とある警察官の恋愛事情

萩の椿

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第三話

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午後七時を過ぎ、仕事を終えた和泉は会社を出た。

一月の半ば、吐く息が白く染まる。ずっと暖房が効いた部屋で一日を過ごしている和泉にとって、この寒暖差が何よりもつらい。和泉はマフラーに顔をうずめながら、駅のホームを出た。


「まだ月曜日かー」


 一週間が始まったばかりなのに、もう疲れ果てた。タイムリープ能力でも持っていたら、無限に土曜日と日曜日を繰り返してやるのに、といつも思う。和泉は舌打ちをして、道に落ちている小石を蹴り飛ばした。と、その時。


「ひったくりー!」


 後ろからそう叫び声が聞こえてきたのだ。和泉が驚いて振り向いたと同時に、黒ずくめの格好をした人物が、和泉の隣を走り去っていった。そして、少し離れたところに、人がうずくまっている。
 和泉がいるのは、駅の裏口付近。表口は、割と明るく人通りもあるのだが、裏口は薄暗く人もまばらだ。


「だ、大丈夫ですか?」


 和泉は、うずくまっている人に駆け寄った。紫色のニットを着た小柄な高齢の女性だった。


「鞄取られちゃった……、どうしよう……」
 体を起こすために握った手は、冷たくかすかに震えている。


「さっき、年金を下ろしてきたの……、今月分の生活費が全部あの鞄の中に入ってるのに……」

 女性は、ブツブツと独り言のように呟く。和泉は、女性を支えながら黒ずくめの人物が走り去っていった道を見つめた。かなり大柄だったので、あれはきっと男性だろう。もう、男の姿はない。


「……とりあえず、交番行きましょうか。反対の表口にありますから、そこまで一緒に行きましょう」
 和泉がそう言うと、女性は力なく頷いた。


 落ち込んだ女性の足取りは重かった。無理もない。一か月分の生活費を取られて、これからどう生活していくのか。絶望しているのか、女性はずっと下を向きっぱなしだ。


(あの時、俺がひったくりを追いかけるべきだったのか……?)


 いや、けれどもしも捕まえたところで、乱闘にでもなったら和泉は勝てる自信が全くない。この女性には申し訳ないけれど、あれが最善の行動だったと和泉は思った。


 十分ほど歩くと、表口に着いた。大きな駅ではないけれど、割と住みやすく人気のある地域なので午後八時近くになってもある程度表口は人通りがある。


(この人ごみに紛れて、ひったくりは逃げたんだろうな)

「あの……、着きましたよ。交番」
 和泉が声を掛けると、ずっと下を向いていた女性が顔を上げる。ゆっくりと女性の足取りに合わせ、交番の扉を開けて中に入った和泉は、カウンターの奥で警察官と向かい合って座っている男を見て目を丸くした。


「あの人……」


 そこにいたのは、さっきの黒ずくめの男だった。大柄な体型と、走り去っていったときに見た格好が全く同じなので多分間違いないだろう。

「どうされましたか?」

 和泉たちを見ながら、中にいたもう一人の若い男性の警察官が声を掛けてくる。

「あ、あの。さっきこの女性がひったくりに遭われて……」

 状況を説明していると、女性は黒ずくめの男を指さして大声で叫んだ。


「あの人です! あの人が私の鞄を!」


 黒ずくめの男は、女性の声にこちらを振り向くと一瞬で目を逸らしてしまった。吊り上がった鋭い目が印象的な二十代後半ぐらいの男性だ。取り調べでも受けているのだろうか、男は椅子に座り顔をずっと俯かせているようだった。そして、男の目の前には、朱色の巾着袋が置かれてあった。


「あれ、私の鞄」


 女性がそう言うと、警察官は「そうでしたか」と優しい顔で頷き、女性を別室へと連れて行った。
 そこから、警察官は女性にひったくりに遭った場所や状況などを聞く軽い聴取のようなものを行い、三十分後ぐらいに、女性の手元に無事、巾着袋が戻ってきた。幸い、中身はまだ手をつけられていなかったようだ。

和泉も一応目撃者として、女性の隣で聴取を受け、できるだけ詳しい内容を警察官に伝えられるように努めた。


「ありがとう、本当にありがとう」


 聴取が終わり、女性は何度も警察官にお礼を言って頭を下げた。


「このお金は、お父さんと私二人分の今月の生活費。取られた時はどうしようかと思ったわ」


 女性は巾着袋を両手で大切そうに抱きしめた。


「ひったくりにもう遭わないために、暗い夜道を一人で歩くことは避けてくださいね。あと、持ち方次第で鞄が取られることを避けられることもありますから、後でこれを読んでおいてください」


