4 / 5
第一部 過去の罪
残酷な命令
しおりを挟む
美夜子の夜泣きがとまらない。
また家の者たちに小言を言われると恐れた歌子は、泣き続ける我が子を抱き上げては揺すり、あやしていた。が、それでも娘はいっこうに泣き止まなかった。
時刻は午前三時。かれこれ一時間以上こんな状態が続いている。
「ああ、美夜子、お願いだから泣かないでちょうだい」
祈るように呟き、歌子は言葉を理解することのできない幼子に何度も言い聞かせた。
どうすることもできず困りはてた歌子の耳に、ぎしりと廊下の床板を踏みしめる音が聞こえた。誰かがこちらに向かってやってくる足音だ。
美夜子の泣き声を咎めにやってきたタヱか。眠れないと文句を言いに来た夫か。嫌味を言いに来た愛人たちか。
「ああ、どうしたらいいの」
足音は部屋の前で止まった。障子が開いた。戸口には今まで見たこともない厳しい顔をした徳重が立っていた。さらに、德重の背後に下男の姿も。
「す、すみません。すぐに泣き止ませますから」
おろおろしながら娘をあやす歌子から視線をそらさず、德重は軽く顎をしゃくった。それを合図に下男がすいっと歌子の部屋に入ってきた。
怯える歌子を前にして、下男は困惑した様子で德重を再び見る。
德重はたった一言、やれ、と言い下男を促す。
下男は申し訳なさそうに歌子の元に歩み寄ると、いまだ泣き止まない幼子を奪おうと手を伸ばしてきた。咄嗟に、歌子は我が子を庇うように抱きしめる。
「何をするの!」
歌子の鋭い悲鳴に下男は一瞬怯んだ。しかし、当主の命令は絶対と思い直し、再び歌子の手から美夜子を奪い取ろうとした。
「申し訳ございません、歌子奥さま」
本当に申し訳なさそうな声を落とし、下男は歌子から半ば強引に幼子を取り上げた。
「何をするの。美夜子をどうするつもり!」
歌子は下男の手から我が子を取り返そうとする。
歌子が悲鳴をあげたと同時に、美夜子もさらに声を張り上げて泣き出した。甲高い子どもの泣き声がきんと耳に響く。德重は不快そうに右耳に手を当てた。
「さっさと連れて行け!」
德重の一喝に、下男は頭を下げ、逃げるように部屋から去って行った。
「待って、美夜子を返して! 美夜子、美夜子!」
下男の後を追いかけようとした歌子は、足をもつれさせ前のめりに転ぶ。
「德重さん、これはどういうことなんですか。美夜子をどうするの?」
床を這いつくばり、歌子は德重の足元にすがりつく。德重は冷めた目で歌子を見下ろした。泣きながら娘を返してと懇願する歌子を、德重は足で蹴って払う。
「おまえが悪い。おまえが忌むべき子を産むから」
背を向け部屋から出て行く德重の背に、歌子は美夜子を返してと泣き叫んだ。
この出来事を、一部始終、物陰から覗いていた人物がいた。
德重の幼なじみで愛人の、吾妻加代だ。
部屋にいない德重を探して屋敷を歩いていた加代は、歌子の部屋から叫び声が聞こえ、駆けつけ様子を窺っていたのだ。
「ずいぶんとおもしろいことになってるじゃない」
加代は口の端をつり上げて笑う。
歌子の娘が下男に連れて行かれるのを見て、加代も慌ててその後を追った。
美夜子を抱きかかえた下男は、そのまま德重の部屋に連れてこられた。
「旦那さま……いったい」
この子をどうするおつもりですか、と問いかけようとして慌てて口を噤む。
この屋敷では、当主とタヱの言葉は絶対だ。自分ごとき使用人が意見を述べ、疑問を口にすることは許されない。
腕の中にいる幼子は泣き止まず、激しく身を動かしぐずり始めた。暴れる子の扱いに戸惑いつつ、下男は上目遣いで德重の指示を待つ。
「その娘は生まれながらにして病弱で、長く生きられなかった」
何を言われたのかわからず、下男はへえ、と間の抜けた返事をする。
言われた意味をよく考えてから、ようやく德重の言わんとしていることを察した下男は、目を見開き口をあわあわとさせた。
「そ、そ、それは、まさか」
腕の中で泣きながら身をよじらせる幼子と、德重を交互に見やり下男は顔を強ばらせる。 德重は美夜子を始末しろと言っているのだ。
「それだけは勘弁してくだせえ! こんな小さな子を殺すなんて俺には無理です」
美夜子がさらに火がついたように泣きわめく。言葉を理解できなくても、本能で己の身の危険を感じているのか。
「さっさとやれ。これは命令だ」
「勘弁してくだせえ。たとえ命令でも、それだけは無理です!」
下男は涙目になりながら、できないと首を振る。
「末期ガンの母親がいると聞いたぞ。医者から見放されたらしいじゃないか。母親が最期の時を迎えるまで穏やかに暮らせるよう、取り計らおう」
「それでも無理ですだ!」
頑なに命令を拒む下男に、とうとう德重は切れた。
「役立たずが! ならば、おまえは必要ない。さっさと屋敷から出て行け。いいな? 村のどこへ行っても働けないようにしてやる! 娘をよこせ、俺がやる」
「ひいっ! だめです旦那さま。それだけはだめです!」
抵抗する下男の腕から、德重はひったくるように我が子を奪いとる。幼子の細い首を両手で締め上げ、德重は高々と持ち上げた。美夜子の両手両足がぶらりと垂れ下がる。
「ふぐっふぐっ」
美夜子の顔がみるみる真っ赤になっていく。唇からもれるのは泣き声ではなく苦しげに呻く声。口の端からよだれが垂れ落ち、目を白黒とさせていた。
「ひーっ! だ、旦那さま、なんてことを!」
当主が我が子の首を絞めている。
信じがたい光景に下男は腰を抜かし、その場で両足をばたばたさせた。
「由緒ある四ヶ所の家に障がいのある子は必要ない。屋敷の体面を汚してはならない。おまえは産まれてきてはいけない子だった」
美夜子の呻き声が途切れ途切れになりかけたその時であった。
また家の者たちに小言を言われると恐れた歌子は、泣き続ける我が子を抱き上げては揺すり、あやしていた。が、それでも娘はいっこうに泣き止まなかった。
時刻は午前三時。かれこれ一時間以上こんな状態が続いている。
「ああ、美夜子、お願いだから泣かないでちょうだい」
祈るように呟き、歌子は言葉を理解することのできない幼子に何度も言い聞かせた。
どうすることもできず困りはてた歌子の耳に、ぎしりと廊下の床板を踏みしめる音が聞こえた。誰かがこちらに向かってやってくる足音だ。
美夜子の泣き声を咎めにやってきたタヱか。眠れないと文句を言いに来た夫か。嫌味を言いに来た愛人たちか。
「ああ、どうしたらいいの」
足音は部屋の前で止まった。障子が開いた。戸口には今まで見たこともない厳しい顔をした徳重が立っていた。さらに、德重の背後に下男の姿も。
「す、すみません。すぐに泣き止ませますから」
おろおろしながら娘をあやす歌子から視線をそらさず、德重は軽く顎をしゃくった。それを合図に下男がすいっと歌子の部屋に入ってきた。
怯える歌子を前にして、下男は困惑した様子で德重を再び見る。
德重はたった一言、やれ、と言い下男を促す。
下男は申し訳なさそうに歌子の元に歩み寄ると、いまだ泣き止まない幼子を奪おうと手を伸ばしてきた。咄嗟に、歌子は我が子を庇うように抱きしめる。
「何をするの!」
歌子の鋭い悲鳴に下男は一瞬怯んだ。しかし、当主の命令は絶対と思い直し、再び歌子の手から美夜子を奪い取ろうとした。
「申し訳ございません、歌子奥さま」
本当に申し訳なさそうな声を落とし、下男は歌子から半ば強引に幼子を取り上げた。
「何をするの。美夜子をどうするつもり!」
歌子は下男の手から我が子を取り返そうとする。
歌子が悲鳴をあげたと同時に、美夜子もさらに声を張り上げて泣き出した。甲高い子どもの泣き声がきんと耳に響く。德重は不快そうに右耳に手を当てた。
「さっさと連れて行け!」
德重の一喝に、下男は頭を下げ、逃げるように部屋から去って行った。
「待って、美夜子を返して! 美夜子、美夜子!」
下男の後を追いかけようとした歌子は、足をもつれさせ前のめりに転ぶ。
「德重さん、これはどういうことなんですか。美夜子をどうするの?」
床を這いつくばり、歌子は德重の足元にすがりつく。德重は冷めた目で歌子を見下ろした。泣きながら娘を返してと懇願する歌子を、德重は足で蹴って払う。
「おまえが悪い。おまえが忌むべき子を産むから」
背を向け部屋から出て行く德重の背に、歌子は美夜子を返してと泣き叫んだ。
この出来事を、一部始終、物陰から覗いていた人物がいた。
德重の幼なじみで愛人の、吾妻加代だ。
部屋にいない德重を探して屋敷を歩いていた加代は、歌子の部屋から叫び声が聞こえ、駆けつけ様子を窺っていたのだ。
「ずいぶんとおもしろいことになってるじゃない」
加代は口の端をつり上げて笑う。
歌子の娘が下男に連れて行かれるのを見て、加代も慌ててその後を追った。
美夜子を抱きかかえた下男は、そのまま德重の部屋に連れてこられた。
「旦那さま……いったい」
この子をどうするおつもりですか、と問いかけようとして慌てて口を噤む。
この屋敷では、当主とタヱの言葉は絶対だ。自分ごとき使用人が意見を述べ、疑問を口にすることは許されない。
腕の中にいる幼子は泣き止まず、激しく身を動かしぐずり始めた。暴れる子の扱いに戸惑いつつ、下男は上目遣いで德重の指示を待つ。
「その娘は生まれながらにして病弱で、長く生きられなかった」
何を言われたのかわからず、下男はへえ、と間の抜けた返事をする。
言われた意味をよく考えてから、ようやく德重の言わんとしていることを察した下男は、目を見開き口をあわあわとさせた。
「そ、そ、それは、まさか」
腕の中で泣きながら身をよじらせる幼子と、德重を交互に見やり下男は顔を強ばらせる。 德重は美夜子を始末しろと言っているのだ。
「それだけは勘弁してくだせえ! こんな小さな子を殺すなんて俺には無理です」
美夜子がさらに火がついたように泣きわめく。言葉を理解できなくても、本能で己の身の危険を感じているのか。
「さっさとやれ。これは命令だ」
「勘弁してくだせえ。たとえ命令でも、それだけは無理です!」
下男は涙目になりながら、できないと首を振る。
「末期ガンの母親がいると聞いたぞ。医者から見放されたらしいじゃないか。母親が最期の時を迎えるまで穏やかに暮らせるよう、取り計らおう」
「それでも無理ですだ!」
頑なに命令を拒む下男に、とうとう德重は切れた。
「役立たずが! ならば、おまえは必要ない。さっさと屋敷から出て行け。いいな? 村のどこへ行っても働けないようにしてやる! 娘をよこせ、俺がやる」
「ひいっ! だめです旦那さま。それだけはだめです!」
抵抗する下男の腕から、德重はひったくるように我が子を奪いとる。幼子の細い首を両手で締め上げ、德重は高々と持ち上げた。美夜子の両手両足がぶらりと垂れ下がる。
「ふぐっふぐっ」
美夜子の顔がみるみる真っ赤になっていく。唇からもれるのは泣き声ではなく苦しげに呻く声。口の端からよだれが垂れ落ち、目を白黒とさせていた。
「ひーっ! だ、旦那さま、なんてことを!」
当主が我が子の首を絞めている。
信じがたい光景に下男は腰を抜かし、その場で両足をばたばたさせた。
「由緒ある四ヶ所の家に障がいのある子は必要ない。屋敷の体面を汚してはならない。おまえは産まれてきてはいけない子だった」
美夜子の呻き声が途切れ途切れになりかけたその時であった。
0
あなたにおすすめの小説
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる