夢の雫~保元・平治異聞~

橘 ゆず

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第五章 保元の乱

橋田三郎

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よく日に灼けた顔に質素な橡色の着物を着た男は、正清を見るとぎょっとしたような顔をした。
「お、おお。お気がつかれましたか」
 そう言うと、あたふたと小屋を出て行く。
 やがて、同じような浅黒い顔の、だがもう少しこざっぱりとした着物を着た女を連れて戻ってきた。女はおどおどとした笑みを浮かべて言った。
「よろしゅうございました。もう一昼夜も眠ったきりで……どうしようかと思うておりました」

二人は川漁師とその妻で、矢六とお喜与と名乗った。ここは鴨川べりにある二人の家だという。
いかにも善良そうな夫婦だが、この時代の庶民というのは油断がならない。
大きな戦のあと、亡骸から太刀や鎧、着物まで引き剥がしていく行為はこの時代、珍しくもなかったし、亡骸から略奪するのはまだいい方で瀕死の怪我人を身ぐるみ剥いで捨てたりすることもある。
それどころか敗者方の落ち武者を集団で待ち構えて、鋤、鍬などを構えてよってたかって叩き殺し略奪に及ぶなどということも普通だった。

正清は素早くあたりに視線を走らせた。
着ていた鎧は脱がされているが、板敷きの間の片隅にまとめて置かれている。太刀と弓もその脇に置いてあった。
さりげなく、そちらに移動しいつでも太刀をつかみ取れる位置に座って正清はふたりの話を聞いた。話をしたのはもっぱら女房のお喜与の方だった。

 それによると数日前、明け方漁に出ていた二人は時ならぬ馬の嘶きや蹄の音に驚いて慌てて小屋に戻って来た。戦の物音に二人で震えながら抱き合っていると、激しい物音は卯の刻頃には止んだ。
それでも恐ろしくてしばらくは外へ出られなかった。昼頃になり、恐る恐る外へ出て、仕掛けて置いた網を見に行くと、武者がふたり倒れている。
驚いて逃げ出そうとすると、そのうちの一人──初老の方が助けを求めてきた。
どうやらそちらの男が、もう一人の若い武者の方を担いでここまで逃れてきたらしい。

 矢六は面倒はごめんだと嫌がったが、女房のお喜与は自分も怪我を負いながら、息子ほどの年齢の武者を背負った老武者の必死の様子に心を打たれて夫をせきたて、小屋へ運ばせたのだという。

「その方はこうおっしゃいました。『こちらの若殿は此度の戦の戦勝将軍の乳母子どのだ。助ければ褒賞は思いのままぞ』と。そして、ご自分の太刀や甲冑を礼に差し出すので、どうかどうかこの方をお助け下されと繰り返し言われて、そのまま……」
 老武者は息を引きとったという。

「俺のことを、若殿と申したか──」
「はい。ご幼少のころより我が命とも思うてお仕えしてきた若君じゃ、と。どうか、どうかお助け下され。しばらくの間、匿って戦が落ち着いたら三条坊門の下野守さまのお邸へお使いをと」
「その者は今、どこに」

「このように、日中は暑い時期ゆえ──お侍さまに申し訳ないとは思いましたが」
 夫妻に案内されて、まだ覚束ない足取りで小屋の裏手に行くと、そこにはまだ新しい土饅頭が盛り上げられていた。
 老武者が礼にと言い残した甲冑は、小屋の隅に置かれていた。
 何度も繕ったあとのある、年季の入った赤糸縅のそれは紛れもなく、父、通清の側近だった橋田三郎のものだった。
 正清は思い出した。為朝の矢に狙われて死を覚悟したあの瞬間。
 横合いから飛び出してきた騎馬武者に馬ごと体当たりをされて、鞍から吹き飛ばされるような勢いで落馬したこと。土手を転がり落ち、川辺に茂る葦の繁みに転げ込んだ。呼吸が出来ないような痛みと、遠のく意識のなかで、この鎧の赤色を確かに見た。

