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第十二話 記憶
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出合茶屋の二階でごろりと横たわる漣は、さすがに自慰する気にもなれなかった。
「くっそぉ……」
よりによって、焔禅の配下に掘られるなんて!
怒りが湧き上がって止まらない。
荒ぶる心のまま、懐から仙台箪笥の鍵を取り出した。下から二段目の引き出しを開けた漣は、中にある和紙や墨、筆といった画材一式を取り出して絵を描き始める。
——激しい感情に囚われたら絵にしなさい。
柳露先生から教わったことだ。そして実際、そういう時の絵には凄味があり、姉弟子いわく高く評価されているらしい。
「違う……」
ようやく描き終わったというのに、漣は顔を顰めた。
「これは違う……こんなんじゃない」
ぶわっと涙が溢れてくる。
白い和紙に描かれているのは、うつむき加減の男の顔。左頬に刀傷がある、ざんばら頭の美丈夫。
でも。だけど。
「……これは白羅じゃない。白羅はこんな顔をしていない」
ポタリポタリと和紙の上に涙が落ちて、墨を薄く滲ませる。
漣は白羅を描けなくなった。描き上げたと思った瞬間、よく似た他人としか思えなくなるのだ。
「ふうっ……ひっく……」
箍が外れたように、涙がポロポロとこぼれ出る。
記憶に残る白羅を絵にできないのは、顔をよく思い出せないからだ。まぐわっている間の吐息や体温、激しい抽挿や肉棒の熱さは覚えているのに。
「なんで、どうして、白羅だけ描けないんだよ……」
うわああん、と子供のように泣きじゃくり、漣はその場に突っ伏した。
絵師の父を見て育ったせいか、はたまた元からの能力かは不明だが、漣は見たままを絵に描くことができた。だから焔禅の正確な顔を描けた。それゆえに白羅の手足として仲間に入れてもらえた。
白羅が所属していた名も無き組織は、普通なら目撃者を殺すらしい。
最初の頃に面倒を見てくれた夜鷹の女が「本当に珍しいことだよ」と驚いていた。特に、現場で白羅の顔を見た者は問答無用で殺すのだとも教えてもらった。
「まあ、目撃者を仕留めるのは焔禅もなんだよねえ……アイツの仲間ですら、頭巾を被った姿でしか会ったことがないって言うし」
だからどれだけ配下を捕まえて拷問しようが尋問しようが焔禅の顔が分からず、霧を掴むみたいな話しか出てこなかったのさ、と夜鷹の女は語った。
「だけど、漣のおかげで、あの腐れ坊主を捕えることができそうだね」
ふふふ、と嬉しそうに夜鷹の女は笑った。その狂気じみた笑顔から、彼女が焔禅を憎んでいることに漣は気づいた。おそらく、自分と同じように、大事な者を殺されたのだろう。
それは突然やってきた。
いつものように昼すぎから白羅に抱かれ、激しく抽挿されて後ろ孔がドロドロになるまで交わった日のことだ。
互いに絡め合い強く吸い続けた舌はビリビリと痺れ、声が枯れるまで喘ぎ、日が暮れるまで睦み合っていた。そのせいか、淫欲を存分に満たした後の漣は、湯浴みをして身体を清める気力すら失せてしまい、白羅に抱き締められたまま熟睡していた。
闇の中、隣に寝ていた白羅がムクリと起き上がったので、漣は否応なしに目が覚めた。
「お前はここにいろ」
低い嗄れ声が頭から降ってくる。布団の中から見上げると、能面のような顔が漣を見ていた。
「……うん」
何か嫌なことが起きていて、これからもっと恐ろしいことになる。そんな予感がした。
漣は頷くと、掛け布団を頭にかぶって縮こまった。先刻まで互いに出し合った精液の匂いが鼻腔をくすぐる。夢でも見ているのかと漣は思ったが、敷布団で擦れた乳首の甘い痛みに、これは現実なのだと気付かされた。
ドゴオッ! バキイィッ!!
