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第32話 「追放。雨の路地裏と、王子」
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【深夜:王都・路地裏】
冷たい雨が、容赦なく私の身体を打ち据えていた。
泥だらけのドレス、裸足の足、そして血の滲む手。
ご主人様の匂いを追いかけ、たどり着いたのは王都の片隅にある薄暗い路地裏だった。
私は、軒下のわずかな雨宿りスペースにうずくまり、左手の指輪を見つめていた。
魔力の供給は止まっている。
かつてあんなに熱かった指輪は、今はただの冷たい銀の輪っかでしかない。
まるで、死んでしまったみたいに。
『全部、嘘です』 『道具のメンテナンスですよ』
ローズマリーさんの冷酷な言葉が、呪いのように頭の中で反響する。
胸が苦しい。
物理的に殴られたほうがマシなくらい、痛い。
「……嘘つき」
私は膝に顔を埋めた。
考えろ、アリア。
ご主人様の言葉を鵜呑みにするな。
本当に道具だと思っているなら、「解雇」なんてしない。
使い潰して、ゴミのように捨てればいいはずだ。
本当にただのメンテナンスだというなら、あんなに悲しそうな顔で、自分の命を削ってまで魔力を注いだりしない。
あの時、私を振り払った手は、震えていた。
あの時、私に向けられた瞳は、泣いていた。
……あんな顔、させたくなかった……。
私の胸に去来したのは、捨てられた怒りではなく、強烈な後悔だった。
私は気づいてしまった。
ローズマリーさんが私を突き放したのは、私が憎いからではない。
私が「不良品」だからでもない。
これから始まる「地獄」から、私を逃がすためだったのだと。
自分は燃え盛る戦場と共に死ぬ覚悟で、私には生きろと言ったのだ。
「……勝手だ。本当に勝手なご主人様だ」
顔を上げた。
雨水か涙か分からない雫を拭う。
勝手に気に入って、勝手に餌付けして、勝手に愛して、最後は勝手に守ろうとする。
そんなの、許せるわけがない。
「誰が逃げるもんですか。……私は『駄犬』ですよ? 『待て』って言われて待てるほど、お利口じゃありません」
私は立ち上がった。
泥を払い、前を見据える。
帰ろう。
あのお節介で、不器用で、誰よりも孤独な主人の元へ。
そして、あの綺麗な横っ面をひっぱたいてでも、「ただいま」と言ってやるのだ。
地獄上等。
あの人がいない天国なんて、私には退屈すぎて死んでしまう。
私は走り出した。
向かう先は、炎と黒煙が上がるアシュトン公爵邸の方角。
◇
私が雨の大通りを駆けていると、前方から一台の豪華な馬車が現れ、道を塞ぐように停止した。
王家の紋章が入った白亜の馬車。
扉が開き、傘を差した従者が降りてくる。
そして、その後ろから現れたのは――。
「……やはり、ここにいたね。僕の銀狼」
第一王子、アルベルトだった。
彼は泥だらけの私を見ても顔色一つ変えず、優雅に微笑んでいる。
綺麗だ。
泥一つない白い服。
整った顔立ち。
でも、なぜだろう。
私の本能が警鐘を鳴らしている。
「乗るといい。ここは寒いだろう?」
私は警戒心を露わにしながら、足を止めた。
「……何の用ですか。私は急いでいるんです」
「アシュトン家へ戻るつもりかい? 無駄だよ。あそこはもうすぐ戦場になる。……いや、もうなっているかな」
アルベルトは私に歩み寄り、自身の着ていた暖かいマントを私の肩にかけた。
上質な布の感触。優しい香水の匂い。
でもそれは、私が求めていた温もりとは違う。
「聞いたよ。解雇されたそうだね。……酷い話だ。君ほどの才覚ある者を、使い捨ての道具のように扱うなんて」
王子の言葉には、計算された同情と、甘い誘惑が含まれていた。
違う。
あの人は私を使い捨てようとしたんじゃない。
私を生かそうとしたんだ。
何も知らないくせに。
「僕なら、君をそんな風には扱わない。君の強さを、美しさを、正当に評価しよう」
アルベルトは私の手を取り、その場で跪いた。
雨の中のプロポーズ。
絵本ならここで「はい」と言う場面だろう。
「アリア。僕の近衛騎士になりなさい。いや、僕の妃になってもいい。……君が望むなら、君の過去を全て消し、新しい名前と、最高の名誉を与えよう。アシュトン家という泥舟から、僕が君を救い出してあげる」
完璧な虚像の提案だった。
――でも。
私の心は、氷のように冷めていた。
「泥舟」?