 警察官は、女性に「ひったくりに遭わないために」と表紙に書かれたパンフレットを渡した。


「ありがとう。それから、あなたもありがとうね。和泉さん」


 女性は和泉にも丁寧に頭を下げた。
「そんな……。俺は何もしてませんから」


「いいえ。和泉さんがいてくれなければ、あの時私は途方に暮れていましたから。交番に行こうって優しく手を引いてくださって、ありがとう」


「あ、いや……はい」


 日々、罵詈雑言を投げつけられる生活をしているせいか、感謝されることにはどうも慣れていない。和泉は頬が少し熱くなるのを感じた。

「では、私はこれで」

 女性はそう言って、去っていった。あの女性にとって今日は災難な一日だっただろう。けれど、無事に鞄もお金も帰ってきたのだから、とにかく一安心だ。気が緩んだせいか、ぐぅと和泉のお腹の虫が鳴いた。時計を見れば、午後九時を回ろうとしている。

「あ、じゃあ俺も。失礼します」


 今日の夕飯を買うスーパーはもう閉まっているだろうから、どこかのコンビニで適当に買って帰ろうと足を踏み出した和泉は、ふと疑問に思い足を止めた。


 そもそも、何故ひったくり犯が運よく捕まっていたのだろうか。警察官は、実際にひったくりの現場を見ていたわけでもないだろうに。


「あの、何であの男性がひったくりって分かったんですか?」


 和泉が振り返ると、警察官は胸を張って微笑んだ。


「ひったくりと分かっていたわけではないんですが、交番の前に立って見張りをしていた時に、あの男が走ってきて、少し様子が変だったので職質をしていました。丁度その時に、和泉さん達が来られて」


「あ、なるほど。そういうことでしたか」


 腑に落ちた。つまり警察官の目が肥えていたということだ。常に、犯罪と関わっている人たちは、和泉のような一般人の視点とは少し違うのかもしれない。納得した和泉は今度こそ警察官に別れを告げた。


 駅前から、和泉のマンションまでは徒歩十五分くらいだ。途中で寄ったコンビニで、好物の肉まん、それから牛肉弁当、ビールを買いマンションに戻った。


「いやー、でもすごい体験だったな」


 人生で交番にお世話になる機会なんてそうそうないだろう。警察官と話すことだって珍しい体験だ。和泉はビールのブルタブを開けてぐいっと一口飲んだ。何だか、今日は気分がいい。きっと、珍しく人に感謝される体験をしたからだ。


「ありがとう、か」


 当たり前の様に聞いたことがある言葉でも、和泉にとっては程遠い言葉だった。


「なんかいいな、警察官って」


 人を助けて、感謝されて。和泉の仕事とは大違いだ。


(あれ……? 人を助けて、感謝されて。それが収入に繋がる仕事って……)


 和泉の脳に、雷に打たれたような衝撃が走った。
「あるじゃん!」


 幼稚園の時憧れていた、ヒーローみたいな仕事。どうして今まで気が付かなかったのか。和泉はスマホを取り出し、すぐに「警察官になるためには」と検索をかける。一番上に出てきた記事をタップすると、凝ったスライドショー型の記事が映し出された。


「警察官になるためには……、まず警察学校に行く必要があります、か」


 記事を見ていくと、まずは採用試験を受け警察学校に入学、そして和泉の場合は最終学歴が大学卒なので、六カ月間、警察学校で学び、卒業後に様々な部署に配属され勤務という形になるらしい。


「そもそも採用試験って、何するんだろ」


 詳しく内容を見ていくと、採用試験は第一次試験と、第二次試験に分かれており、第一次試験は筆記試験、身体検査、適性検査があり、第二次試験は面接試験、第二次身体検査、第二次適性試験が行われるらしい。筆記試験は、文章理解や判断処理、数的理解など試験範囲は幅広いし、身体検査もある程度の基準を満たさなければ合格はできないそうだ。


「案外厳しんだな……」


 勉強なんて、大学を卒業してからというもの全くやってないし、運動もからっきしなので体力も落ちているだろう。今のままでは、到底合格などできるはずがない。けれど、今から試験の準備をするとなれば、第一次試験が四月の末なので約三カ月はある。三カ月でどうにか準備をして、試験に合格できれば、今年の十月の入学に間に合うのだ。


(やってみる価値はあるかもしれない)


 モノモノ文具に入社して三年が経った。待遇面に関しては世間的には恵まれている方だ。けれど、どうしても仕事内容にやりがいを感じられなかった。転職をしたいと思っても、特にやりたい仕事が見つからず難航していたが、今まさに、やってみたいと思う仕事を見つけることができた。


(今行動せずに、いつやるんだ)


 モノモノ文具お客様相談室にずっと務める気はない。きっと、今が人生を変えるタイミングなのだろう。和泉はよしっと気合を入れた。とりあえず、参考書などは明日の仕事帰りに買えばいいだろう。


体力面に関しては全く自信がないので、体力を作っていくための運動メニューも考えていかなくてはならない。とても難しいことだし、苦しい事だろう。そう思うけれど新しく目標ができた事、一歩足が踏み出せることに和泉の心は踊っていた。
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