まざるとにかかわらず、好奇と、畏怖と、そして厄介事を引き寄せた。 人々は、彼女の「天下一」という虚像にひれ伏すか、あるいは、その虚像に挑みかかってくるか、そのどちらかしかなかった。 誰も、彼女を「ただのトキ」としては見てくれない。
(ままならない)
彼女が本当に求めている「ジルベスタの真相」に繋がる情報は、そんな人々の集まる表舞台には、決して落ちてはいなかった。 彼女は、自らが渇望して手に入れた「鍵」が、実は、自分自身を世間の目という「檻」に閉じ込める、新たな「呪い」になっていたことに、気づき始めていた。
―――そんな、焦燥と、諦観が入り混じった、ある日の昼下がり。 彼女は、王都から遠く離れた、とある辺境の町にいた。 次の目的地への馬車を待つ間、時間潰しに入った冒険者協同組合の酒場。
そこは、彼女が知る王宮のどの部屋とも、対極にある場所だった。 窓は埃に汚れ、昼間だというのに、薄暗い。 床は、こぼれた酒か何かで、歩くたびに、ねちゃり、と嫌な音を立てる。 質の悪いエールの、穀物が腐ったかのような酸っぱい匂い。安酒の匂い。男たちの汗の匂い。そして、博打に興じる男たちの、金切り声のような怒声。 全てが、猥雑で、だらしなく、しかし、奇妙な「生」の活力に満ちていた。
朱鷺は、その全ての喧騒から逃れるように、酒場の最も奥まった隅の席で、一人、冷めた茶をすすっていた。 完璧な「天下一の笑顔」という名の仮面を被り、周囲のノイズを、全て遮断して。
その、仮面が、破られた。
「よぉ、姐(ねえ)さん」
不意に、すぐ真横から、馴れ馴れしい、酒焼けしただみ声が、かけられた。 同時に、ぷうん、と、安酒の酸っぱい匂いが、鼻腔を突く。
「こんな薄暗え場所で、一人かい? いい女じゃねえか。この俺様が、一杯、おごってやるよ。なあ?」
視界の端に、だらしなく着物を着崩した、無精髭の男が映る。 ニヤニヤと、下品な笑みを浮かべて、彼女の顔を覗き込んでいる。 朱鷺は、ため息を、心の奥底で、一つ、吐いた。 (またか) こういう輩は、どこにでもいる。 彼女は、いつものように、完璧な笑顔を、その男に向けた。 そして、その笑顔の奥に、相手を昏倒させるための、微細な闘気を込めて、その男の顔を、初めて、正面から、見た。
「一杯、どうだ? 俺みたいな、枯れたおじさんと」
―――その、顔を見て。 朱鷺の、完璧な笑顔が、凍りついた。
「…………え?」
目の前にいる、男。 無精髭。酒と女にだらしない、虚ろな目。濁りきった、瞳。 だが、その、骨格の奥底に残る面影。 それは、忘れるはずもなかった。 あの「紅い夜」、地獄の業火の中、自分という、見ず知らずの子供一人を庇い、王国の精鋭部隊を相手に、正義の剣を振るい、そして、深手を負って倒れた、あの。
「……玄(げん)、さん?」
彼女の唇から、無意識に、その名が漏れた。
その瞬間。 下品にニヤニヤと笑っていた男の顔から、全ての表情が、まるで洗い流されたかのように、消え失せた。
「……あ?」
男の、濁りきっていた瞳が、ほんの一瞬だけ、かつての鋭い光を取り戻す。 彼は、目の前に座る女を、まじまじと見つめ返した。 美しい、黒髪。穏やかな、微笑み。 だが、その瞳の奥にある、全てを諦観したような、冷たい光。 そして、何よりも、今や、この国で知らぬ者のない、その美貌。
「……てめえ、まさか」 玄の、だみ声が、震えた。 「あの時の、ジルベスタの……ガキ……? いや、まさか。『天下一』の、朱鷺、様……?」
重い、重い、沈黙が、二人の間に落ちた。 周囲の喧騒が、まるで厚い壁の向こう側のように、遠のいていく。
どちらも、言葉を、失っていた。 どちらも、次の言葉を、見つけられずにいた。
あの夜のこと。 ジルベスタのこと。 自分が生き延びたこと。彼がどうやって生き延びたのか。 なぜ、あの正義感に燃えていた彼が、こんな、変わり果てた姿になっているのか。 聞きたいことも、言いたいことも、山ほどあるはずなのに。
