15 / 27
後編
13
しおりを挟む
湖を囲む山裾の別荘地。
季節は秋。
山から吹き降りる風は少し肌に寒い。
ブライト侯爵家の別荘地にたどり着いて10日が経過していた。
居心地が悪いほどに、至れり尽くせりな状態。
何故か例の娼館でマッサージをしていた女性が、使用人として雇われていたし、医療に関わる書籍も大量に置かれ、研究室まで存在している。 流石に研究室を勝手に使う訳にはいかないと思ってはいたけれど、遠慮はいらないと室長から許可を得ている。
そうは言っても、気が引けると言うもの。
研究室を使うようになったのは、迷子になった時……森の中で薬草摘みをしていた子供に出会い、小さな町にたちの悪い病が流行っている事を知った時から。 それからは、退屈に悩む事もなくなり、研究室も使うようになった。
「ジェシカ様。 せっかくの休暇なのですから、もう少しゆっくりとした時間をお過ごしになっては如何ですか?」
「そうねぇ……でも、休暇の過ごし方ってどうすればいいのか……」
治療院に務めてからは研究に明け暮れていたし、学生時代にはアンジェとマーティンの追試や買い物に付き合い日々を過ごしており、自分のためにどう過ごせばよいのか分からなかった。
「だからって、台所にいらっしゃらなくても……」
「私、料理は好きよ。 実験と似ていますもの」
往診先で貰ったリンゴを使ってアップルパイを作る予定だ。
「温度、湿度、リンゴの甘味と酸味……。 そうねぇ……」
オリジナルの計算式を使って材料の量を算出していく。
「本当に、実験のようですね」
ほほほと優しく笑うのは、マーティスの乳母をしていた女性。
「おかしいかしら? これでも仕事の役に立つのよ?」
苦笑交じりの笑みで返せば、優しく温かな声が返される。
「坊ちゃんも同じように言っていたのを、懐かしく思い出しましたの」
「マーティス室長が料理をなさるのですか?」
上位貴族が料理するのも珍しければ、男性が料理するのも珍しい。
「えぇ、今度、是非ご馳走させてください」
背後から心地よくも優しい声が聞こえた。
「室長、どうされたのですか?」
この地に私を送り届け住まいの準備をし、忙しそうに戻って行ったのは10日前。
「慣れない土地でどのように過ごしているのか心配していたのですよ」
台所に入ってこようとするのを、乳母は邪魔をする。
「坊ちゃままで台所に入って来ては、狭苦しくていけません。 せっかくおいでになったのでしたら、ジェシカ様に休暇の過ごし方を教えてさしあげてくださいませ」
室長の乳母は、私の背を押して台所から追い出す。
「私のアップルパイ!!」
「私共が責任を持って焼いておきますわ」
「では、200度の予熱をしてオーブンの内部を温め、200度で15分、180度で30分焼いて下さいませ」
「はいはい、お任せ下さい」
「本当に……「坊ちゃま、ジェシカ様を連れて行ってくださいませ」
背を押され追い出され、そして台所の扉が閉められた。
「もう……」
「元気そうでよかった」
古いレンガの壁の廊下で、笑みを浮かべ合う。 余りにも室長が不似合いで……笑ってしまいそうになる。
「どうかしましたか?」
「いえ、室長が余りにもこういう場に似合わないもので」
ふふふっと笑って見せれば、品の良い布地を使った貴族の当主らしい自分の姿を見返し苦々しく笑うマーティスだったけれど、私を振り返ると同時にフワリと優しい笑みを向けた。
柔らかく、ゆっくりとした……笑み。
「そうでしょうか?」
「えぇ、そうですわ。 室長が料理をされるときも変わらない恰好なのですか?」
「いえ、その時は白衣を着ていますね」
「それでは、実験ですわ」
クスクスとジェシカが笑えば、おやっ?と、室長は目元を緩ませる。
「そんなに変でしょうか?」
「いいえ、室長らしくて良いと思います」
笑みを向ければ、照れたように笑う室長。
「そうですか? ジェシカさんも、エプロン姿がとても可愛らしいですよ。 いつもは、凛々しくて頼りがいがありますけど。 今日のあなたは守って差し上げたくなります」
まっすぐ見つめて言われれば、恥ずかしくてレースの多い可愛い感じのエプロンを外そうとしたところ、手が差し出された。
「室長には、何時だって守っていただいています。 えっと……」
手と顔を交互に見れば、照れたように室長は微笑む。
「お手をどうぞ、お嬢さん」
「……少し、恥ずかしくて」
「ですが、もう何度も迷子になったと伺っていますよ?」
「……なんだか、ご迷惑をおかけしておりますわ」
「いいえ、光栄ですよ」
屋敷の外に出れば、台所よりも寒くて、吹き降りる風にジェシカが身を震わせれば、上着がかけられた。 丈夫で品の良い布地だけれど、肩からかけられた上着は軽かった。
「私は、自分の上着をとってきますわ」
「いいえ、そのまま着ていてください。 日が沈むのは早いですから」