白羅が廊下に出てすぐ、人が蹴られて壁にぶつかる音がした。
「……さまー! 起きている者がいまし……ギャアアアーッ!!」
グワッシャアァーーンッ!!
襖や障子を壊す衝撃と同時に、人の絶叫が響き渡った。ときどき経文を唱える声も聞こえていたが、途中からすべて断末魔の叫びへと変わった。
漣は身体を震わせながら、この部屋に誰も来ませんようにと願った。そして自分が素っ裸でいることに気づいて赤面し、脱ぎ捨てていた着物を布団の中に引っぱり込んだ。
もぞもぞと着替えを終えた頃に、屋敷の中が静まり返った。なんとなく、どういう状況か察せられる。やがてガタガタと襖が動いた。誰か入ってくる。漣は息を殺して様子を伺った。
「…………れん……」
白羅の声だ。戻ってきた!
漣は布団から出て起き上がったものの、言葉を失った。
目の前に立つ白羅は全身が血まみれだった。文字通り頭のてっぺんから足の先まで返り血を浴びており、着物の裾から鮮血が滴って足元に血の池を作っている。
「……目……血が……ぜんぜん見えねえ……」
嗄れ声の白羅がゴシゴシと目をこすろうとしたので、慌てて漣はそれを止めた。
「い、井戸に行こう。水で洗わないと」
屋敷には自分たち以外に生きている者はいないだろう。それは直感だった。
最初に見たのは、頭の潰れた男の死体。次に手足と首が捻じ曲げられて息絶えた僧侶。二人とも、着物の裾に灰色の炎が描かれている。
血まみれの白羅を連れた漣は、奥座敷のあちこちで死体を見た。
開いた襖の奥から、血塗れた布団に横たわる夜鷹の女の死顔も見えた。そして、廊下のあちこちに転がる、凄まじい悪臭を放つ大量の臓物と肉の塊。かつては人の形をしていたものだろう。
使用人たちが寝泊まりする大部屋はもっと酷い流血の惨事だった。
寝ているところを刺されて死んだ使用人と、白羅に斬られて死んだ僧侶たち。血しぶきが天井まで跳ね返り、襖も障子も真っ赤だった。そのうえ臓物や糞尿が布団の上に散らばっていて激臭を放っている。
漣がその場で吐かなかったのも、気を失わなかったのも奇跡としか思えない。
「……は、白羅、井戸に着いたよ。い、いま水を……」
満月が近いのか、外が明るかったおかげで、漣は白羅を連れて裏庭にある井戸までなんとか辿り着いた。
バシャーンと音を立てて、落とした釣瓶が井戸の底に沈む。
漣は今更ながらに全身が震え出した。桶を引き上げようとするが、手に力が入らず、何度も落としてしまう。バシャ、バシャン、バシャーン……四度目でようやく水の入った桶を引き上げることができた。でも漣の手は震えたままだ。
「洗い流せ」
漣の頭の上から、重い声が落ちてきた。
「……?」
桶を持ったまま見上げたところ、この屋敷の主でもある、身なりの良い侍がいた。井戸の向かい側から腕を伸ばし、水桶を上げる綱を掴んでいる。漣が桶を引き上げるのを手伝ってくれたのだろう。
「白羅はどうなっている?」
「え?」
どういう意味? 漣は井戸のほとりで座り込んでいる白羅を見た。意識が朦朧としているのか、目を閉じてブツブツと小声で何か呟いている。
「……水をかけろ」
「はいっ!」
白羅の頭の上に、ゆっくりと水をかけた。血や臓物の欠片が流れていく。漣は何度も水を汲み、白羅の全身を洗い流した。井戸の周辺が水浸しになり、生臭い臭いが満ちている。遠くから狼か犬の遠吠えが聞こえてきた。遅かれ早かれここへ来るだろう。
「着物を取ってこい。着替えさせろ」
身なりの良い侍が低く重い声で命令した。ビクッと身体を硬直させた漣は、おずおず頷いてから奥座敷へ向けて走り出した。
(何があったんだろう?)
皆が寝静まった頃に襲撃されたとしか思えない。屋敷の人間は布団の中で死んでいたのだから。しかも、ちらりと見ただけだが、廊下の奥には用心棒の首が転がっていた。白羅ほどではないが、かなりの手練だと噂の男だったのに。
(あの人まで殺されたなんて……もしかしたら、食事に毒が入れられていたとか)
漣と白羅は昼から長時間まぐわった末に事切れたので、その日の夕餉は食べていない。
(でも、誰が? 前に来た与力の仲間?)
よく分からなかった。白羅たちが暗殺者なのは知っている。だから仇討ちで襲撃されたとしてもおかしくない。しかし漣は、今夜の襲撃はまた異なる理由があるような気がした。
(皆を襲ったのは、お坊さんばかりだったし……)
襲撃犯はみな剃髪していた。そして着物の裾には灰色の炎。
「あっ……!」
ゾクリと肌が粟立ち、漣は立ち止まった。
(むかし父さんを殺した連中……焔禅の仲間?)
もしかして、焔禅もこの屋敷へ来ていたのか?
奥座敷に着いた漣は、無傷だった裏口から入った。自分と白羅の部屋へそっと戻り、箪笥から白羅の着物と帯、それに下帯や手ぬぐいを取り出す。
「……草履は……どうしよう……」
再び血腥い廊下を抜けて玄関まで行きたくはない。幸運なことに、裏口の横に使用人が脱ぎ捨てた草履が残っていた。当座はそれでいいだろうと手に持ち、井戸に戻る。
「白羅、着物を……」
駆け寄りながら声をかけようとして、漣は口を噤んだ。身なりの良い侍が、井戸の横でぐったり座り込んでいる白羅の横にしゃがみ、耳元で何かを囁いていたからだ。
立ち止まった漣に気づいたのか、身なりの良い侍はすぐに立ち上がる。
「着替えさせたら、その馬に乗れ。行き先は白羅が知っている」
いつの間に来たのか、一頭の馬が近くで草を食んでいた。
「わ、わかりました」
ようやくそれだけ言うと、漣は白羅に近づいて立たせ、血塗れた着物を脱がせた。井戸まで連れてきた時、酷く身体が冷たくなっていると思ったが、水をかけたせいで悪化した。これでは凍死してしまう。
とりあえず、持ってきた手ぬぐいで身体を拭き、新しい長着を肩に羽織らせたものの、次はどうしよう。
偉い人に見られている状況で下帯を替えるのは気が引ける。でも、血で汚れた褌なんて白羅も嫌だよな……。ビクビクしながら褌を緩める。
(うっ……改めて見ると白羅のってやっぱり大きい……)
これが自分の尻に入るのか、と改めて驚いてしまった。だらんと力を無くしている状態でこれなのだから、勃っている時はさぞかし……いつも無我夢中でしゃぶったり嵌めたりしていたので気にならなかったが、なかなかどうして。
「早くしろ」
ぴゃっ、と漣は小さく声を上げた。そうだった。白羅の男根に見惚れている暇はない。だいたい、今はそんなことに気を取られてはいけないのだ。
「は、はい」
焦りながら返事をする。いつも脱がせられる側だったので、逆は慣れない。ちらりと白羅の様子を伺うと、目を瞑ったままウトウトしていた。立ったまま寝るなんて器用だな……と思いつつ、なんとか褌を締め、長着の帯を結んでいたところ、身なりの良い侍が嘆息した。
「懐いたな」
「え?」
「……いや、こちらのことだ」
驚いて振り返った漣に向かい、なんでもないと手を振った侍は、早く行けと促した。
「は、白羅、行くよ。馬に乗れる?」
「……うう……」
ヨロヨロしている白羅の腰を支え、漣は馬がいる方向へ歩き出した。
その時。
グオオッ!!