どちらも、切り出せない。 切り出してしまえば、どうなる? あの夜の記憶が、地獄が、蘇る。 互いの、心の奥底に、何重にも巻き付けた、包帯。それを、無理やり引き剥がすことになる。 血が、噴き出す。 この、かろうじて保っている「今」が、崩壊してしまう。
その、永遠にも思える、数秒の沈黙の後。 先に、仮面を被り直したのは、玄だった。
「……かぁーっ! ぺっ!」 彼は、わざとらしく床に唾を吐くと、頭をガシガシと掻きむしり、再び、あの下品な、ニヤニヤ笑いを、顔に貼り付けた。
「よう、天下一様じゃねえか! こりゃ、驚いた! まさか、こんな汚え、肥溜めみてえな場所で、高貴な天下一様が、油、売ってんのか?」
彼は、道化の仮面を被った。 あの夜の「玄」を、自ら葬り去るかのように。
その、あまりにも痛々しいほどの道化芝居を見て。 朱鷺もまた、凍りついていた「完璧な笑顔」の仮面を、ゆっくりと、被り直した。
「ええ。少し、埃っぽい風に当たりたくなりまして」 彼女は、いつもの、天下一の朱鷺の、穏やかな声で、答えた。 「あなたこそ、玄さん。昼間から、随分と、ご身分なことですこと」
二つの、壊れた要素。 一人は、復讐という「過去」の「我」に、心を囚われた女。 一人は、守れなかった「過去」のトラウマから、酒と冗談で「現在」から逃避し続ける男。
「複雑系」の、創発。 二つの要素は、この瞬間、「互いの傷(過去)には、決して触れない」という、暗黙の、ただ一つの、ローカル・ルールを、設定した。 そのルールの上で、二人は、新たな「関係性」を、創り出し始めた。
「はっ! ご身分なもんかよ! こちとら、その日暮らしの無一文よ!」 玄が、わざとらしく、空になった酒の杯を振る。 「ま、どうせ、姐(あね)さんも、行くあてなんざ、ねえんだろ。俺もだ」
彼は、朱鷺の顔を、再び、下卑た目つきで、じろり、と見た。 「どうでえ? 天下一様の、立派な『護衛』でもして、日銭、いや、酒代でも、稼がせてもらうかね?」
それは、冗談だった。 それは、SOSだった。 それは、かつての「玄」の、最後の、残骸だったのかもしれない。
朱鷺は、その男の、死んだ瞳の奥に、自分と、同じ色の「孤独」を見た。 彼女は、ゆっくりと、微笑んだ。 完璧な、笑顔で。
「……よろしいでしょう。ただし、お酒は、一日、一樽まで、ですよ?」 「マジか! さすが天下一様は、話が分かる!」
こうして、国最強の女剣士と、全てから逃げ続ける剣の達人という、この国で、最も奇妙で、最も歪(いびつ)なパーティ、『静かの森』は、結成された。
そこからの彼らの日常は、まさしく、この瞬間に設定された「ルール」の上で、完璧に構築されていった。 玄は、朱鷺の過去には、決して触れない。 朱鷺も、玄の過去には、決して触れない。 彼らの会話は、9割9分が、玄の、聞くに堪えない下品な冗談と、女絡みのトラブル。 そして、それを、朱鷺が、完璧な笑顔で、時には物理的に、いなし、制裁する、という「コント」だけで、構成されていた。
それは、一見すると、和気あいあいとした、仲間のようにも見えた。 だが、その実態は、互いの絶望的な孤独と、決して癒えることのない心の傷を、薄い、薄い、一枚の皮だけで覆い隠す、痛々しいほどの、「見せかけの日常」でしかなかった。 互いが互いの「傷に触れない」ことで、この不健全な「系」は、奇妙な安定を、保ち続けていたのだ。 あの、宗一郎という、全ての「理(ルール)」を無視する「バグ」が、現れる、その日までは。
―――視界が、揺れる。 過去の、薄暗い酒場の情景が、遠のいていく。 朱鷺の意識は、再び、現在へと、引き戻された。
目の前にあるのは、酒場の埃っぽいテーブルではない。 夜風に揺れる、焚き火の、赤い炎。 そして、その炎に照らされる、仲間たちの、真剣な、心配そうな、顔。
彼女の、長かった追憶と、告白は、終わった。 彼女は、自分の全てを、あの「紅い夜」から、今この瞬間に至るまでの、全ての弱さを、初めて、他者に、さらけ出したのだ。
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