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山路
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夜が明けた。
人々は簡単な食事をとって出発の準備をした。
佐奈は他の女たちとともに食事をして身支度を整えた。
側室たちのうち、伊代の方の姿はここにはなかった。
彼女の産んだ勝頼の息子、二歳になる勝千代が新府を出て以来の強行軍がたたって高熱を出してしまったのだ。
無理のないことだった。
侍女や家臣の妻子のなかにも体を壊したり、脚を傷めたりして離脱するものが幾人もいた。
勝千代の病状は重く、同行している医師によるとこのまま旅を続ければ命にも関わるとのことだった。
やむなく勝頼は、腹心の跡部勝資の進言を受け入れて近隣に住む渡辺兄弟という土地の者に勝千代を託す決意をした。
伊代の方は泣いて勝頼と別れることを拒んだが、かといって我が子と別れて一行とともに行くことも出来ず泣く泣く、勝千代の乳母とともにそこへ残った。
別れのとき、勝頼は勝千代を乳母から抱き取ると、熱でぐったりしているその顔をじっとみつめてから無言で返した。
そして傍らで泣いている伊代に一言、二言、声をかけるとそのまま踵を返した。伊代はその場に泣き崩れた。
勝頼は二度と振り返らなかった。
佐奈も悲しい思いでそれを見ていた。
他の側室たちも皆泣いていた。
平和だった頃は、お互いに勝頼の寵を競い合った仲であったが新府から付き添ってきた女たちの間には今では同志とでもいうべき連帯感が生まれていた。
食事を終えて身支度をしているところへ侍女の一人が戻って来た。
侍女は真っ青な顔で、昨夜のうちに兵のなかにかなりの数の脱走者が出たらしいと告げた。女たちの間に悲痛な声があがった。
新府を出て以来、行軍の途中や夜陰に紛れて逃げ出す者があとを絶たず、七百人以上いたはずの兵の数はすでに半分以下にまで減っていた。
逃げた者のなかには馬を奪っていった者もいた。
ただでさえ不足していた馬の数はいよいよ足りなくなり、佐奈もここから先は歩いてゆくことになった。
北条家から従ってきた乳母の藤野は、五年前、金蒔絵をほどこされた華麗な駕籠に揺られて、甲斐の国に花嫁としてやって来た佐奈の運命の転変のあまりの激しさを思って泣いた。
佐奈は、父・氏康がとりわけ愛した末娘であった。
(先代の御館さまがご存命であったなら姫さまがこのような憂き目にお遭いになるようなことは決してなかったでしょうに)
当人の佐奈の方が存外平然としていた。
実のところ、木の根も多くでこぼことした山道を馬でいくのに些か閉口していたのだ。
馬の口は従者がとってくれているとはいえ、揺れる鞍の上でしゃんと背筋を伸ばし、勝頼の夫人としての威厳や気品を失わない姿勢を維持し続けるのはなかなかに気を遣うし体力も使う。
一日じゅう移動した後などは、腰や背中が痛くてたまらなかった。
他の女たちの間に混じって歩いていけるのなら、その方がむしろ気楽というものだった。
「あと一つ、峠を越えれば小山田殿の領内に入ります。そうすれば岩殿のお城へはあと一息。足手まといにならぬよう皆、頑張りましょう」
佐奈はまわりの女たちに向かって明るい声で言った。。
一行が、大勢の脱走者を出しながらも女子供を抱えてどうにかここまでやって来られたのも、その先に岩殿城というさしあたっての安住の地が約束されているからであった。
小山田信茂は、先代、信玄の代からの武田家譜代の家臣であった。
木曽義昌、穴山梅雪など、御親類衆の離反が続き、信頼していた真田安房守からの岩櫃城へと移るべきとの進言を退け岩殿城へと向かうことを決めた勝頼にとって、もはや頼れるのは岩殿行きを強く主張した小山田信茂だけであった。
人々は簡単な食事をとって出発の準備をした。
佐奈は他の女たちとともに食事をして身支度を整えた。
側室たちのうち、伊代の方の姿はここにはなかった。
彼女の産んだ勝頼の息子、二歳になる勝千代が新府を出て以来の強行軍がたたって高熱を出してしまったのだ。
無理のないことだった。
侍女や家臣の妻子のなかにも体を壊したり、脚を傷めたりして離脱するものが幾人もいた。
勝千代の病状は重く、同行している医師によるとこのまま旅を続ければ命にも関わるとのことだった。
やむなく勝頼は、腹心の跡部勝資の進言を受け入れて近隣に住む渡辺兄弟という土地の者に勝千代を託す決意をした。
伊代の方は泣いて勝頼と別れることを拒んだが、かといって我が子と別れて一行とともに行くことも出来ず泣く泣く、勝千代の乳母とともにそこへ残った。
別れのとき、勝頼は勝千代を乳母から抱き取ると、熱でぐったりしているその顔をじっとみつめてから無言で返した。
そして傍らで泣いている伊代に一言、二言、声をかけるとそのまま踵を返した。伊代はその場に泣き崩れた。
勝頼は二度と振り返らなかった。
佐奈も悲しい思いでそれを見ていた。
他の側室たちも皆泣いていた。
平和だった頃は、お互いに勝頼の寵を競い合った仲であったが新府から付き添ってきた女たちの間には今では同志とでもいうべき連帯感が生まれていた。
食事を終えて身支度をしているところへ侍女の一人が戻って来た。
侍女は真っ青な顔で、昨夜のうちに兵のなかにかなりの数の脱走者が出たらしいと告げた。女たちの間に悲痛な声があがった。
新府を出て以来、行軍の途中や夜陰に紛れて逃げ出す者があとを絶たず、七百人以上いたはずの兵の数はすでに半分以下にまで減っていた。
逃げた者のなかには馬を奪っていった者もいた。
ただでさえ不足していた馬の数はいよいよ足りなくなり、佐奈もここから先は歩いてゆくことになった。
北条家から従ってきた乳母の藤野は、五年前、金蒔絵をほどこされた華麗な駕籠に揺られて、甲斐の国に花嫁としてやって来た佐奈の運命の転変のあまりの激しさを思って泣いた。
佐奈は、父・氏康がとりわけ愛した末娘であった。
(先代の御館さまがご存命であったなら姫さまがこのような憂き目にお遭いになるようなことは決してなかったでしょうに)
当人の佐奈の方が存外平然としていた。
実のところ、木の根も多くでこぼことした山道を馬でいくのに些か閉口していたのだ。
馬の口は従者がとってくれているとはいえ、揺れる鞍の上でしゃんと背筋を伸ばし、勝頼の夫人としての威厳や気品を失わない姿勢を維持し続けるのはなかなかに気を遣うし体力も使う。
一日じゅう移動した後などは、腰や背中が痛くてたまらなかった。
他の女たちの間に混じって歩いていけるのなら、その方がむしろ気楽というものだった。
「あと一つ、峠を越えれば小山田殿の領内に入ります。そうすれば岩殿のお城へはあと一息。足手まといにならぬよう皆、頑張りましょう」
佐奈はまわりの女たちに向かって明るい声で言った。。
一行が、大勢の脱走者を出しながらも女子供を抱えてどうにかここまでやって来られたのも、その先に岩殿城というさしあたっての安住の地が約束されているからであった。
小山田信茂は、先代、信玄の代からの武田家譜代の家臣であった。
木曽義昌、穴山梅雪など、御親類衆の離反が続き、信頼していた真田安房守からの岩櫃城へと移るべきとの進言を退け岩殿城へと向かうことを決めた勝頼にとって、もはや頼れるのは岩殿行きを強く主張した小山田信茂だけであった。
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