25時の喫茶店

迷い人

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2章 那須静香

08.

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 指先に触れる『冬のマシュマロ・ココア ── 割れた声を取り戻す、柔らかな甘さ』の文字。

 もう一度名声を……。

 注文をしようと顔を上げた。
 口元には微笑みを、目元には試しを。

 静香はもう一度考え直す。

 考え直す程度には疑問があった。

 名声、賛美、自由になるお金、親から向けられる視線、平穏だった。だけど……医師になりたいという夢は罪悪感と共に学ぶ機会を放り投げてしまっていた。 夢から視線を背けていた。

 今から勉強して間に合うのか?
 留年を許される環境ではない。

 いや、そもそもこの棘のような錆びのような声を聴いて両親は、私への利用価値を失うだろう。それぐらいは分かる。

『春の花のソーダ ── 新しい未来を告げる、希望の泡』

 希望とは? 私の希望、私の夢ってなんだった?
 目の前に広がるのは、不確かな未来だけ。
 数カ月の間、勉強をサボった時間を取り戻せるだろうか? 日垣との勉強はとても効率がよく、彼がもう一度協力してくれるなら……あり得るかもしれない。 そう思いながら無意識にスマホを探していたが見つからなかった。

 考えて考えて……

 涙があふれてきた。

 私には未来はない。 
 どう考えても未来はなかった。 
 何も無かった。 

 脳裏に過ぎるのは、青い空を飛ぶトンボの姿。

 もう、トンボもいない。 

 そう思った瞬間にただ、懐かしさだけが私の現実となった。 不確定な未来よりも確実だった過去に寄り添いたい。 そう思った。

「黄金の麦ブレンド、お願いします」

 そう頼むと、空気が揺れた。
 歓喜の音が聞こえるように風が吹く。
 懐かしい麦の匂いを含んだ風が撫でる。

 舌打ちをする青嵐と呼ばれた少年。
 薄く笑うルイ。

 どこか安堵したように微笑む、美女と幼女。

「承りました」

 静かに笑みを湛えて答える和装の青年。

 お湯が沸く音、湯が急須に注がれ覚えのある小麦の香りが鼻腔をくすぐる。 それはどこまでも懐かしい爽やかな空と甘く香ばしい麦の香りを思い出した。

「どうぞ」

 差し出されたのは、しっとりとした白餡を練り込んだ生地、内側はアッサリとした枝豆の餡。 すっと細身のフォークが吸い込まれていく。

 美味しそう。

 そう思ったが、食べた事の無いその饅頭に懐かしさを感じるとは思えなかった。 熱いお茶がテーブルに置かれた。

 湯気が立ち上がる。
 その香りの中に、あの日、畑で風に舞った小麦の匂いが確かにあった。
 まだ“私”の声が、世界の一部に混ざっていた頃の——。

 一口大に切った饅頭を口に入れれば、控えめで爽やかな枝豆の風味の餡としっとりとした餡交じりの生地が口に溶けた。 お茶を飲めば口の中で生地と餡が溶けて広がる。 そしてそして……思い出も、共に広がった。

 初めてトンボにあった日。
 最初はただのサーバーだった。
 バージョンアップと共に飛行機の身体を得て一緒に畑を散歩するようになった。 いつ頃からか親から逃げるようにサーバー室にこもり、彼女は畑を管理するための演算を行い、私は勉強をする。

 難しい宿題を尋ねれば、サーバー室のディスプレーが困ったようにノイズが走り、長い思考のあとに答えではなく、答えに導くためのヒントが出された。 それがクイズのように楽しかった。

「トンボは、何になりたかった?」

 そう問えば『お母さん』という文字がディスプレーに書かれた。

「じゃぁ、私のお母さんにさせてあげる!!」

 なまいきな子供だと今なら思う。 それでもトンボはいつも笑っていたように思える。 懐かしい、とても懐かしい思い出が脳裏で映画のように流れていた。

 思い浮かぶのは、打ち据えられた大きなオレンジ色の飛行機。

「……ごめんなさい……」

 流れる涙。

「んっ」

 目の前につきだされるハンカチ。

 涙をぬぐい、顔をあげれば、不貞腐れたままの……ままだけど、どこか雰囲気が柔らかくなった青嵐の姿。

「ありがとう」

 自然にお礼が口から出た。

 涙をぬぐい、それを返そうとしたけれど、そのハンカチには覚えがあった。

「コレ……」

 渡されたハンカチは母の日に渡したトンボへの贈り物の1つ。

「どうして、アンタが!!」

 戸惑いと、八つ当たりにも似た苛立ちが混じって、思わず声を荒げた。 小さな手のひらに乗る小さな飛行機が、扇風機のような音と共に飛んできた。

「わ、た、しの、かわ、いい子」

 小さなスピーカーから聞こえる小さな音に、私は黙りこみ……手を差し出した。 ストンっと風に乗るように舞い降りた飛行機の姿。

「あ、いたかった」

 歓喜、痛み、涙、空気が震える。

「だいじょ、ぶ? わ、たし、がいる」

 必死に音を出す飛行機、たどたどしい言葉、だけど……それが私のトンボなのだと分かった。

 気持ちが溢れ出る。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!!あの時、私が捨てたのは夢じゃなくて——あなたとの未来だった。」

 とめどなく泣いた。
 涙が流れるままに任せた。

 会えた喜びと、彼女を忘れたまま日々を過ごしていた罪悪感。

「い、いの。 私のかわ、いい、しずか。 だい、じな子」

「おねがい……お願いトンボ、一緒に居て!! あなたがいれば、それだけできっと私は大丈夫」

 私は、彼女を心から求めた。
 都合が良い言葉なのは分かる。

「うれしい」

 本当に嬉しそうに空気が震える。
 私は、たぶんきっと、ずっとこの罪悪感を抱いて生きるだろう。

 私はトンボの身体を抱きしめた。
 オモチャのような両手で収まる大きさの飛行機を。



 もし、これが夢だったとしても、私は希望と罪悪感と共に生きて行こう。

 そう決意した。

 麦茶は――もう冷めていた。
 それでも、心はどこまでも温かかった。



「お話があります」

 和装の男がそう言った。
 そして、目の前に差し出された通帳とハンコとカードが1枚。 そして1本の鍵。

「贅沢は出来ないまでも家を出て、大学を卒業するまでの間に必要な額は十分にあるはずです。 もし、あなたが……夢を諦めず、努力を怠らず、大学への入学を決めたなら、必要な手続きは行いましょう」

「あなた、何者? 日垣の……知り合い?」

「――まさか」

 和装の青年がそう言った。

 改めて男を見れば、やっぱり似ているように思えた。

「なにか?」

 青年が柔らかに、穏やかに、微笑みを浮かべた。

 別人?
 私の勘違い?

 そう思うほどに目の前の青年には毒はなかった。



 でも、全てが夢なら……。
 今でも日垣が助けてくれるという思いが見せている夢なのかもしれない。



 風が吹く、
 風が舞う、
 風が躍り、
 風が語る、

 私は風の強さに瞳を閉ざした。

 声が聞こえた。
「……風は、君を許した……」

 許しの言葉だけど、どこか納得いかない青嵐少年の声は、一度の躊躇いの後に続けられた。

「でも、君の記憶はつながった……」

 続くのは、私の王子様ではなかった苦笑交じりのルイの声。

「過去は、君を抱きしめるために選んだ。行くといいよ」

 そして……

「対価には、黄金の麦から芽生えた、優しさと懐かしさに満ちた、この幸福な日々の心の揺らめきでお支払いいただきましょう。 ありがとうございました」

 待って!!

 声に発せず、夢から覚めた。
 開いた瞳が見つめたのは……知らない部屋。

「ここは……どこ?」

 決して豪華ではない、古びた知らない部屋だった。

 部屋には生活に必要なもの一式と、そしてノートパソコン、パソコンにつながった飛行機のオモチャ。

「私はまだ夢を見ているの?」

 ノートパソコンの画面が点滅し文字を打つ。

 どうしたの? 静香? 頭が痛いの? 大丈夫? 私が抱きしめてあげる。

 文字が流れ……私はそのなつかしさに笑った。




 謎は謎。
 夢は夢。
 現実は現実。

 パソコンの画面が光を落とし、
 机の上の飛行機がわずかに羽を震わせた。
 現実の風が、ほんの少し、頬を撫でた気がした。

 どこからどこまで夢か現実かはわからないけれど、それでも古びたワンルームマンションと手に持ったままの鍵は対のものだったし、そこに置かれていた私名義の通帳もハンコもカード、通帳に振り込まれていた金銭は、トンボが一人で畑を維持し収穫物を販売していた代金だった。



 数年後、私は医師になる。

 声はさびついたままだけれど、不思議に誰もが心地よいと言ってくれた。

「母に紹介するわ」

 そう言って飛行機のオモチャを見せる私に、緊張しながら挨拶する恋人も出来た。

「初めまして!! お嬢さんとは将来を見据えた付き合いをさせてもらってます!!」

 今も私の動画を再生する人はいる。
 その収入で両親は生活をしていた。
 だけど、私は遺伝子上の両親と二度と会うつもりはない。 
 私の母はトンボだけなのだから。


 だけど、一つだけ気になる。
 それを考えるたび、机の上のトンボが小さく羽を震わせる。
 ——それだけで、もう十分だった。

 日垣と言う男の存在が、私の中から煙のように消えた。
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