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第6部:剣士の涙と贖罪の太刀
第54話:玄の追憶・三 ~逃避行と、鞘の中で錆びついた心~
しおりを挟む意識は、燃え盛る炎の赤と、降り注ぐ絶望の黒に染まっていた。
肩の激痛。
血の匂い。
そして、数メートル先で、人形のように動かなくなった、愛しい人の姿。
橘 玄一郎(たちばな げんいちろう)の意識は、そこで一度、完全に途絶えたはずだった。
次に彼が微かな温もりを感じたのは、いつだったか。
冷たい雨が、焼け爛(ただ)れた頬(ほお)を打つ感覚。
そして、自分を覗(のぞ)き込む、一対の老獪(ろうかい)な瞳。
ひょうたんの酒瓶(さかびん)を片手に、まるで面白い見世物(みせもの)でも見るかのように、老人は玄一郎を見下ろしていた。
「――ほう。まだ、息があるか。しぶといのう」
それが、指南役・鉄斎(てっさい)との、最初の出会いだったはずだ(第45話)。
鉄斎は、玄一郎の肩の傷を、まるで手慣れた獣(けもの)の解体でもするかのように、手早く(そして、驚くほど雑(ざつ)に)手当てした。薬草を噛(か)み砕(くだ)いて傷口に塗りつけ、ボロ布で乱暴に縛(しば)り上げる。痛みで意識が朦朧(もうろう)とする中、玄一郎は、老人の背後に、もう一人、小さな影が立っているのに気づいた。
押入れの隙間(すきま)から覗いていたという、領主の娘。朱鷺(とき)。
彼女は、全ての感情を失った人形のように、ただ虚空(こくう)を見つめていた。その瞳には、彼と同じか、それ以上に深い絶望の色が宿っていた。
鉄斎は、玄一郎を一瞥(いちべつ)すると、こともなげに言った。
「お主の『正義』は、脆(もろ)いのう。硝子(がらす)細工(ざいく)のように、美しいが、一度(ひとたび)現実(チカラ)の前に叩(たた)きつけられれば、この通り、粉々(こなごな)じゃ」
老人の言葉は、一切の同情も、憐(あわ)れみもなかった。ただ、冷徹(れいてつ)な事実だけを突きつけてくる。
「だが、死ぬも生きるも、お主が決めることじゃ。ワシは知らん」
そして鉄斎は、まだ幼い朱鷺に向き直った。彼女の小さな体に宿る、常軌(じょうき)を逸(いっ)した憎悪(ぞうお)の炎を見抜き、静かに問いかけた(第45話)。
「その憎しみ、どうするつもりじゃ」
少女は、この世のものとは思えない憎悪の瞳で鉄斎を睨(にら)み上げ、絞(しぼ)り出すように答えた。
「力を、ください。全てを奪(うば)った者たちを、この手で斬(き)り捨てるための、力を」
鉄斎は、嘆(なげ)くでもなく、諭(さと)すでもなく、ただ「よかろう」と頷(うなず)いた。
「この娘(こ)は、復讐(ふくしゅう)という『生きる糧(かて)』を見つけた。お主は、どうする?」
鉄斎の問いかけが、雨音に混じって玄一郎の耳に届く。
どうする?
