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窓の外はいつの間にか白んでいた。
さつきが目を覚ますと、新しい痕が付いた白い手首と、ベッドシーツ、窓の外の湖が見えた。
霧がかった外の景色は、ガラス一枚を隔てているだけで別世界のように感じる。
薄暗い曇り空から湖の中心に、大きな白い鳥が舞い降り、波が立った。波紋が広がり、岸まで到達すると消えるのを繰り返す。
暫くすると、小さな鳥がたくさん、小石が次々と落ちるように舞い降りた。そして湖面で不規則に羽ばたき、波をいくつも作る。
さつきはぼんやりとその様子を目に映していた。
「何を見てるの……? 鳥?」
キシ、と音を立てて側に座ったその人は、さつきの視線の先を追って外に顔を向けた。
「波のかたち、が……ひろがって、消えるところ、です」
「ふうん」
ユタはさつきの髪を撫でて、耳にキスを落としてから再び外を見た。薄鼠色のバスローブを羽織ったユタの、少し水分を持った髪からは、良い香りが漂った。
何も話さず、鳥の羽ばたきや水音、木立ちが騒めく音だけが時間を流していく。
ユタの手のひらは、さつきの髪を撫で続けた。
「どうして泣いてるの?」
髪を撫でていた指が、さつきの目尻の滴をすくう。
「わかりません」
「悲しい? 嬉しい?」
ユタの選択肢に、さつきは少しだけ迷ってから答える。
「うれしい、です。……ユタさんが、同じ景色を見ようとしてくれた……こと、が」
自分が何を見て、どう思うかなど、周囲の誰にも影響を及ぼすものではないと思っていた。けれどユタは、さつきの視線の先に何があるのか、気に留めてくれる。同じ景色を見ようとしてくれる。嬉しかった。
この世で自分に本当に好意を持って接してくれるのは、ユタだけ……。そう思いかけて、別の顔が浮かぶ。
いや、もう一人だけ、いた。
さつきが描いたエスキースを好きだと言ってくれた。さつき自身のことも、好きだと言ってくれた人が。
「さつき」
その一人の顔をはっきりと思い浮かべそうになる前に、ユタの低い声に引き戻される。胸の奥でざわめく感情を抱えたまま見上げたユタの表情は、やはり優しかった。
「ナユタの話を聞かせて」
ユタの突然の提案に、さつきは少し驚いた。
ナユタはさつきが高校一年まで飼っていた犬の名前だった。
孤独だったさつきにとって、ユタと出会うまではその犬だけを拠り所にしていて、今も大切な思い出となっている。
「子供の頃、俺も犬を飼っていたんだけど、ボルゾイっていう猟犬だったから運動量が多くて、朝晩の散歩が結構大変だったな。ナユタはラブラドールレトリバーだったかな? 大型犬は、散歩が大変だよね」
ユタが苦笑しながら話すのに、さつきはつられて笑った。
「小さい頃は、力で負けてしまって、散歩の時はよく引きずられてました」
それから、さつきはナユタとの思い出をユタにたくさん話した。
親と一緒の時はお利口にしているのに、自分と二人きりの時はいたずらばかりしていたこと。さつきが落ち込んでいると、尻尾を振りながらそばに座って寄り添ってくれたこと。
ユタはさつきの髪を撫でながら、優しい顔をして話を聞いていた。
「でも、高校に入った年に死んじゃって……すぐにユタさんとあの掲示板で出会って、実は、俺がさみしくないように、ナユタがユタさんに巡り会わせてくれたのかなって思ってたんです。名前が似てたから、だけなんですけど……」
何でも優しく聞いてくれるユタの雰囲気につられて、さつきは心の中で密かに思っていたことをポロリとこぼした。
そしてハッとしてすぐにユタの顔色を窺う。
犬と名前が似ていたユタと出会えたことを、運命的に思っていた、など非科学的な発想は嫌厭されるのではないか。
しかし、ユタはさつきの話を悠然とした笑みを浮かべて聞いていた。
「俺はナユタの代わりになれてたかな?」
その言葉に棘は無かったが、さつきは驚き、慌てて身を起こした。
「か、代わりとかじゃなくて……すみません、ユタさんは、あの時、俺にとって唯一のひと……で……」
「今はどう?」
ベッドに座り込んださつきの右手が引かれ、ユタの頬にあてられた。さつきの視線は自然と手を追っていき、ユタのそれと合う。
ユタの澄んだ瞳とピタリと目が合うと、さつきは緊張で震えた。
ユタは変わらず、ゆったりと微笑んでいた。
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