(だが橋田がどうして──父とともに白河北殿の内にいたはずなのに)

「この方は、こうも仰っていました。『こちらの若殿にはそれはそれはお優しい、良い奥方さまがいらっしゃる。わしはその奥方さまに大変にお世話になった。そのときに誓ったのだ。奥方さまに何かあらば一命を賭してお役に立とうと──。この方をお救いすれば奥方さまの御恩に報いることになる。ご妻女……奥方さまはちょうどそなたと同じお年頃じゃ。この爺を哀れと思うて下さるのなら、どうかわしを忘恩の徒にはせんでくれ。奥方さまの御為に、若殿をお助け下され』と……」
 そう言ってお喜与は色褪せた袖に顔を押し当てて泣いた。
 橋田の背には太い矢が突き刺さっていたという。体当たりするような勢いでぶつかってきたあの時。橋田は身を挺して正清の楯となったのだ。

 正清は唇を噛みしめた。橋田三郎の人の好さそうな顔が浮かんできた。
それはどれも、最近のものではなくて、幼い頃、乗馬や木登りを教えてくれたり、魚釣りや遠乗りに連れていってくれた頃のものだった。

「──今は、いつだ?」
 お喜与に尋ねる声がかすかに震えた。
「はい?」
「俺は一昼夜、気を失っていたといっただろう。今は何日だ」
「ええと……」
「十三日の夕べでございますよ」
 空を見て指を折る仕草をする妻の横から、矢六が顔を出しておずおずと答えた。

「十三日……!」
 義朝が兵を率いて白河北殿に夜討ちを駆けたのが十一日の明け方。
 自分が為朝と戦い敗走したのがその日の朝方だから確かに丸一日以上、意識を失っていたことになる。よくも目が覚めたものだ。漁師の夫婦がどうしたものかと途方に暮れていたのもよく分かる。

 しかし、いくら橋田の遺言があったとはいえ、よくも見知らぬ武者をそんなに長い間匿い通してくれたものだ。正清は改めて二人に礼を言った。
 矢六によると、戦は帝方の大勝利。
 敗れた上皇方は、首謀者の新院、前左府ともに逃亡し、依然行方が知れないという。

「殿は──帝方の大将、下野守さまはどうなされたか知っておるか?」
「はい。なんでも帝はたいへんにお喜びになって、勝ち方の将軍がたにはたいそうな褒賞があったとか」
 それでは義朝は無事でいるのか。下々の者の言うことだ。自分で確認するまでは安心出来ないが。

 ともあれ、自分のことを「戦勝将軍の乳母子だ」と言った橋田の言葉は嘘にならずに済んだようだ。正清は改めて夫妻に自分の名と身分を名乗った。
「死んだ橋田の言った通り、礼はいくらでもする。ただ、橋田にも身内がおる。形見の品を持ち帰ってやりたい。近いうちに使いを出すゆえ、その鎧や太刀は買い取らせて貰えぬか。そなたらは命の恩人だ。絹か、米か何でも望むものを望むだけ支払う」

 二人は目を白黒させて頭を下げた。
「そ、それはもう。このような刀や鎧をいただいたところで私どものような者にはどうしようもございませんし、売りに出たところでどこで手に入れた、だのご詮議にあえば恐ろしいことと、困っておりましたので……そのようなお品に替えていただけるのなら願ってもないことで」
「ありがたい。礼を申すぞ」

 二人はあからさまに安堵した様子だった。
 お喜与はまだ体中が痛んで、ふらついている正清を寝床へ戻すと、くるくると働いてかまどに火を起こし、食事の支度をしてくれた。
 その甲斐甲斐しい様子を見ていると、小袖にたすき掛けをして水屋で侍女たちと働いていた佳穂の姿を思い出した。
 もう何年も会っていないような気がする。だが、もうすぐ、もう一度、会える──。
 そう思った途端に、再び睡魔が襲ってきた。
(一刻もはやく、殿のもとへ戻らなければ──)
 そう思いながら、正清はもう一度眠りへと落ちていった。

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