そう言いながら、繋がれた手が軽く引かれた。 軽く前のめりに転びそうになれば、慌てた様子で肩が支えられる。
「すみません」
「いえ、私こそ、ごめんなさい」
見上げた室長の顔は、なぜか赤らんでいて……私も照れてしまう。
「それで、ドチラに?」
「釣りに良いポイントがあるんですよ。 今日は、もう遅いので散歩だけで済ませ。 明日は一緒に釣りをしてみませんか?」
「釣り、ですか?」
「えぇ、経験は?」
「した事はありません」
「そうですか……」
「なんですか? ニコニコして」
「いえ、あなたは何時だって優秀で、私が何かをお教えする事がなかなかありませんから。 こう頼られるだろう事が嬉しいんです」
「そんな事……」
「足元、気を付けて下さいね。 湖に落ちたら大変ですから」
「室長、私は方向感覚に問題があるだけで、足元が怪しい訳ではありませんわ。 アンジェと違って」
「……気になりますか?」
「ぇ、いえ……そう言う訳では……」
「彼女達は、侯爵家の当主夫婦に必要な勉強をしているのですが」
「何か問題でも起こしました?」
長年の癖で、私の責任であるかのように思えてしまう。 そんな私の複雑な心を見透かしたように、室長は優しい笑みを作る。
「問題と言うほどではありませんよ。 酒と薬を欲しがって暴れるので、扉と窓に鉄の格子を嵌めこんだと聞きました。 弟の方は……運動だと言いながら、帰ってこない事が続いたため、屋敷から100m程離れたところで眠りの魔法を発動するように細工がされました」
「……なんだか……大変ですね」
「ジェシカさん」
「なんでしょう? 室長」
「その……仕事ではないので、室長は止めませんか?」
「えっと……でも、義兄様ではなくなりましたし……」
「ティスと呼んで下さい」
「ティス様?」
「できれば、様も無しで……ダメ、ですか?」
落ち込んだクマを連想してしまい、私は……静かに笑ってしまう。
「ティス……様……」
「惜しかったですね」
「仕方がありませんわ。 慣れないんですもの」
「ですが、弟は呼び捨てでしたよね?」
「彼は……」
「特別ですか?」
「いえ……困った方でしたから、特に抵抗もなく」
「なるほど、でしたら……光栄に思うべきなのかもしれませんね」
他愛ない会話が、なぜか甘くて……恥ずかしかった。
季節は秋。
山から吹き降りる風は少し肌に寒い。
ブライト侯爵家の別荘地にたどり着いて10日が経過していた。
居心地が悪いほどに、至れり尽くせりな状態。
何故か例の娼館でマッサージをしていた女性が、使用人として雇われていたし、医療に関わる書籍も大量に置かれ、研究室まで存在している。 流石に研究室を勝手に使う訳にはいかないと思ってはいたけれど、遠慮はいらないと室長から許可を得ている。
そうは言っても、気が引けると言うもの。
研究室を使うようになったのは、迷子になった時……森の中で薬草摘みをしていた子供に出会い、小さな町にたちの悪い病が流行っている事を知った時から。 それからは、退屈に悩む事もなくなり、研究室も使うようになった。
「ジェシカ様。 せっかくの休暇なのですから、もう少しゆっくりとした時間をお過ごしになっては如何ですか?」
「そうねぇ……でも、休暇の過ごし方ってどうすればいいのか……」
治療院に務めてからは研究に明け暮れていたし、学生時代にはアンジェとマーティンの追試や買い物に付き合い日々を過ごしており、自分のためにどう過ごせばよいのか分からなかった。
「だからって、台所にいらっしゃらなくても……」
「私、料理は好きよ。 実験と似ていますもの」
往診先で貰ったリンゴを使ってアップルパイを作る予定だ。
「温度、湿度、リンゴの甘味と酸味……。 そうねぇ……」
オリジナルの計算式を使って材料の量を算出していく。
「本当に、実験のようですね」
ほほほと優しく笑うのは、マーティスの乳母をしていた女性。
「おかしいかしら? これでも仕事の役に立つのよ?」
苦笑交じりの笑みで返せば、優しく温かな声が返される。
「坊ちゃんも同じように言っていたのを、懐かしく思い出しましたの」
「マーティス室長が料理をなさるのですか?」
上位貴族が料理するのも珍しければ、男性が料理するのも珍しい。
「えぇ、今度、是非ご馳走させてください」
背後から心地よくも優しい声が聞こえた。
「室長、どうされたのですか?」
この地に私を送り届け住まいの準備をし、忙しそうに戻って行ったのは10日前。
「慣れない土地でどのように過ごしているのか心配していたのですよ」
台所に入ってこようとするのを、乳母は邪魔をする。
「坊ちゃままで台所に入って来ては、狭苦しくていけません。 せっかくおいでになったのでしたら、ジェシカ様に休暇の過ごし方を教えてさしあげてくださいませ」
室長の乳母は、私の背を押して台所から追い出す。
「私のアップルパイ!!」
「私共が責任を持って焼いておきますわ」
「では、200度の予熱をしてオーブンの内部を温め、200度で15分、180度で30分焼いて下さいませ」
「はいはい、お任せ下さい」
「本当に……「坊ちゃま、ジェシカ様を連れて行ってくださいませ」
背を押され追い出され、そして台所の扉が閉められた。
「もう……」
「元気そうでよかった」
古いレンガの壁の廊下で、笑みを浮かべ合う。 余りにも室長が不似合いで……笑ってしまいそうになる。
「どうかしましたか?」
「いえ、室長が余りにもこういう場に似合わないもので」
ふふふっと笑って見せれば、品の良い布地を使った貴族の当主らしい自分の姿を見返し苦々しく笑うマーティスだったけれど、私を振り返ると同時にフワリと優しい笑みを向けた。
柔らかく、ゆっくりとした……笑み。
「そうでしょうか?」
「えぇ、そうですわ。 室長が料理をされるときも変わらない恰好なのですか?」
「いえ、その時は白衣を着ていますね」
「それでは、実験ですわ」
クスクスとジェシカが笑えば、おやっ?と、室長は目元を緩ませる。
「そんなに変でしょうか?」
「いいえ、室長らしくて良いと思います」
笑みを向ければ、照れたように笑う室長。
「そうですか? ジェシカさんも、エプロン姿がとても可愛らしいですよ。 いつもは、凛々しくて頼りがいがありますけど。 今日のあなたは守って差し上げたくなります」
まっすぐ見つめて言われれば、恥ずかしくてレースの多い可愛い感じのエプロンを外そうとしたところ、手が差し出された。
「室長には、何時だって守っていただいています。 えっと……」
手と顔を交互に見れば、照れたように室長は微笑む。
「お手をどうぞ、お嬢さん」
「……少し、恥ずかしくて」
「ですが、もう何度も迷子になったと伺っていますよ?」
「……なんだか、ご迷惑をおかけしておりますわ」
「いいえ、光栄ですよ」
屋敷の外に出れば、台所よりも寒くて、吹き降りる風にジェシカが身を震わせれば、上着がかけられた。 丈夫で品の良い布地だけれど、肩からかけられた上着は軽かった。
「私は、自分の上着をとってきますわ」
「いいえ、そのまま着ていてください。 日が沈むのは早いですから」
そう言いながら、繋がれた手が軽く引かれた。 軽く前のめりに転びそうになれば、慌てた様子で肩が支えられる。
「すみません」
「いえ、私こそ、ごめんなさい」
見上げた室長の顔は、なぜか赤らんでいて……私も照れてしまう。
「それで、ドチラに?」
「釣りに良いポイントがあるんですよ。 今日は、もう遅いので散歩だけで済ませ。 明日は一緒に釣りをしてみませんか?」
「釣り、ですか?」
「えぇ、経験は?」
「した事はありません」
「そうですか……」
「なんですか? ニコニコして」
「いえ、あなたは何時だって優秀で、私が何かをお教えする事がなかなかありませんから。 こう頼られるだろう事が嬉しいんです」
「そんな事……」
「足元、気を付けて下さいね。 湖に落ちたら大変ですから」
「室長、私は方向感覚に問題があるだけで、足元が怪しい訳ではありませんわ。 アンジェと違って」
「……気になりますか?」
「ぇ、いえ……そう言う訳では……」
「彼女達は、侯爵家の当主夫婦に必要な勉強をしているのですが」
「何か問題でも起こしました?」
長年の癖で、私の責任であるかのように思えてしまう。 そんな私の複雑な心を見透かしたように、室長は優しい笑みを作る。
「問題と言うほどではありませんよ。 酒と薬を欲しがって暴れるので、扉と窓に鉄の格子を嵌めこんだと聞きました。 弟の方は……運動だと言いながら、帰ってこない事が続いたため、屋敷から100m程離れたところで眠りの魔法を発動するように細工がされました」
「……なんだか……大変ですね」
「ジェシカさん」
「なんでしょう? 室長」
「その……仕事ではないので、室長は止めませんか?」
「えっと……でも、義兄様ではなくなりましたし……」
「ティスと呼んで下さい」
「ティス様?」
「できれば、様も無しで……ダメ、ですか?」
落ち込んだクマを連想してしまい、私は……静かに笑ってしまう。
「ティス……様……」
「惜しかったですね」
「仕方がありませんわ。 慣れないんですもの」
「ですが、弟は呼び捨てでしたよね?」
「彼は……」
「特別ですか?」
「いえ……困った方でしたから、特に抵抗もなく」
「なるほど、でしたら……光栄に思うべきなのかもしれませんね」
他愛ない会話が、なぜか甘くて……恥ずかしかった。
応援ありがとうございます!
11
お気に入りに追加
2,826
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる