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第一章 冷たき生に、死の花束を――
第2話 間違えた召喚
しおりを挟む眼前に現れた素っ裸の少女は、可愛らしく両腕をばたつかせながら言った。
「誰って、私ですよ! あなたのアーイシャです! お嫁さんの顔まで忘れちゃったんですか?」
僕は軋む身体を誤魔化すように息を整え、どうにか仰向けのまま上体を起こした。
魔力のほとんどを使い果たしてしまったのだろう。今の僕は、生まれたての子鹿のように、情けないほどか弱く、小刻みに全身を震わせている。
泣きたくなるほど惨めだった。
視界も定まらない。
もしかすると、ただ目の焦点が合っていないだけで、本当は見覚えのある顔なのかもしれない。
そう思って、瞼を擦り、改めて少女をまじまじと見つめた。
――さて、何度でも言おうか。
「いや、だから誰だよお!?」
「酷い! あれだけ愛し合ったのに、カイス様のひとでなし! 短小! 包茎! 早漏野郎!」
「どうして罵倒が一貫して僕の下半身に集中するんだ。ていうか、お前こそ誰の旦那と勘違いしてる! 僕の財布より軽い尻で夜を跨いでたら、そりゃ相手の顔も判別つかなくなるだろ!」
「あー、今とんでもないこと言いましたね!? 然るべきところに訴え出て、社会的に終わらせてあげますから。私の旦那様は、生涯カイス様だけだったのに……!」
「旦那様って、そういうプレイの呼び名か? 高額なオムライスに“おいしくなる魔法”でもかけてくれるのか。もういい加減にしてくれ。押しかけデリバリーメイドめ。……これでも見てみろ」
震える腕をどうにか伸ばし、床に散らばったガラス片を拾い上げる。
元は姿見だったはずだが、今では見る影もない。魔術の余波で部屋は荒れ果て、壁も床も、どこか現実感を失った廃墟のようだった。
――これだけのことを、さっきの僕はやったのだ。
ガラス片に映る自分の顔は、思った以上にやつれている。
目の下の影も、乾いた唇も、誤魔化しようがない。
それを、今度は全裸で自称“嫁”を名乗る変態少女へと、無言で突きつけた。
変態少女は、まるで浮気の決定的証拠でも突きつけられたかのように、目を見開き、唇をかすかに震わせた。
次の瞬間、僕の手から乱暴にガラス片を奪い取る。
「おい、そんな持ち方——危ないぞ」
忠告など耳に入らないらしい。
彼女は全裸のまま、身体のあちこちを映し、角度を変え、光に透かすようにして確認する。
握り締めた拍子に、手のひらが切れたのだろう。
指先から赤い雫が落ち、床に小さな染みを作る。
それでも彼女は、痛みすら忘れたように、ただ呆然と呟いた。
「……そっか。
そういう、ことか」
ひとりで結論に辿り着いたように、彼女は小さく息を吐いた。
「勝手に腑に落ちるな」
低く、刃のように言葉を放つ。
「お前は誰だ。場合によっては、僕はお前をあの世に還す。
死霊術は、最愛の人のために振るうものだ。――お前は、その人じゃない」
彼女は一瞬も怯まず、まっすぐに名を告げた。
「私は、アーイシャ・ラフティマ・レジット。
あなたのお嫁さんですよ?」
「……ふざけるなああ!」
喉が裂けるほどの声が、焼け焦げた部屋に反響した。
左手を振り上げ、怒りを形に変える。皮膚の下から、幾何学が滲み出すように魔術紋が浮かび、踏み潰した柑橘のような橙色で脈動を始めた。
紋様は広がり、円環を結び、やがて陣となる。
空気が悲鳴を上げ、温度が跳ね上がる。
息をするたび、喉が灼ける。
僕は、焦熱の言葉を吐いた。
「――灰燼帰さすは、魔人の戯れ。
在るべき者、飲みて奔流せよ。
庭園葬……!」
解き放つ、その瞬間だった。
彼女が、僕の手首を掴んだ。
重心を奪われ、視界が反転し、背が床に落ちる。
——言葉が途切れる。
彼女は、まるでそれが最初から決まっていた手順であるかのように、ためらいなく身を寄せ、自身の唇で僕の唇を塞いだ。
「……!」
詠唱は砕け、魔法陣は音もなく失速する。
残ったのは、焦げた空気と、胸の奥でなお燃え続ける問いだけだった。
あまりに唐突で、思考が追いつかない。
頭の中が、白く塗り潰される。
何を考えている——。
抗議の言葉すら見つからぬまま、彼女はさらに踏み込み、境界を失った感触が意識を乱す。
節操がない。
軽薄だ。
これは愛ではない。売女のそれだ、と僕は必死に断じようとした。
だが、その断罪と同時に。
組み上げられていた魔法陣が、行き場を失った熱を抱えたまま、空気に滲み、輪郭を崩し、居心地の悪さを訴えるようにほどけていく。
最後には、名残の火花すら残さず、溶けるように消え失せた。
……お見苦しいものを、見せてしまい申し訳ない。
場違いな思考が、脳裏をよぎる。
部屋にはまだ、肌を刺すような余熱が漂っている。
ほんの数瞬前まで、僕はこの――死んでいるはずの、正体不明の女を、確かに殺そうとしていたというのに。
今はもう、その意思さえ輪郭を失っていた。
耳に届くのは、決して子どもたちに聞かせてはならない、湿った水音だけ。
時間は、意味を失ったまま、わずかに流れた。
やがて彼女が唇を離す。
互いの間に、名残惜しそうに細い糸が引かれ、それもすぐに切れた。
彼女はその頬に手を当て、陶然とした表情で息を吐く。
まるで――
すべてが、予定調和だったかのように。
「……いやん」
今さらそんな殊勝な声色を作られても、もう遅い。
僕の認識は、すでに一段階目で固定されている。――素っ裸の変態、である。
「お前、何てことをしてくれたんだ。このイカレクソビッチが!」
嘆きにも似た怒声を上げると、彼女はなおも僕の上に跨ったまま、平然と言葉を継いだ。
「【庭園葬送】……カイス様の最高火力魔法ですね」
その名を、彼女は懐かしむように、正確な抑揚で口にした。
「昔、お城に近づいてきた数百人の盗賊を、一度に焼き払ったことがありました。あのとき、カイス様は笑顔で――『今宵は冷える。薪が自らやって来てくれて助かるな』って」
背筋を、冷たいものが走る。
「……お前、どうしてそれを」
「でも駄目ですよ? ここで使ったら、辺り一面、焼け野原です」
彼女は肩をすくめ、冗談めかして続けた。
「あ、でも。一度くらい、身をもって受けてみるのも――アリだったかも、ですけど」
本当に、何者だ、この女は。
アーイシャとの記憶を、正確すぎるほどになぞってくる。
だが外見は違う。声も、仕草も、性格も。
彼女は、もっと静かで、控えめで、笑うときも目を伏せていた――はずだ。
前世で同じ城にいた眷属か。
召喚の歪みで、外形だけが変質したアーイシャか。
それとも――アーイシャの魔力を媒介に、記憶だけを宿してしまった、完全な他人か。
どれであっても、看過できない。
ここで、はっきりさせなければならない。
多少、強引になろうとも。
大丈夫だ。
僕は、強い。
――そう、自分に言い聞かせながら、震える指先に、再び力を集め始めた。
「もう一度だけ聞いてやる」
声は、自分でも驚くほど平坦だった。
怒りも、焦りも、すでに沈殿している。ただ事実を選別するための温度だけが残っていた。
「チャンスは三度も与えない。お前は誰だ。アーイシャか。眷属か。それとも――」
「何度も言ってるじゃないですか」
彼女は肩をすくめ、困ったように笑う。
「私は、あなたのお嫁さんです」
「証明できるか?」
喉の奥で、乾いた音が鳴った。
「僕はな、花園に棲む草食動物よりも臆病で、警戒心が強い」
「どうしてそんな情けないことを、胸を張って言えるんですか」
「僕が誰よりも強いからだ」
その言葉は、虚勢ではない。
疑う力こそが、生き延びてきた理由だった。
「……じゃあ」
彼女は、ほんの一瞬だけ視線を伏せる。
「証明できなければ、どうなさるんですか?」
「お前を、あの世に送り還す」
淡々と告げる。
「死霊術は、また最初から研究すればいい。失敗には、もう慣れている」
「送り還す……」
その復唱は、やけに静かだった。
「三つ数えるまでに答えろ」
僕は魔力を、確実に、指先へと集める。
「それでなければ、次は即死魔術だ。お前は誰だ」
大きく息を吸う。
肺が軋むほどに。
数える。
「三……」
躊躇はない。
「二……」
情は切り捨てた。
「一……!」
――殺す。
もう、決めた。
「死ね――」
「殺せませんよ」
言葉が、空中で凍りついた。
沈黙が降りる。
重く、薄く、逃げ場のない静けさだった。
――今、こいつは何と言った?
いや——
気に留める必要はない。意味を考えるだけ時間の無駄だ。
僕には目的がある。アーイシャを召喚する。それだけの人生だった。
再び、左手を掲げる。
次は焼かない。
一瞬だ。
死霊術師。
命を呼び、命を縛り、命を終わらせる者。
生かすも殺すも、すべてはこの手のひら一つで決まる――それが、僕の真理だった。
左手の甲に、魔術紋が浮かび上がる。
即死魔術特有の、冴え冴えとした柴色。
冷たく、情のない光が広がり、魔法陣を形作る。
その瞬間だった。
パチン――。
指を弾く、あまりにも軽い音。
「……は?」
「残念ですけど」
彼女は微笑んだ。
勝者の笑みでも、嘲りでもない。
ただ、結果を知っている者の表情で。
「おしまいです」
次の瞬間、僕の魔法陣は――
崩れた。
破壊された、というより、
最初から成立していなかったかのように。
鏡に石を投げた時のように。
いや、それよりもずっと容易く。
指先一つ、鳴らしただけで。
――理解が、遅れて追いつく。
「お前……何をした」
声が、思ったより掠れていた。
「あり得ないだろう? 僕の作った魔術だぞ」
「わあ」
少女は楽しそうに目を細める。
「カイス様が動揺してる。すごく貴重です。可愛い」
「戯言を言うな!」
怒鳴り返したつもりだったが、喉が震えた。
「僕がお前を召喚した。僕が主だ。召喚者と被召喚者の力関係を忘れるな!」
「……本当に、忘れてるのはどっちでしょう」
少女は首を傾げる。
「カイス様。私を蘇らせた時、あなたは何を差し出しました?」
「は……?」
「持ちうる魔力。命。その、すべてです」
淡々とした声だった。
事実を読み上げるだけの、感情のない口調。
「今のカイス様に残っている魔力は、死霊術を使う前の……せいぜい一割。いえ、それも甘く見積もって、ですけど」
背筋を、冷たいものが這い上がる。
僕は確かに、投げ打った。
アーイシャと再会するためなら、全てを差し出す覚悟だった。
そして――術は、成功した。
誰を呼び出したのかは分からない。
だが、対価は正しく支払われている。
少女が指先で、ゆっくりと僕の鼻筋をなぞる。
ひやりとした感触。
そして、軽く唇で弾いた。
「カイス様が失った九割の力は、今……私の中にあります」
囁くような声。
「たぶん、一秒もかかりません。今のあなたを殺すくらいなら」
言葉と同時に、胸が強く脈打った。
「あなたの心臓は今、私の手の中にあるんですよ?」
――理解した。
僕は、召喚に成功したのではない。
譲渡したのだ。
力を。
命を。
そして、立場を。
ああ。
僕はきっと、
この世に存在させてはいけないものを、
自分の手で生み落としてしまったのだろう。
この時、初めて――
僕は、他人を恐れた。
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