アビシニアンと狡猾狐

篠原 皐月

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第11話 回避中

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 職場を出て歩き始めた和臣は、携帯電話を取り出して幸恵の番号にかけてみたものの、見事に応答がない事に若干気落ちした風情を見せた。

「やっぱり繋がらないか……」
 そして役に立たなかったそれを元通りしまい込みながら、愚痴っぽく呟く。
「彼女が怒るのも、無理無いがな。まさかあの場面で、あんな風にバレるとは夢にも思っていなかったし」
 しかし深刻な表情で悩んだのはほんの少しの間で、和臣は自嘲的に笑う。

「……まだまだ、未熟者って事だろうな」
 そう呟いた後は素早く意識を切り替え、和臣は最寄駅に向かっていつも通り歩き出した。

「さて、どうするか……。綾乃に手伝って貰う事にしても、他にも口添えして貰わないとな……」
 和臣の中では手伝わせる前提の綾乃が聞いたら「お願いだから、これ以上巻き込まないで!」と悲鳴を上げる事確実の事を考えていると、ふと斜め後方辺りから視線を感じて振り返った。

「……うん?」
(どこからか、見られている?)
 父親が代議士の関係から、昔から散々友好的非友好的問わず、色々な視線を投げかけられてきた和臣は、その手の気配には敏感だった。加えて大学入学に合わせて上京してからは、ガードが堅い地元の兄や妹よりも醜聞を掴みやすいだろうと、父と対立している陣営の息のかかったゴシップ誌の記者に纏わり付かれた経験もあり、それで鍛えられた観察眼と意識を、素早く周囲に走らせる。しかしすぐに不穏な気配は感じ取れなくなった為、和臣は緊張をほぐす様に、軽く息を吐いた。

「……気のせいか。最近は政局も安定しているし、親父の足を引っ張ろうって言う、底抜けの馬鹿か気概のある奴は、一頃と比べると随分減ったみたいだしな」
 自分自身に言い聞かせる様にそう呟いてから、和臣は再度周囲を確認してから、自宅マンションに向かって歩き出した。

 仕事中、事務職の女性が自分の机まで運んできた代物を見た弘樹は思わず眉を寄せ、次いで包装を解いて長方形の箱中身を確認してから深い溜め息を吐いた。
 正直な所、見なかった事にしたかった弘樹だったが、そうも出来ない為に箱を抱えて立ち上がり、部下の席に歩み寄る。

「荒川」
「何でしょう? 係長」
 幸恵が仕事の手を止めて見上げてくると、弘樹は箱からクッキーが詰め合わされた透明なセロファン袋を取り出し、彼女の机に置いた。
「食え」
 そのあまりにも端的な物言いに、幸恵の片方の眉が上がる。

「……意味が分かりません。毒入りですか?」
「どうしてお前に毒を盛らなきゃならないんだ」
 呆れた様に抱えた箱の中を幸恵に見せながら、弘樹は心底嫌そうに告げた。

「和臣さんからこの部署宛てに、送られて来たんだよ。『職場の皆さんで召し上がって下さい』との、俺へのメッセージ付きで。どう考えてもお前に食わせる為に、寄越したんだろう。俺達はおまけだおまけ」
「受け取りを拒否して、送り返せば良いだけの話でしょうが。そんな不愉快な物に、口も手も付けるつもりはありません」
 小分けされた袋を持ち上げて箱に戻し、素っ気なく言い返した幸恵に、弘樹は尚も食い下がった。

「あのな、荒川。和臣さんと何があった? 喧嘩したらしいのは、先週のエレベーターホールでの騒ぎで耳にしてるが」
 綾乃相手に思わず人目のある所で切れてしまった事を思い出し、幸恵は途端に渋面になった。

「喧嘩以前の問題です。とにかく存在自体がムカつくし、姿が視界に入ろうものなら穴を掘って埋めたくなりますし、声を耳にしようものならその口にタバスコとマスタードとわさびを問答無用で投入したくなるんです。もう金輪際、係わり合いになりたくありません」
「本当に、何があった……」
 自分の心情をこれでもかと語ってみせた幸恵だったが、それを聞いた弘樹は真顔で言い聞かせてきた。

