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見学学1
窒息
手を伸ばすのは、救いを求めているからだろうか。
だが触れているのは空気ではなく、重くまとわりつく水の感触だ。
指先から腕へと、冷たさと鈍い圧が絡みつき、足だけではなく腕までもが引かれているのだと理解する。
水底を踏んでいる感覚はないが、溺れているわけでもない。
ただ、身体の中心だけがゆっくりと沈んでいく。
視界の上に、揺れる明かりがある。水面のようにも見えるし、自分の吐いた泡に遠くからの光が反射しているだけのようにも見える。
距離の感覚が定まらず、手を伸ばせば届きそうな近さと、決して触れられない遠さが同時に存在している。
息を吸うという行為が、異物に感じられる。
肺は動いている。空気も入ってきている。だが、その一連の流れがどこか外部から強いられているようで、自分の内側と繋がっていない。
この状態で息ができていることが不自然で、忌まわしい。呼吸を止める。肺は酸素を求めて痙攣するが、意識の奥底は、ようやくあるべき場所に収まるように静まっていく。
そのとき、上から音が落ちてくる。
乾いた、硬い音だ。靴底が地面を打つような、現実の側に属する不規則で不快な音。
それが水を透して鈍く歪みながら、頭上からゆっくりと降りてくる。
ひとつ、ふたつ、と数えようとするが、音の間隔は一定ではなく、距離も方向もばらばらで、正しく把握できない。
影が差す。
揺れている光の向こう側に、人の輪郭が現れているのが分かる。
はっきりとは見えない。輪郭だけが水面の歪みの中でほどけたり繋がったりを繰り返している。顔の位置にあたる部分だけが不自然に曖昧で、そこだけが欠けているようにも見える。
来たのか、と思う。
同時に、来てほしかった人物ではないと感じる。
いや、そもそも誰にも来てほしくはない。ここに沈むのは、自分だけでいい。
そこにいるはずの存在が、遥か遠くの場所から重なって見えている。
遅い、という感覚が先に立つ。遅いのではない。まだ早いのだと、どこかで理解している。
手を上げようとする。だがやはり腕は動かない。
まとわりつく水が、とっくに自由を奪っている。そのうち、手を上げようとしたこと自体が、自分の意思だったのかどうかも曖昧になっていく。
再び足元に意識が向く。
池には底があるはずだ。
だが見えるのは、ただ暗さだけだ。水の濁りとは違う、深さを持たない闇が足の下に広がっている。その暗さが、ゆっくりとこちらへせり上がってくる。
引かれているのは身体ではない。そのとき、はっきりと分かる。
自分の内側、形を持たない部分だけが、そこへ落ちていく。
その奥に、何かがいる。
暗さの底に、かすかに輪郭が浮かぶ。人の形に似ている。だが、こちらを見ているのではない。もっと上、光の向こうを見上げている。
一瞬だけ、目が合う気がする。
「……」
名前を呼びかける前に、それは崩れる。暗さと一緒に、溶けるように消えていく。
上を見る。
光の向こうにいるはずの影が、わずかに近づいてくる。それでも距離は縮まらない。
近づいているという認識だけがあり、実際の位置は変わっていない。
ここに来させてはいけない。ここは選ばれた者だけが来る場所だ。ここは、父さんと僕だけの場所だ。邪魔をさせるわけにはいかない。
その瞬間、すべての動き止まる。
音が途切れ、光の揺らぎが止まり、頭上にあったはずの気配が、ひと呼吸分だけ空白になる。
すでに闇に溶けたはずの何かの視線だけが残り、他のすべてが引いていく。
それでも、口が動く。
水の中で声を出す感覚がある。だが音になっているのかどうかは分からない。それでも、言葉だけははっきりとしている。
──来るな
その意識が水面の向こうへ届くのか、それとも自分とともに沈んでいくのかは分からない。ただ、暗さはさらに近づいてくる。
痛みが走った。
頬だ。
今まであることすら忘れていた顔の一部に、強い痛みが突き刺さる。
「──さんっ!」
一度ではない。
二度、三度と繰り返されるうちに、痛みは不快さを経て、再び鋭い痛みに戻っていく。
「見学さんっ!」
頬を張られていた。加減などない力で。歯が当たり、唇が切れたのが分かる。
「いた……」
言いかけた瞬間、胸の奥に溜まっていた窒息が喉を押し広げ、猛烈な勢いで込み上げてくる。
血の滲んだ唇を大きく開き、見学は嘔吐した。
吐き出されたのは、黒く巨大な鮒だった。
べちゃりと地面に落ちると、口をぱくぱくと動かしながら、ぬらぬらとした鱗を光らせて身を捩る。そのまま鉄柵の下の隙間をくぐり抜け、池の中へと落ちていった。
「ちょっとは手加減してくれてもええやん……」
見学は、顎まで濡らした胃液を手で拭いながら、涙目でそう言った。
「せやけど、どうやら僕、助けられたみたいやな。ありがとう、ハヤト君」
だが触れているのは空気ではなく、重くまとわりつく水の感触だ。
指先から腕へと、冷たさと鈍い圧が絡みつき、足だけではなく腕までもが引かれているのだと理解する。
水底を踏んでいる感覚はないが、溺れているわけでもない。
ただ、身体の中心だけがゆっくりと沈んでいく。
視界の上に、揺れる明かりがある。水面のようにも見えるし、自分の吐いた泡に遠くからの光が反射しているだけのようにも見える。
距離の感覚が定まらず、手を伸ばせば届きそうな近さと、決して触れられない遠さが同時に存在している。
息を吸うという行為が、異物に感じられる。
肺は動いている。空気も入ってきている。だが、その一連の流れがどこか外部から強いられているようで、自分の内側と繋がっていない。
この状態で息ができていることが不自然で、忌まわしい。呼吸を止める。肺は酸素を求めて痙攣するが、意識の奥底は、ようやくあるべき場所に収まるように静まっていく。
そのとき、上から音が落ちてくる。
乾いた、硬い音だ。靴底が地面を打つような、現実の側に属する不規則で不快な音。
それが水を透して鈍く歪みながら、頭上からゆっくりと降りてくる。
ひとつ、ふたつ、と数えようとするが、音の間隔は一定ではなく、距離も方向もばらばらで、正しく把握できない。
影が差す。
揺れている光の向こう側に、人の輪郭が現れているのが分かる。
はっきりとは見えない。輪郭だけが水面の歪みの中でほどけたり繋がったりを繰り返している。顔の位置にあたる部分だけが不自然に曖昧で、そこだけが欠けているようにも見える。
来たのか、と思う。
同時に、来てほしかった人物ではないと感じる。
いや、そもそも誰にも来てほしくはない。ここに沈むのは、自分だけでいい。
そこにいるはずの存在が、遥か遠くの場所から重なって見えている。
遅い、という感覚が先に立つ。遅いのではない。まだ早いのだと、どこかで理解している。
手を上げようとする。だがやはり腕は動かない。
まとわりつく水が、とっくに自由を奪っている。そのうち、手を上げようとしたこと自体が、自分の意思だったのかどうかも曖昧になっていく。
再び足元に意識が向く。
池には底があるはずだ。
だが見えるのは、ただ暗さだけだ。水の濁りとは違う、深さを持たない闇が足の下に広がっている。その暗さが、ゆっくりとこちらへせり上がってくる。
引かれているのは身体ではない。そのとき、はっきりと分かる。
自分の内側、形を持たない部分だけが、そこへ落ちていく。
その奥に、何かがいる。
暗さの底に、かすかに輪郭が浮かぶ。人の形に似ている。だが、こちらを見ているのではない。もっと上、光の向こうを見上げている。
一瞬だけ、目が合う気がする。
「……」
名前を呼びかける前に、それは崩れる。暗さと一緒に、溶けるように消えていく。
上を見る。
光の向こうにいるはずの影が、わずかに近づいてくる。それでも距離は縮まらない。
近づいているという認識だけがあり、実際の位置は変わっていない。
ここに来させてはいけない。ここは選ばれた者だけが来る場所だ。ここは、父さんと僕だけの場所だ。邪魔をさせるわけにはいかない。
その瞬間、すべての動き止まる。
音が途切れ、光の揺らぎが止まり、頭上にあったはずの気配が、ひと呼吸分だけ空白になる。
すでに闇に溶けたはずの何かの視線だけが残り、他のすべてが引いていく。
それでも、口が動く。
水の中で声を出す感覚がある。だが音になっているのかどうかは分からない。それでも、言葉だけははっきりとしている。
──来るな
その意識が水面の向こうへ届くのか、それとも自分とともに沈んでいくのかは分からない。ただ、暗さはさらに近づいてくる。
痛みが走った。
頬だ。
今まであることすら忘れていた顔の一部に、強い痛みが突き刺さる。
「──さんっ!」
一度ではない。
二度、三度と繰り返されるうちに、痛みは不快さを経て、再び鋭い痛みに戻っていく。
「見学さんっ!」
頬を張られていた。加減などない力で。歯が当たり、唇が切れたのが分かる。
「いた……」
言いかけた瞬間、胸の奥に溜まっていた窒息が喉を押し広げ、猛烈な勢いで込み上げてくる。
血の滲んだ唇を大きく開き、見学は嘔吐した。
吐き出されたのは、黒く巨大な鮒だった。
べちゃりと地面に落ちると、口をぱくぱくと動かしながら、ぬらぬらとした鱗を光らせて身を捩る。そのまま鉄柵の下の隙間をくぐり抜け、池の中へと落ちていった。
「ちょっとは手加減してくれてもええやん……」
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