この男は今、私の大切な「家」を、そう呼んだのか。
私たちが笑い合ったあの食卓を。
私たちが愛し合ったあの場所を。
ローズマリーさんが血を吐いて守ってきたあの場所を。
ふざけるな。
グワシッ!!
「……え?」
アルベルトの笑顔が凍りついた。
私は、王子の胸倉を両手で掴み上げ、強引に引き寄せた。
「……救い出す? 泥舟?」
私は低い声で唸った。
腹の底からマグマのような怒りが湧き上がってくる。
「ふざけるなよ、王子様。……ご主人様を、悪く言うな」
「な、何を……君は捨てられたんだぞ!?」
「捨てられたんじゃない! ご主人様が優しすぎて、不器用すぎるから、私を遠ざけただけだ!」
私は王子を揺さぶった。
周囲の近衛兵たちが剣を抜こうとするが、私の殺気がそれを制する。
「貴方は何も分かってない! ご主人様が、どんな思いで一人で立っていたか! 血を吐きながら、どれだけのものを守ろうとしていたか! 貴方がのうのうとパーティーをしている間、あの人は命を削っていたんだ!」
私の目から、雨とは違う熱い雫が溢れる。
そうだ、私はあの人が好きなんだ。
綺麗なだけの宝石なんていらない。
私は、あの人の傷だらけの魂が愛おしいんだ。
「『道具』扱い? 上等だよ! 私はご主人様の道具だ! ご主人様の犬だ! ……ご主人様以外の首輪なんて、ダイヤモンドで出来てたってクソ食らえだ!」
「き、君は……」
「悪いけど、貴方の提案はお断りです」
私は王子の胸を突き飛ばした。
よろめく王子を見下ろし、私はニカッと笑った。
きっと今の私は、最高に凶悪で、最高に晴れやかな顔をしているはずだ。
「私は泥遊びが好きなの。……安全で退屈な城より、あの方と一緒に地獄に落ちる方が、百倍マシ!」
私は王子に背を向けた。
「マント、返します!」
バサリとマントを脱ぎ捨て、私は再び走り出した。
豪雨の向こう、燃え盛るアシュトン邸の方角へ。
◇
私は走る。
肺が焼けつくほど呼吸をし、泥水を跳ね上げて。
ドレスはボロボロ。足の裏からは血が出ているかもしれない。
でも、心は驚くほど軽かった。
迷いなんてない。
私の帰る場所は、たった一つしかないのだから。
待っててください、ローズマリーさん!
アシュトン邸の方角からは、爆音が響き続けている。
もう「ごっこ遊び」は終わりだ。
ここからは、本物の戦争。
ご主人様が私をクビにしても、知ったことか。
私は勝手に再就職します!
ご主人様が一人で死のうとするなら、私が横で暴れて邪魔してやる!
死なせない。
絶対に死なせない。
ご主人様が私を諦めても、私はご主人様を諦めない。
私の瞳に、公爵邸を包む紅蓮の炎が映り込む。
その炎よりも熱い魂を燃やして、私は愛するご主人様の元へとひた走る。
冷たい雨が、容赦なく私の身体を打ち据えていた。
泥だらけのドレス、裸足の足、そして血の滲む手。
ご主人様の匂いを追いかけ、たどり着いたのは王都の片隅にある薄暗い路地裏だった。
私は、軒下のわずかな雨宿りスペースにうずくまり、左手の指輪を見つめていた。
魔力の供給は止まっている。
かつてあんなに熱かった指輪は、今はただの冷たい銀の輪っかでしかない。
まるで、死んでしまったみたいに。
『全部、嘘です』 『道具のメンテナンスですよ』
ローズマリーさんの冷酷な言葉が、呪いのように頭の中で反響する。
胸が苦しい。
物理的に殴られたほうがマシなくらい、痛い。
「……嘘つき」
私は膝に顔を埋めた。
考えろ、アリア。
ご主人様の言葉を鵜呑みにするな。
本当に道具だと思っているなら、「解雇」なんてしない。
使い潰して、ゴミのように捨てればいいはずだ。
本当にただのメンテナンスだというなら、あんなに悲しそうな顔で、自分の命を削ってまで魔力を注いだりしない。
あの時、私を振り払った手は、震えていた。
あの時、私に向けられた瞳は、泣いていた。
……あんな顔、させたくなかった……。
私の胸に去来したのは、捨てられた怒りではなく、強烈な後悔だった。
私は気づいてしまった。
ローズマリーさんが私を突き放したのは、私が憎いからではない。