「だがな、荒川。いつまでも我を張っていると、後悔するぞ? お前、今までだって気の強さが災いして、何度も男と別れてきただろ?」
「華麗な女性遍歴の持ち主の係長に比べたら、私のそれなんて些細なものです」
「皮肉を言うな。何に腹を立てているかは知らんが、向こうが悪いと思ってるんだから、ここは一つ可愛らしく『私も悪かったわ』とにっこり笑えば一件落着だろ。アラサーなんだし、ちょっとは引く事を覚えろ」
「にっこり……、だぁ? 誰に物言ってんのよ、このお気楽男!」
 そこで幸恵がいきなり椅子から立ち上がり、怖い顔で詰め寄ってきた為、その迫力に押されて弘樹は箱を抱えたまま後退した。

「あ、いや、ちょっと待て、荒川」
「どうして、私が、あいつに、お愛想、振り撒かなきゃ、いけないん、ですかっ!?」
 一語ずつ区切って強調してきたた幸恵に、弘樹は半ば開き直って言い募った。

「だってお前、貴重だぞ? お前の気の強さを物ともせず、悪態吐いても愛想尽かさずに言い寄ってくれる男なんて。加えて稼ぎも良い筈だし、見た目も良いし、実家だってちゃんとしてるし、次男だし、もう文句の付けようが無いだろうが。お前あれを逃したら、一生結婚できないかもしれんぞ?」
 あまりにも直接的な物言いに幸恵は僅かに顔を引き攣らせたが、その怒りを増幅する囁き声が室内のあちこちから伝わってきた。

「そうだよな。夏の懇親会の時にやってきた人だろ?」
「そうそう。噂の君島って子の兄貴で、荒川の従兄弟なんだよな」
「女共が陰できゃあきゃあ言ってて、やかましかったよな~」
「そんなのに言い寄られて、何が不満なんだ?」
 そんな意見を打ち消す様に、幸恵は弘樹に向かって声を張り上げた。

「誰がどう言おうと、私にしてみればあれと遭遇したのは人生最大の汚点です。ええ、消せるものなら、綺麗さっぱり抹消したい位ですから!」
 頑なな態度を崩さない幸恵に、弘樹は「お手上げ」とでも言いそうな顔付きになった。

「分かってたけどお前、相当な頑固者だよな……。本気で嫁き遅れるぞ?」
「そんな心配は無用です」
「どうして?」
「既に星光文具と結婚しています」
「…………」
 真顔でキッパリと言い切った幸恵に、弘樹を初めとして室内全員が黙り込んだ。そして数秒経過してから、弘樹が幸恵から微妙に視線を逸らしつつ、しみじみと呟く。

「……社員としては、天晴れな心意気なんだがな。そこまで女を捨てるなよ」
「人の勝手です。じゃあそれを持って行って下さい。仕事の邪魔です」
「はいはい、仰せのままに」
 手で追い払う真似をした幸恵に、弘樹はそれ以上食い下がるのは諦め、箱を抱えて移動した。そして部下の机に小分けされた袋を配り始めたが、その一部始終を目撃していた同僚達が、声を潜めて囁き合う。

「うわ、駄目だなありゃあ」
「係長、暫く放っておいた方が良いですよ」
「まあ、男と付き合おうが別れようが、これまで荒川は仕事に支障をきたした事は無いしな」
「でも、係長が言うように、今回を逃したら、彼女本当に結婚出来ないんじゃないですか?」
(ゴチャゴチャ五月蝿いわね、全部聞こえてるわよ! って言うか、人の噂話してないで、さっさと仕事しなさいよ!?)
 同僚達の呆れと憐れみが半々に混じった視線を浴びつつ、その日幸恵は苛立ちながら仕事をする羽目になった。

 それから数日後。帰宅しようと社屋ビルを出た所で、幸恵は今度は問題の当人に遭遇した。
「幸恵さん、こんばんは」
「…………」
 愛想良く和臣が声をかけてきたが、幸恵は綾乃が声をかけてきたいつぞやの様に、徹底的に無視を決め込む。

「師走に入って、急に寒くなったね」
「…………」
 無言で家路を辿る幸恵に、和臣も並んで歩きながら、めげずに話し続けた。
「この前の事を謝りたいから、都合が良ければ今日これからちょっと付き合ってくれないかな? 美味しい鍋料理のお店を……」
 そこでいきなり和臣は喋るのと足を止め、ゆっくりと背後を振り返った。

(何だ? 今、誰か……。俺を見ていたか?)
 その様子を、さすがに不審そうに幸恵が眺める。
「……何?」
「いや……、ちょっと」
(俺だけか? しかし彼女も見られたとしたら、色々厄介かも……。確認してみるか?)
 曖昧に頷いて考えを巡らせた和臣に、幸恵は興味を失った様に短く言い捨てて再び歩き出した。

「そう。それじゃあね」
「ちょっと待った!」
 我に返った和臣が慌てて幸恵の腕を捕まえ、車道に向かって歩き出す。それに対して幸恵は怒りの声を上げた。

「何するのよ! 離しなさいよ!」
「良いから。付いて来て」
「ふざけないでよ。何する気!?」
 幸恵の抗議もなんのその、和臣は手を上げてタクシーを拾うと、有無を言わせずそれに幸恵を押し込んだ。そして続けて乗り込んで運転手に指示を出す。

「すみません、取り敢えず真っ直ぐ行って下さい」
「はい」
 客に余計な詮索などしない運転手は、素直に発進させて真っ直ぐ走り始めた。しかし当然幸恵は納得できず、和臣に食ってかかる。

「は? あんた一体、何を考えてるわけ!?」
「静かに!」
「…………」
 背後を振り返って様子を確認していた和臣に鋭く一喝され、幸恵は苛立たしげな顔付きながらも黙り込んだ。

「次の交差点を、左にお願いします」
 そんな気まずい空気の中、和臣は矢継ぎ早に指示を出して角を曲がらせ、普段幸恵が使っている路線の二つ先の駅の出入り口の前に、タクシーを停めさせた。

(付いて来てはいないか? 気のせいにしては……)
 そこで再度後続車を確認しつつ、和臣は神妙に幸恵に頭を下げた。
「ごめん、急に付き合わせて」
「全く、何考えてるのよ! 人を馬鹿にするのもいい加減にしてよね!」
 いきなり連れ回されたと思ったら、電車二駅分のドライブだったと言うオチに、幸恵は完全に腹を立ててタクシーから降り、足早にその場を立ち去って行った。その姿が階段の向こうに消えてから、和臣は真顔で考え込む。

「益々怒らせたな……、だが……」
 懸念が晴れない顔付きの和臣は、運転手に自宅マンションの住所を告げてから、父親の私設秘書である青山に電話をかけ始めた。
「もしもし、青山さん? ちょっと教えて欲しいんだけど、親父のスケジュールって、近々空いてる所はあるかな?」
 旧知の間柄の相手に気安く声をかけると、電話越しに若干戸惑う声が返って来る。

「近々と言うか……。実は今日、これから綾乃さんのマンションに晩ご飯を食べに行く予定になっていますが」
「それは好都合。俺も混ぜてくれるかな?」
 早速食い付いた和臣に、青山が苦笑して釘を刺してきた。

「構いませんが、綾乃さんにはそちらから連絡を入れて下さい。急な人数変更など、作る方には迷惑以外の何物でもありませんから。綾乃さんに恨まれるのは御免です」
「了解。俺から伝えるよ」
 そして満足そうに会話を終わらせた和臣は、続けて妹の番号を選択した。

「タイミングが良かったな。早速綾乃に連絡するか。嫌がられそうだがな」
 その予想に違わず綾乃には嫌な顔をされたが、いつも通り難無く丸め込み、行先を変更してその足で綾乃のマンションに向かった。そして殊勝に綾乃を手伝っているうちに、青山を連れた父親が来訪し、和やかに食事を開始する。
 しかしそんな穏やかな空気は、食事が終了するまでだった。
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