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蒸空

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第1章 町中華でちゃんぽん

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 本名、鷹村賢斗。
 年齢、二十八歳。
 職業、売れないお笑いピン芸人。
 芸名、鷹村テント。
 趣味、なし。
 特技、なし。

 人生の楽しみは、おいしそうにご飯を食べている人を見て食欲を刺激されながら、自分もおいしいご飯を食べること――。


 透明な冷たい北風が、夕刻の商店街を行きかう人たちの間を吹き抜けていく。
 その中を、鷹村賢斗は白い息を吐きながら歩いている。

 先ほど行われた事務所のネタ見せでまたもスベリ散らかしたので、本当なら意気消沈していなければいけないところだが、鷹村の足取りは意外にも軽かった。
 心なしか口角も上がっている。

(さて、今夜は何を食べようかな……)

 鷹村の心の中はすでに夕食への期待に占拠されていた。

 まだ少し早いが、もうすぐ夕食の時間になろうとしている。ディナータイムが近づいてくると、鷹村はもう他のことはまったく考えられなくなってしまうのだ。
 ネタ見せでスベッたことなど、とっくに心の片隅に追いやられていた。もうはるか遠い昔のことのようだ。

 鷹村賢斗は事務所に所属するピン芸人である。
 芸名は鷹村テント。

 大学を卒業してからお笑い芸能事務所の養成所に入り、卒業後にそのまま事務所所属の芸人になって、芸歴六年目。

 いまだに収入の九九・九パーセントはアルバイトによるものだ。
 これまでの五年間で、お笑いで稼いだギャラをすべて合計しても、一ヶ月のバイト代にも満たない。

 つまり、売れないお笑い芸人ということだ。

 もともと、鷹村はコンビを組んでいた。
 コンビ名は《宙返りキャンプ》。
 相方は石原タープといった。
 もちろん、鷹村テントという芸名も、相方の芸名に合わせてつけたものだ。

 《宙返りキャンプ》というコンビ名は、「日帰りキャンプ」をちょっともじって付けた安直なものだった。

 それもこれも、鷹村が養成所に通っていた当時は、なぜか熟考してセンスのいいコンビ名をつけるのはとてもダサいこととされていた。

 逆に、安直につけたイケていないコンビ名で活躍するほうが、かっこいいというような風潮があったのだ。
 なぜそんなことが流行ったのかはいまだに謎だが、当時はそれが当然のことで、みんな何も疑わずにそう思っていた。

 だから、鷹村の同期は他の期と比べても特別にダサいコンビ名ばかりである。
 《スピノザ説明書》、《シリコンポリゴン》、《アバ・レインボー将軍》、《ベッタラーズ》、《いなめない》、……。

 そんな格好悪いコンビ名の同期の戦友たちは、一組、また一組と消えていった。

 そして、鷹村たちの《宙返りキャンプ》もご多分に漏れず、今年の初めにコンビ解散ということになってしまった。
 相方の石原タープのほうから、申し出があったのだ。

「俺さ……、もう芸人辞めようと思ってる……」

 と、表情のない口調で相方から聞かされたのも、今日のような北風が冷たい日の夕暮れだった。

 そのとき鷹村は、引退を口にした相方に対して何も言えなかった。相方を引き留める言葉が何も出てこなかった。

 その当時も、もちろんお笑いではまったく食えていなかったし、それに石原が付き合い始めたばかりの彼女と真剣に結婚を考えているのを知っていたからだ。

 彼には、彼の進むべき人生がある――。

 その事実が重くのしかかった。

 正直なところ、引き留めたところで成功するかどうかはまったくわからない。
 根拠もなく「辞めるなよ」なんて無責任なことは言えなかった。

 そうしたこともあって、石原タープの芸人引退をもって、お笑いコンビ《宙返りキャンプ》は解散となってしまったのである。

 相方を失い、一時は途方に暮れた鷹村だったが、芸人を辞めることは考えなかった。そもそも、お笑いを諦めた自分が想像できなかった。

 そういうわけで、新しい相方を見つけるまでの間は、とりあえずピン芸人というかたちで活動し続けている――今のところは、そんな状況だ。

 鷹村の芸名は、ピン芸人になってからもコンビのときに使っていた《鷹村テント》のままにした。
 別にキャンプ関連のネタをするわけではないのだが、それなりの年月付き合ってきた名前なので、それなりに愛着がわいていて、改名は考えなかった。

 そうしてピン芸人になって半年以上がたったが、コンビで結果をまったく残せていなかった芸人が、ピンになったからといって急におもしろくなれるわけがない。
 ピン芸人になってからも鳴かず飛ばず。いまだに結果らしい結果は出せてはいない。

 いい加減、緊張感をもって、もっと真剣にお笑いに取り組まなければいけないことは、重々承知している。

 しかし、生来の楽観的な性格と食べることが好きすぎるせいで、メシ時が近づいてくると意識はメシ一色になってしまうのだった。

「ん?」

 鷹村はふと立ち止まって目をつむった。
 食に対して敏感な嗅覚が何か美味そうな香りを捉えたのだ。

 私鉄の駅から住宅街へと伸びている夕方の商店街では、帰宅を急ぐ人たちが足早に通り過ぎていく。
 逆に、駅のほうへ向かっていくのは、これから夜の街に繰り出そうとしている人たちだろう。

「何の匂いだ?」

 鷹村は目をつむったままつぶやいた。
 鼻腔でとらえたかすかな香りを脳内で分析する。
 割り出した香り成分を記憶のデータベースで照合する。

 ピンときた。

「これは、中華まんだ」

 とはいえ、今探しているのは夕食になるものだ。
 中華まんは夕食には少し物足りないだろう。

 貧乏生活をしているとはいえ、夕食を中華まんで済ますほど困窮はしていない。売れないお笑い芸人でも、バイトをしっかり頑張れば人並みの生活はできるのだ。

 幸か不幸か、先月は芸人の仕事がほとんどなかったのでバイト代はたっぷり振り込まれている。

「よし」

 とりあえず、中華まんを夕食前のアペタイザーにすることにした。
 そのとき食べたいものを、財布が許す範囲で食べる――それが、鷹村の生き方だった。

「ふふっ」

 鷹村はおいしいものへの期待に胸を膨らませながら、中華まんの匂いのするほうへ歩み出した。



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