爆音と共に火の手が上がった。表座敷が燃えている。
「じきにここも燃える。急げ」
身なりの良い侍が、太く重い声で告げた。白羅はまだふらふらしていたものの、難なく馬の背に乗った。
「お前も乗れ」
侍が命令する。
「えっ?」
おれは馬になんて乗ったことないよ! と驚いているうちに、ヒョイと腕を捕まれる。気づいたら、白羅の前にちょこんと座っていた。
「もう目は平気な……の……!?」
身体をひねって見上げた漣は、白羅の目が開いているものの、意識は戻っていないことに気づき瞠目した。
「白羅? 大丈夫?」
「ヒヒン!」
馬が走り出す。放心して目がうつろな白羅だが、危なげなく手綱を握っている。大丈夫だろうか……と困惑するうちに、漣の後ろから再び大きな音がした。
バキィーン! ゴワアアッ!!
振り返れば、今度は奥座敷が燃え上がっている。闇空で煌々と光る月へ向かい、禍々しいほどの熱と炎、どす黒い煙が湧き上がっていた。
(あの人は、いったい……)
身なりの良い侍が背中を向けて立ち去る姿が小さくなるまで、漣は馬上から振り返って眺め続けた。
月の光を頼りに江戸の郊外まで走った馬は、小さな家の前でようやく足を止めた。白羅は相変わらず放心したかのような顔つきだったが、途中で手綱を放すことは無かった。
空が白み、灰青色の雲が風に流れている。
ザワザワと北風が梢を揺らす中、漣は馬から下りて周囲をざっと見回した。近くに農家が点在しているようだ。
(朝早く起きた人に見られたらまずいよな、きっと……)
漣は白羅を連れて小さな家の中へ入った。玄関は開いており、すぐそばに畳敷きの狭い座敷があった。もつれるように倒れ込み、ようやく息をつく。
「白羅、少しここで休もう」
漣は疲れていた。寝不足だったし、食事も取っていない。恐ろしい経験をした上に、慣れない馬移動でクタクタだった。だから、白羅の変化に気づけなかった。
日が高く昇ってから目覚めた時、漣は驚いた。
「……クソ……頭が痛え……」
隣で寝転び、呻き続ける白羅は、髪の大半が白くなっていた。
「くっそぉ……」
よりによって、焔禅の配下に掘られるなんて!
怒りが湧き上がって止まらない。
荒ぶる心のまま、懐から仙台箪笥の鍵を取り出した。下から二段目の引き出しを開けた漣は、中にある和紙や墨、筆といった画材一式を取り出して絵を描き始める。
——激しい感情に囚われたら絵にしなさい。
柳露先生から教わったことだ。そして実際、そういう時の絵には凄味があり、姉弟子いわく高く評価されているらしい。
「違う……」
ようやく描き終わったというのに、漣は顔を顰めた。
「これは違う……こんなんじゃない」
ぶわっと涙が溢れてくる。
白い和紙に描かれているのは、うつむき加減の男の顔。左頬に刀傷がある、ざんばら頭の美丈夫。
でも。だけど。
「……これは白羅じゃない。白羅はこんな顔をしていない」
ポタリポタリと和紙の上に涙が落ちて、墨を薄く滲ませる。
漣は白羅を描けなくなった。描き上げたと思った瞬間、よく似た他人としか思えなくなるのだ。
「ふうっ……ひっく……」
箍が外れたように、涙がポロポロとこぼれ出る。
記憶に残る白羅を絵にできないのは、顔をよく思い出せないからだ。まぐわっている間の吐息や体温、激しい抽挿や肉棒の熱さは覚えているのに。
「なんで、どうして、白羅だけ描けないんだよ……」
うわああん、と子供のように泣きじゃくり、漣はその場に突っ伏した。
絵師の父を見て育ったせいか、はたまた元からの能力かは不明だが、漣は見たままを絵に描くことができた。だから焔禅の正確な顔を描けた。それゆえに白羅の手足として仲間に入れてもらえた。
白羅が所属していた名も無き組織は、普通なら目撃者を殺すらしい。
最初の頃に面倒を見てくれた夜鷹の女が「本当に珍しいことだよ」と驚いていた。特に、現場で白羅の顔を見た者は問答無用で殺すのだとも教えてもらった。
「まあ、目撃者を仕留めるのは焔禅もなんだよねえ……アイツの仲間ですら、頭巾を被った姿でしか会ったことがないって言うし」
だからどれだけ配下を捕まえて拷問しようが尋問しようが焔禅の顔が分からず、霧を掴むみたいな話しか出てこなかったのさ、と夜鷹の女は語った。
「だけど、漣のおかげで、あの腐れ坊主を捕えることができそうだね」
ふふふ、と嬉しそうに夜鷹の女は笑った。その狂気じみた笑顔から、彼女が焔禅を憎んでいることに漣は気づいた。おそらく、自分と同じように、大事な者を殺されたのだろう。
それは突然やってきた。
いつものように昼すぎから白羅に抱かれ、激しく抽挿されて後ろ孔がドロドロになるまで交わった日のことだ。
互いに絡め合い強く吸い続けた舌はビリビリと痺れ、声が枯れるまで喘ぎ、日が暮れるまで睦み合っていた。そのせいか、淫欲を存分に満たした後の漣は、湯浴みをして身体を清める気力すら失せてしまい、白羅に抱き締められたまま熟睡していた。
闇の中、隣に寝ていた白羅がムクリと起き上がったので、漣は否応なしに目が覚めた。
「お前はここにいろ」
低い嗄れ声が頭から降ってくる。布団の中から見上げると、能面のような顔が漣を見ていた。
「……うん」
何か嫌なことが起きていて、これからもっと恐ろしいことになる。そんな予感がした。
漣は頷くと、掛け布団を頭にかぶって縮こまった。先刻まで互いに出し合った精液の匂いが鼻腔をくすぐる。夢でも見ているのかと漣は思ったが、敷布団で擦れた乳首の甘い痛みに、これは現実なのだと気付かされた。
ドゴオッ! バキイィッ!!
白羅が廊下に出てすぐ、人が蹴られて壁にぶつかる音がした。
「……さまー! 起きている者がいまし……ギャアアアーッ!!」
グワッシャアァーーンッ!!
襖や障子を壊す衝撃と同時に、人の絶叫が響き渡った。ときどき経文を唱える声も聞こえていたが、途中からすべて断末魔の叫びへと変わった。
漣は身体を震わせながら、この部屋に誰も来ませんようにと願った。そして自分が素っ裸でいることに気づいて赤面し、脱ぎ捨てていた着物を布団の中に引っぱり込んだ。
もぞもぞと着替えを終えた頃に、屋敷の中が静まり返った。なんとなく、どういう状況か察せられる。やがてガタガタと襖が動いた。誰か入ってくる。漣は息を殺して様子を伺った。
「…………れん……」
白羅の声だ。戻ってきた!