何も考えられなかった。
正義は、砕(くだ)け散った。
守るべきものは、目の前で奪われた。
生きる意味など、どこにも見いだせない。
玄一郎は、何も答えられなかった。
答える気力も、なかった。
鉄斎は、それ以上何も言わず、朱鷺を伴(ともな)い、燃え尽きた灰色の世界を後にした。玄一郎は、降りしきる冷たい雨の中、泥濘(ぬかるみ)に横たわったまま、遠ざかる二つの背中を、ただぼんやりと見送っていた。
どれほどの時間が経ったのか。
雨が上がり、陽が差し込んでも、彼は動かなかった。
飢(う)えも、渇(かわ)きも、傷の痛みすらも、感じなくなっていた。
ただ、虚(うつ)ろな目で、焼け焦(こ)げた空を見上げているだけだった。
死んでいるのか、生きているのか。それすらも、どうでもよかった。
そんな彼を、偶然通りかかった行商人(ぎょうしょうにん)が発見し、荷車(にぐるま)の隅(すみ)に乗せてくれたのは、全くの幸運だった。
行商人は、国境付近の無法地帯(むほうちたい)へと向かう途中だった。玄一郎は、どこへ行くとも告げず、ただ荷台で揺(ゆ)られていた。
そして彼は、その無法地帯で、荷車を降りた。
そこは、王国の法も秩序(ちつじょ)も届かない、荒(すさ)んだ者たちの吹き溜(だ)まりだった。
雨が降り続く、泥濘(ぬかるみ)んだ路地。建ち並(なら)ぶ掘(ほ)っ立(た)て小屋からは、酸(す)っぱい安酒の匂いと、博打(ばくち)に興(きょう)じる男たちの怒声(どせい)が漏(も)れてくる。
すれ違う人々は、誰もが何かに怯(おび)え、何かから逃げているような、荒んだ目をしていた。
ここは、かつて彼が信じた「正義」とは、最も遠い場所だった。
だからこそ、彼はここに留(とど)まることを選んだのかもしれない。
彼は、名前を捨てた。
橘 玄一郎(たちばな げんいちろう)という、真っ直ぐで、愚直(ぐちょく)で、そして無力だった青年の名前を。
彼は、ただの「玄(げん)」と名乗るようになった。
彼は、剣を握ることを、やめた。
腰に差した刀は、もはやただの飾りか、あるいは、いつか自らの命を絶(た)つための道具でしかなかった。
剣を握ろうとすると、あの夜の光景がフラッシュバックする。影山の冷たい目。小夜の最期の顔。激しい吐(は)き気(け)と、止まらない手の震(ふる)えが、彼を襲(おそ)う。もう二度と、剣は握れない。握ってはならない。そう思った。
彼は、自らの苦しみの原因を考えた。
「正義を信じたから、苦しんだ」
「守ると誓ったから、失った」
彼の心は、そう結論づけた。
ならば、どう生きればいい?
彼は、かつての自分とは正反対の生き方を選んだ。
「逃避(とうひ)」という名の、新たな生き方を。
正義を、捨てた。
真面目に生きることを、やめた。正義や理想を、率先(そっせん)して嘲笑(あざわら)った。汗水垂(たら)らして働く者たちを、鼻で笑った。
絆(きずな)を、捨てた。
誰かを本気で愛することを、やめた。その場限りの女を口説(くど)き、決して深入りはしない。一夜(いちや)限りの温もりだけを求めた。
現実を、捨てた。
素面(しらふ)でいると、過去の記憶が亡霊(ぼうれい)のように蘇(よみがえ)り、彼を苛(さいな)む。だから、常に酒を飲んだ。意識が混濁(こんだく)するまで飲み続けた。酔(よ)っている間だけが、彼が唯一、息をすることができた時間だった。
「(真面目に生きたって、何の意味もねえ)」
泥酔(でいすい)し、路地裏(ろじうら)で汚物(おぶつ)に塗(まみ)れて眠りこける夜。彼は、夢うつつにそう呟(つぶや)いていた。
「(誓(ちか)いなんて、クソの役(やく)にも立(た)たねえんだ。だったら、笑って、酔(よ)って、全部忘(わす)れて、野垂(のた)れ死(じ)ぬ方が、ずっとマシだ)」
それが、彼の「生き方」になった。
苦しみから逃れるための、唯一の術(すべ)だった。
しかし、それは、新たな苦しみを生み出し続ける、終わりのない地獄の始まりでもあった。
過去への強烈な執着(渇愛)と、現実から目を背(そむ)け続けるという「無明(むみょう)」。その二つが、彼を「今」という瞬間から完全に切り離し、生きながらにして死んでいるかのような、虚(むな)しい日々へと縛(しば)り付けていた。
――そんな日々が、何年続いただろうか。
ある日、彼は、いつものように辺境(へんきょう)の町の、埃(ほこり)っぽく薄暗(うすぐら)い冒険者協同組合の酒場で、昼間から安酒を呷(あお)っていた。博打(ばくち)でスッた金をどうやって取り返そうか。そんなことばかりを考えていた。
その時、酒場の入り口が開き、眩(まばゆ)い光と共に、一人の女剣士が入ってきた。
美しい白地の着物。ゆったりと結(ゆ)い上げられた黒髪。そして、その顔には、完璧(かんぺき)な、穏(おだ)やかな微笑み。
だが、その瞳の奥には、凍(い)てつくような冷たさと、決して癒(い)えることのない深い悲しみが宿っていた。
国中にその名を知られた「天下一」。朱鷺。
玄は、息を呑(の)んだ。
あの夜、自分が守ることのできなかった、幼い少女の面影(おもかげ)が、そこにあった。
彼女もまた、あの地獄を生き延び、そして、自分とは違う形で、心を殺して生きている。
彼女の笑顔は、仮面だ。かつて自分が信じた「正義」と同じくらい、脆(もろ)く、痛々しい仮面。
「(見ちまった)」
玄の心に、久しぶりに、微(かす)かな感情の揺らぎが生まれた。
「(あいつも、あの夜から、時が止まったままなんだ。俺と同じだ)」
彼は、彼女の「復讐(渇愛)」という名の生き地獄を、痛いほど理解した。
そして、彼は決めた。
彼は、いつもの下品な酔っ払いを装(よそお)い、彼女に声をかけた(第48話)。
「よう、天下一様じゃねえか。こんな汚(きた)ねえ場所で、油(あぶら)売ってんのか?」
それは、彼なりの、あの夜、彼女の弟(リオ)を守れなかったことへの、歪(ゆが)んだ「贖罪(しょくざい)」の始まりだったのかもしれない。
彼女の張り詰めた復讐の糸が、いつか切れてしまわないように。あるいは、いつか彼女が復讐を諦(あきら)め、ただの娘(むすめ)に戻れる日が来るまで。
その隣で、自分は道化(どうけ)を演じ続けよう、と。
互(たが)いの過去には、決して触れない。
それが、彼らの間の、暗黙(あんもく)のルールとなった。
彼は、彼女の張り詰めた心を少しでも和(やわ)らげるため、下品な冗談を言い続け、だらしない男を演じ続けた。
彼女もまた、彼の堕落(だらく)した姿の奥にある、癒えない傷に気づきながらも、何も言わず、ただ完璧な笑顔でそれを受け入れた。
傷(きず)ついた者同士が、互いの傷に触れないように、そっと寄り添(そ)う。
それは、歪(いびつ)で、不健全(ふけんぜん)で、痛々しいほどの、「見せかけの日常」だった。
だが、それでも、彼にとっては、あの夜から続く暗闇(くらやみ)の中で見つけた、唯一の、か細(ぼそ)い光だったのかもしれない。
――視界が、急速に現実の色を取り戻す。
瘴気(しょうき)の腐臭。
妖刀の冷気。
そして、目の前で、憎(にく)しげに自分を見下ろす、影山(カゲヤマ)の顔。
「どうした、玄一郎(げんいちろう)」
影山の声が、嘲笑(ちょうしょう)と共に響く。
「過去の悪夢でも見ていたか? あの女(小夜)の最期(さいご)の顔でも、思い出したか?」
その言葉が、玄の心を再び過去の絶望へと引きずり戻そうとする。
「(ああ、そうだ)」
玄の膝(ひざ)が、震(ふる)え、再び折れそうになる。
「(俺は、また、ここで……何も、守れずに……!)」
十五年前のあの夜と、全く同じ絶望が、彼の全身を支配しようとしていた。
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