探偵薬師寺美鶴

椎名菖蒲

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ホーリーブルー

情報収集

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7月15日午後5時
 春日部の事務所を後にした美鶴と千歳は恩人の警部に会うため、千代田区にある警視庁のエントランスに入った。
 赤いコートの背の高い女性。美鶴の名声を知っている人間はその顔よりもトレードマークで認知している。自動ドアから現れた彼女を見て警察関係者一同はぎょっとした様子だった。美鶴が受付に向かう途中、彼女と今までに関わった人間は皆「げっ」とか「うわ」とか言って足早に去って行く。
 一体彼女は警察からどう思われているのだろうか、と千歳は不安に思った。
「普段からこうなんですか?」
「失礼だよなぁ?でもいつも以上に避けられてる気がするな・・」
「あー。避けられて・・はいるんですね」千歳の不安は拭えなかった。
 美鶴が受付の女性に訊ねる。美鶴が目の前に立つだけでも威圧感があり、女性の顔は引き攣っていた。
「どうも薬師寺と申します。捜査一課の佐々木警部に会いに来ました。取り次いでもらえますか?」
受付の女性は有名人を相手にたじろぎ震えながらもペンを手にした。
「あっ、アポイントは取れてますか?」
「いいえ。しかし、名前を伝えてくれれば直ぐに解ってくれます」
「しかし、佐々木警部は今立て込んでいると思います」
「んー?・・・そうですか。でも一応お願いできますかね?」
「・・・かしこまりました。結構待つと思いますので、あちらで座ってお待ちください。」
受付の女性は渋々受話器を取った。
 それから30分が経った。
 完全に体から酒が抜けた美鶴に落ち着きはなく、激しい貧乏揺すりが後を絶たない。しかもハイヒールで・・・。エントランスは当然禁煙。二重苦が美鶴を襲う。このままではタイルが割れてしまいそうだ。千歳の方は礼儀正しく座り、その間不動であった。とは言え、美鶴の横の席なので、常に小刻みに震えていた。
 そんな状況だろうが千歳なら後2時間でも待てるぐらいの胆力を持っているのだが、先に口を開いたのは彼だった。
「先生。おかしくないですか?」
「あぁ?」
美鶴がおかしいみたいに聞こえ、彼女は凄んだが、千歳は「先生の事ではなく」と訂正した。訂正することもなかったようだけど。
「・・・あぁ。さっきの受付のことか?まぁ気になるだろう」
 確認もしないうちから、本人が立て込んでいると何故解ったのか。偶然にも既知のことだったのかもしれない。何かを確認する素振りも見せなかった。だが美鶴を追い払うための嘘ではなかった。それは美鶴がよく解っている。エントランスですれ違う警察関係者は美鶴を見たとき、普段以上に気まずそうにしていた。どうしてこんな時に来るんだよ、と言わんばかりの目を向けていた。
「恐らく、佐々木警部だけじゃないんだろう。立て込んでいるのは」
「それってつまり・・・」
「・・・大事件の予感だな。君の予想が当たっていたのかもしれない」と美鶴は小声で言った。
「やっぱり。誘拐事件だったんですね」
「さぁどうだか。なんにしても確認しないとな」
 さらに30分後。
「うわ。本当に来てるよ。・・美鶴ちゃんから来るなんて珍しいこともあるもんだね」
 白髪交じりの少し痩せた男性が美鶴たちの前に現れた。無精髭が目立つ。寝ずに張り込みをしている刑事と言えば、こんな感じの人を連想するだろう。
 佐々木百春ささきももはる。美鶴が恩人と慕う警部だ。
「待たせておいて随分なご挨拶じゃないか。なぁ警部。どこか落ち着ける場所で話せないか?」
美鶴は火の点いてない煙草を咥えた。落ち着ける場所って言うより煙草の吸える場所が正しいだろう。
「ああわかった。だけど今空いてる部屋がないんでな特別なところに案内するよ」
特別なところ?と少し疑問に思いながらも美鶴と千歳は佐々木警部についていく。やはり庁内の雰囲気が悪い。美鶴に向けられる視線が痛かった。
「さっきからなんだよ!もう一回稽古つけてやろうか!おいっ!!」
美鶴が大きな声を出すと蜘蛛の子を散らす勢いで消えていった。佐々木警部はゲラゲラ笑っていた。
 そして警部の案内で取調室に入った。当然のことながら2人とも初めての経験だった。
 美鶴は取調室に入るなり、断りもなく煙草に火を点けた。佐々木警部が苦笑いをすると、美鶴は彼に煙草を咥えさせ、丁寧な手つきで火を点けた。警部は親指と人差し指で煙草を摘み、とても美味そうに煙を吐いた。
「っで。なんでよりによって取調室なんだよ」
「悪いね。因みに君はいつも勝手にぱかぱか吸ってるけど応接室は原則禁煙だよ」
「知らんかったわぁ。取調室万歳。次からここにしよ」
 パイプ椅子に座った佐々木警部はかなり疲れているようで頭を掻き毟った。
「汚ねぇな。風呂入ってねぇのかよ。・・と言うことはそれぐらいデカイ事件を抱えてんのか?」
「・・・まぁね。今、庁舎は大騒ぎだ。俺も抜けるのにやっとだったよ。待たせておいて悪いけど話は手短に頼むよ。・・ところでそちらの少年はどちら様で?」
「今回のクライアントだよ。私は彼のボディガードってやつさ」
「はは!そりゃ頼もしい。うちの人間で君に勝てる奴はいないからな。実質最強のSPだ」
「先生ってそんなに強いのですか?」
「なんだ?知らないで頼んだのか。美鶴ちゃんは高校時代、左腕を骨折した状態で剣道の全国大会で優勝したんだぜ」
「えぇ?まさか」
「本当だよ。家は二刀流の流派。両手に棒を持てば敵無し。暇があったら調べてみるといい」
 佐々木警部は自分のことのように自慢する。
 美鶴は本気で嫌そうな顔をした。
「おい。時間がないんだろう?」
「あぁ悪い悪い。・・・で用とは?」
 美鶴は2本目の煙草に火を点けた。
「単刀直入に訊く。7月7日七夕祭り会場での失踪者。その少女の名前が公開されないのは何故だ?誘拐事件だったから大騒ぎしてるのだろう?ここの様子を見るに対策本部が設立されている筈だ」
「・・・さぁなんのことだろう」
数秒前とは一転して佐々木警部から笑みが消えた。
「惚けんな。私に嘘は通じないことは知っているだろう。こっちはその件でここに来たんだ。被害者の名前と住所、そして犯人の特徴を教えてくれ」
「・・・ダメだ。毎度美鶴ちゃんの嗅覚には驚かされるが、今回の事件は警察の威信に関わる。報道規制までして捜査も慎重なんだよ。美鶴ちゃんに隠し事はできないからここまでは言うけど、今言ったことだって守秘義務に反してるんだぜ」
「はぁ?警察の威信だと?そんなものは5年前に失くなってるよ。もう失踪から1週間は経っている。今すぐにでも動かないと取り返しが付かんことになるぞ」
 佐々木警部は少し考えたようだが、内容は明かしてくれなかった。
「すまない。今回ばかりは君にも教えるわけにはいかないんだ」
 佐々木警部とのやり取りは異質だった。これまでの経験上、美鶴と彼の間柄ならすんなり情報を得られるものだと思っていた。
 美鶴は次の手段に出た。隣に座っている東堂千歳を佐々木警部に紹介した。
「ところで彼の紹介はまだだったな。彼は5年前の被害者遺族だ。今回私にあんたらよりも先にこの事件を解決して欲しいと頼んできてな」
 佐々木警部の表情は固まり、ただ千歳の顔を呆然と見ていた。そしてなんともばつの悪そうな顔をした。沈黙し悩み、言葉を考える。なんて相手を連れて来たんだ、と思っているだろう。
 佐々木警部はその場で千歳に謝罪をした。
「5年前のことは本当に申し訳なかったと思う。我々の失態で君たちの人生を狂わしてしまった。しかし、だからといって特別な扱いはできんのだ」
 美鶴は千歳の肩に手を添えた。
「なぁ千歳。どうするよ?」
千歳が口を開いた。
「あなたのせいではないことは知っています。そして僕たちが卑怯なやり方で情報を強請っているのも承知してます。でも、今なら被害者を助けられるかもしれないんです。だからお願いします。僕たちに少しでもいいので情報をください」
 美鶴より大人な対応だった。そもそも恨んでいる組織にこう立ち振る舞えることが驚きだ。佐々木警部も愕然とし、良心の呵責を感じる。言葉が出ない。沈黙は金と言うがそんなことはなく、ただただ気まずいだけ。吸いもしない煙草の灰が長くなっていく。それが膝に落ちても払いもしない。
 ふざけているのか、美鶴も性格が悪い。新しい煙草を佐々木警部の口に差し込む。
 そして提案に出た。
「なぁおじさん。じゃあ取引をしよう。私達には被害者の実名と住所を教えてくれ。代わりにこれから得る我々の情報をあんたらに提供する。今までの実績を見て貰えば悪い取引じゃないだろう?」
 しかし、今回の佐々木警部の口は固かった。千歳の泣き落としも通用しない。
「・・・こればっかりは私の一存では決められないのだ。せめて大きな手がかりを君が見つけてくれれば話は変わるのだが」
 美鶴はこれだけのやり取りで一つ収穫を得た。
 佐々木警部ですら情報を提供できない異常事態。恐らく、たとえ一つどんなに小さくてもミスを許さない状態なのだろう。
 美鶴は考える。どちらにせよ。明日の調査は野田市ではなく、東堂家に起こった5年前の事件現場、南房総市に行く。今ここで得ようとしている情報がそこで直接役に立つわけではない。
 南房総から野田に直行できるように出発前に十分な情報が欲しかったが致し方ない。
 対策本部があり、警視庁の記者クラブにすら情報を流せない。きっとそこでも大きなドラマが繰り広げられているだろう。記事にできないと言うことは、つまり誘拐事件であり犯人から身代金の要求があった可能性がある。被害者の家族はこう脅されているのだろう。「警察に言ったら殺す」と。
 事実確認がしたいなら美鶴が嘘発見器のようなことができるが、佐々木警部からしてみれば美鶴の想像力に期待しているのかもしれない。
「じゃあおじさん、こうしよう。私たちは5年前の事件を追い、明日から南房総市に行く。そこで以前の犯人に関する情報を掴む。解り次第おじさんにだけ報告をする」それぐらいの猶予はあるよな?と美鶴は付け加えた。
「それも言えん」と佐々木警部は煙草の持ち方を人差し指と中指に変えた。
 美鶴は黙って佐々木警部の目をじっと見た。
「あんたの考えがよく解ったよ。私は携帯を持たないから後になっても連絡つかないぜ。9時に見たいテレビがある。これで失礼させてもらうよ」
 美鶴と千歳は警視庁を後にする。

午後8時
 丸の内の居酒屋『虎杖』
 高級居酒屋とでも言おうか。企業の重役が商談に使うような静謐な佇まい。故に仕事終わりの賑わいなどはない。だから当然浮く。学生服と着古した赤いコートは、流石に。
 しかし、美鶴はここの常連らしいようで、頼んでもいないのに灰皿とビールが出てきた。
 美鶴はメニューを見ないで注文する。内容はポテトサラダ、角煮、唐揚げ、とバランスを考えているとは言えない。
「君も好きなの頼みなよ」と美鶴から渡されたメニューに、彼女が頼んだ品はなかった。そして店主自ら運んで来た時の嫌そうな顔が千歳の印象に残った。
 しかしさすが高級居酒屋。千歳も同じものを頼んだが、とても繊細な味付けである。目の前の煙がなければ、もっと美味しく感じただろう。この女性は煙草を吸っていないと死んでしまうのか?と本気で思ってしまう。おまけにビールを燃料補給かのような速さで飲み干す美鶴の健康を本気で心配した。
 そしてそれ以上の心配と言えばさっきのことだ。
「先生。あの刑事さんと仲違いみたいになってしまいましたけど大丈夫なんですか?恩人だ言ってましたけど?」
「気にしなくていいよ。お互い言いたいことは言えたし」
「え?そんな風には見えませんでしたけど・・・」
「まぁいいんだよ。そんなことより千歳。このことは親御さんに言ってあるのか?」
「このこととは?」
「だから、自分が今ここにいることを親御さんに話しているんだよな?じゃないと捕まっちゃうぜ私」
「母からは了承を得ています。これから行く南房総の家の鍵も預かってます」
「そうか。って父上には話さなかったのか?」
「きっと止められてしまうでしょうから。父は家に帰らないくせに僕に対して過保護なんです」
「ちょっと不安だなぁ」
 あんな事件があったんだ、無理もないだろう。こんな可愛らしい見た目の子がこんな時間に歩いていたら、出来心で誘拐されそうだ。
 無論そんな無神経なことは口が裂けてもいえないが、美鶴としては父親の意見の方が尊重できる。
「じゃああれだけの大金を用意したのはお母さんだね?」
「はいそうです。厳密に言えば僕と母の貯金です。」
 千歳の母親。たしか紗織だったか。なかなか肝の座ったお母さんだ。話からするに母親には胸の内を話しているんだろう。
 人様の家庭環境は知らないが、普通母親の方が心配しないだろうか。知らんけど。
 美鶴は比較対象として昔から嫌いだった母を思い出した。
 厳格な父の後ろに隠れる金魚の糞みないな女。美鶴がこうも粗暴なのはその反面教師的な部分があるのかもしれない。父上がいなくても頑張っていこうと約束した矢先に、後追い自殺をした母。
 一瞬でも思い出すと酒が不味くなった。
 美鶴は腕時計を一瞥すると早々に立ち上がり、ハイヒールに足を通した。
 卓上の料理は半分以上残っていた。
「今日の酒はあまり美味く感じん」
 すぐに食事を止め、千歳も追従した。
「もう帰るのですか?」
「・・・そろそろ職質されそうだからな」
 美鶴は小さなため息を吐いた。そして会計を済ませる。
 お見送りに出た店主がホッとしているところを千歳は見逃さなかった。この人は一体どれだけの人から嫌われているんだろう、と思った。
 美鶴は駅前でタクシーを拾う。浮かれた喧騒の中、二人を乗せたタクシーが静かに走っていく。
 丸の内からタクシーで15分。月島の9階建のセキュリティーマンションに着く。
「てなわけで、明日は南房総市に行く。お母さんに委託の件、一筆お願いしといてくれよ。くれぐれも忘れるんじゃないぞ」
「はい、わかりました。因みに明日はどこに集合すればいいですか?」
「朝8時に月島駅で待ち合わせ。そしてタクシーで行こう。多分それが一番早い」
「うちに泊まっていきます?」
「ませガキが。そうゆうのは5年早ぇよ。気にするな、私は近くのホテルに泊まる」
 エントランスで彼がエレベーターに乗るまで見送り、見えなくなったところで踵を返した。その後改めてマンションを見上げた。
「糞が。いいとこ住んでんな」
 美鶴は静かな駅前を散策し、客の入っていないバーを見つけた。
 ダンディなマスターが一人でシェーカーを振っている。
 好みのタイプだ。
「おーいいね。ここにしよう。・・とその前に」
 美鶴はコンビニでサンゴー缶と煙草を買い、小銭を手に公衆電話に向かう。一気に飲み干した空き缶を灰皿にしてぷかぷかと煙を吐く。
 9時になるタイミングで受話器を取り、記憶にある語呂合わせの番号を押す。
 そして繋がった。しかし相手からの声は聞こえない。10秒待つと受話器越しに2回ノック音が聞こえた。
「・・・今特大の糞をしてるよ」
 美鶴と佐々木警部との品性に欠ける合言葉。
「・・・美鶴ちゃんさっきはすまなかった」
「いや、あのサインでピンときたよ。監視の目があたんだろう?危うく透視鏡を視るところだったよ」
「ナイスだったよ。さすが、俺らの中だね」
 美鶴と佐々木警部は有事の際にだけ暗号やハンドサインを使っている。警部が煙草の持ち方をピースサインに変えた意味は、文字通り被害者に残された時間だ。
「しかし、同時に失望したよ。残り2日しかないのに、まだあんたらは手柄の横取りなんか気にしてんかい。あの少年がそれを知ったら将来はテロリストになっちまうぜ」
「とんでもない依頼を受けたのは君だ。そこは上手くやってくれ」
「もちろんだ。次はいつ連絡できるか判らん。24時間いつでも出れるようにしてくれ」
「それはわかった。だが、いくら君でも被害者の名前も知らんと流石に困るだろう。一度しか言わないからな」
「オーライ」
「柏ことみ7歳の女の子。千葉県柏市の柏に下はひらがなだ。じゃあそっちは頼んだぞ」
「あぁまかせな。だからいい加減休めよ。おじさんになんかあったら泣いちゃうよ私」
 美鶴は受話器を戻した。
 東京の夜空に星はない。そんな暗闇を美鶴は見上げていた。
「しかし東京のホテルはたけぇよな。ま、とりあえず呑み直すか」
 美鶴は今夜も深酒をする。


 第三話「喫茶店から見える景色」に続く

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