漣は布団から出て起き上がったものの、言葉を失った。
目の前に立つ白羅は全身が血まみれだった。文字通り頭のてっぺんから足の先まで返り血を浴びており、着物の裾から鮮血が滴って足元に血の池を作っている。
「……目……血が……ぜんぜん見えねえ……」
嗄れ声の白羅がゴシゴシと目をこすろうとしたので、慌てて漣はそれを止めた。
「い、井戸に行こう。水で洗わないと」
屋敷には自分たち以外に生きている者はいないだろう。それは直感だった。
最初に見たのは、頭の潰れた男の死体。次に手足と首が捻じ曲げられて息絶えた僧侶。二人とも、着物の裾に灰色の炎が描かれている。
血まみれの白羅を連れた漣は、奥座敷のあちこちで死体を見た。
開いた襖の奥から、血塗れた布団に横たわる夜鷹の女の死顔も見えた。そして、廊下のあちこちに転がる、凄まじい悪臭を放つ大量の臓物と肉の塊。かつては人の形をしていたものだろう。
使用人たちが寝泊まりする大部屋はもっと酷い流血の惨事だった。
寝ているところを刺されて死んだ使用人と、白羅に斬られて死んだ僧侶たち。血しぶきが天井まで跳ね返り、襖も障子も真っ赤だった。そのうえ臓物や糞尿が布団の上に散らばっていて激臭を放っている。
漣がその場で吐かなかったのも、気を失わなかったのも奇跡としか思えない。
「……は、白羅、井戸に着いたよ。い、いま水を……」
満月が近いのか、外が明るかったおかげで、漣は白羅を連れて裏庭にある井戸までなんとか辿り着いた。
バシャーンと音を立てて、落とした釣瓶が井戸の底に沈む。
漣は今更ながらに全身が震え出した。桶を引き上げようとするが、手に力が入らず、何度も落としてしまう。バシャ、バシャン、バシャーン……四度目でようやく水の入った桶を引き上げることができた。でも漣の手は震えたままだ。
「洗い流せ」
漣の頭の上から、重い声が落ちてきた。
「……?」
桶を持ったまま見上げたところ、この屋敷の主でもある、身なりの良い侍がいた。井戸の向かい側から腕を伸ばし、水桶を上げる綱を掴んでいる。漣が桶を引き上げるのを手伝ってくれたのだろう。
「白羅はどうなっている?」
「え?」
どういう意味? 漣は井戸のほとりで座り込んでいる白羅を見た。意識が朦朧としているのか、目を閉じてブツブツと小声で何か呟いている。
「……水をかけろ」
「はいっ!」
白羅の頭の上に、ゆっくりと水をかけた。血や臓物の欠片が流れていく。漣は何度も水を汲み、白羅の全身を洗い流した。井戸の周辺が水浸しになり、生臭い臭いが満ちている。遠くから狼か犬の遠吠えが聞こえてきた。遅かれ早かれここへ来るだろう。
「着物を取ってこい。着替えさせろ」
身なりの良い侍が低く重い声で命令した。ビクッと身体を硬直させた漣は、おずおず頷いてから奥座敷へ向けて走り出した。
(何があったんだろう?)
皆が寝静まった頃に襲撃されたとしか思えない。屋敷の人間は布団の中で死んでいたのだから。しかも、ちらりと見ただけだが、廊下の奥には用心棒の首が転がっていた。白羅ほどではないが、かなりの手練だと噂の男だったのに。
(あの人まで殺されたなんて……もしかしたら、食事に毒が入れられていたとか)
漣と白羅は昼から長時間まぐわった末に事切れたので、その日の夕餉は食べていない。
(でも、誰が? 前に来た与力の仲間?)
よく分からなかった。白羅たちが暗殺者なのは知っている。だから仇討ちで襲撃されたとしてもおかしくない。しかし漣は、今夜の襲撃はまた異なる理由があるような気がした。
(皆を襲ったのは、お坊さんばかりだったし……)
襲撃犯はみな剃髪していた。そして着物の裾には灰色の炎。
「あっ……!」
ゾクリと肌が粟立ち、漣は立ち止まった。
(むかし父さんを殺した連中……焔禅の仲間?)
もしかして、焔禅もこの屋敷へ来ていたのか?
奥座敷に着いた漣は、無傷だった裏口から入った。自分と白羅の部屋へそっと戻り、箪笥から白羅の着物と帯、それに下帯や手ぬぐいを取り出す。
「……草履は……どうしよう……」
再び血腥い廊下を抜けて玄関まで行きたくはない。幸運なことに、裏口の横に使用人が脱ぎ捨てた草履が残っていた。当座はそれでいいだろうと手に持ち、井戸に戻る。
「白羅、着物を……」
駆け寄りながら声をかけようとして、漣は口を噤んだ。身なりの良い侍が、井戸の横でぐったり座り込んでいる白羅の横にしゃがみ、耳元で何かを囁いていたからだ。
立ち止まった漣に気づいたのか、身なりの良い侍はすぐに立ち上がる。
「着替えさせたら、その馬に乗れ。行き先は白羅が知っている」
いつの間に来たのか、一頭の馬が近くで草を食んでいた。
「わ、わかりました」
ようやくそれだけ言うと、漣は白羅に近づいて立たせ、血塗れた着物を脱がせた。井戸まで連れてきた時、酷く身体が冷たくなっていると思ったが、水をかけたせいで悪化した。これでは凍死してしまう。
とりあえず、持ってきた手ぬぐいで身体を拭き、新しい長着を肩に羽織らせたものの、次はどうしよう。
偉い人に見られている状況で下帯を替えるのは気が引ける。でも、血で汚れた褌なんて白羅も嫌だよな……。ビクビクしながら褌を緩める。
(うっ……改めて見ると白羅のってやっぱり大きい……)
これが自分の尻に入るのか、と改めて驚いてしまった。だらんと力を無くしている状態でこれなのだから、勃っている時はさぞかし……いつも無我夢中でしゃぶったり嵌めたりしていたので気にならなかったが、なかなかどうして。
「早くしろ」
ぴゃっ、と漣は小さく声を上げた。そうだった。白羅の男根に見惚れている暇はない。だいたい、今はそんなことに気を取られてはいけないのだ。
「は、はい」
焦りながら返事をする。いつも脱がせられる側だったので、逆は慣れない。ちらりと白羅の様子を伺うと、目を瞑ったままウトウトしていた。立ったまま寝るなんて器用だな……と思いつつ、なんとか褌を締め、長着の帯を結んでいたところ、身なりの良い侍が嘆息した。
「懐いたな」
「え?」
「……いや、こちらのことだ」
驚いて振り返った漣に向かい、なんでもないと手を振った侍は、早く行けと促した。
「は、白羅、行くよ。馬に乗れる?」
「……うう……」
ヨロヨロしている白羅の腰を支え、漣は馬がいる方向へ歩き出した。
その時。
グオオッ!!
爆音と共に火の手が上がった。表座敷が燃えている。
「じきにここも燃える。急げ」
身なりの良い侍が、太く重い声で告げた。白羅はまだふらふらしていたものの、難なく馬の背に乗った。
「お前も乗れ」
侍が命令する。
「えっ?」
おれは馬になんて乗ったことないよ! と驚いているうちに、ヒョイと腕を捕まれる。気づいたら、白羅の前にちょこんと座っていた。
「もう目は平気な……の……!?」
身体をひねって見上げた漣は、白羅の目が開いているものの、意識は戻っていないことに気づき瞠目した。
「白羅? 大丈夫?」
「ヒヒン!」
馬が走り出す。放心して目がうつろな白羅だが、危なげなく手綱を握っている。大丈夫だろうか……と困惑するうちに、漣の後ろから再び大きな音がした。
バキィーン! ゴワアアッ!!
振り返れば、今度は奥座敷が燃え上がっている。闇空で煌々と光る月へ向かい、禍々しいほどの熱と炎、どす黒い煙が湧き上がっていた。
(あの人は、いったい……)
身なりの良い侍が背中を向けて立ち去る姿が小さくなるまで、漣は馬上から振り返って眺め続けた。
月の光を頼りに江戸の郊外まで走った馬は、小さな家の前でようやく足を止めた。白羅は相変わらず放心したかのような顔つきだったが、途中で手綱を放すことは無かった。
空が白み、灰青色の雲が風に流れている。
ザワザワと北風が梢を揺らす中、漣は馬から下りて周囲をざっと見回した。近くに農家が点在しているようだ。
(朝早く起きた人に見られたらまずいよな、きっと……)
漣は白羅を連れて小さな家の中へ入った。玄関は開いており、すぐそばに畳敷きの狭い座敷があった。もつれるように倒れ込み、ようやく息をつく。
「白羅、少しここで休もう」
漣は疲れていた。寝不足だったし、食事も取っていない。恐ろしい経験をした上に、慣れない馬移動でクタクタだった。だから、白羅の変化に気づけなかった。
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