私が「不良品」だからでもない。
これから始まる「地獄」から、私を逃がすためだったのだと。
自分は燃え盛る戦場と共に死ぬ覚悟で、私には生きろと言ったのだ。
「……勝手だ。本当に勝手なご主人様だ」
顔を上げた。
雨水か涙か分からない雫を拭う。
勝手に気に入って、勝手に餌付けして、勝手に愛して、最後は勝手に守ろうとする。
そんなの、許せるわけがない。
「誰が逃げるもんですか。……私は『駄犬』ですよ? 『待て』って言われて待てるほど、お利口じゃありません」
私は立ち上がった。
泥を払い、前を見据える。
帰ろう。
あのお節介で、不器用で、誰よりも孤独な主人の元へ。
そして、あの綺麗な横っ面をひっぱたいてでも、「ただいま」と言ってやるのだ。
地獄上等。
あの人がいない天国なんて、私には退屈すぎて死んでしまう。
私は走り出した。
向かう先は、炎と黒煙が上がるアシュトン公爵邸の方角。
◇
私が雨の大通りを駆けていると、前方から一台の豪華な馬車が現れ、道を塞ぐように停止した。
王家の紋章が入った白亜の馬車。
扉が開き、傘を差した従者が降りてくる。
そして、その後ろから現れたのは――。
「……やはり、ここにいたね。僕の銀狼」
第一王子、アルベルトだった。
彼は泥だらけの私を見ても顔色一つ変えず、優雅に微笑んでいる。
綺麗だ。
泥一つない白い服。
整った顔立ち。
でも、なぜだろう。
私の本能が警鐘を鳴らしている。
「乗るといい。ここは寒いだろう?」
私は警戒心を露わにしながら、足を止めた。
「……何の用ですか。私は急いでいるんです」
「アシュトン家へ戻るつもりかい? 無駄だよ。あそこはもうすぐ戦場になる。……いや、もうなっているかな」
アルベルトは私に歩み寄り、自身の着ていた暖かいマントを私の肩にかけた。
上質な布の感触。優しい香水の匂い。
でもそれは、私が求めていた温もりとは違う。
「聞いたよ。解雇されたそうだね。……酷い話だ。君ほどの才覚ある者を、使い捨ての道具のように扱うなんて」
王子の言葉には、計算された同情と、甘い誘惑が含まれていた。
違う。
あの人は私を使い捨てようとしたんじゃない。
私を生かそうとしたんだ。
何も知らないくせに。
「僕なら、君をそんな風には扱わない。君の強さを、美しさを、正当に評価しよう」
アルベルトは私の手を取り、その場で跪いた。
雨の中のプロポーズ。
絵本ならここで「はい」と言う場面だろう。
「アリア。僕の近衛騎士になりなさい。いや、僕の妃になってもいい。……君が望むなら、君の過去を全て消し、新しい名前と、最高の名誉を与えよう。アシュトン家という泥舟から、僕が君を救い出してあげる」
完璧な虚像の提案だった。
――でも。
私の心は、氷のように冷めていた。
「泥舟」?
この男は今、私の大切な「家」を、そう呼んだのか。
私たちが笑い合ったあの食卓を。
私たちが愛し合ったあの場所を。
ローズマリーさんが血を吐いて守ってきたあの場所を。
ふざけるな。
グワシッ!!
「……え?」
アルベルトの笑顔が凍りついた。
私は、王子の胸倉を両手で掴み上げ、強引に引き寄せた。
「……救い出す? 泥舟?」
私は低い声で唸った。
腹の底からマグマのような怒りが湧き上がってくる。
「ふざけるなよ、王子様。……ご主人様を、悪く言うな」
「な、何を……君は捨てられたんだぞ!?」
「捨てられたんじゃない! ご主人様が優しすぎて、不器用すぎるから、私を遠ざけただけだ!」
私は王子を揺さぶった。
周囲の近衛兵たちが剣を抜こうとするが、私の殺気がそれを制する。
「貴方は何も分かってない! ご主人様が、どんな思いで一人で立っていたか! 血を吐きながら、どれだけのものを守ろうとしていたか! 貴方がのうのうとパーティーをしている間、あの人は命を削っていたんだ!」
私の目から、雨とは違う熱い雫が溢れる。
そうだ、私はあの人が好きなんだ。
綺麗なだけの宝石なんていらない。
私は、あの人の傷だらけの魂が愛おしいんだ。
「『道具』扱い? 上等だよ! 私はご主人様の道具だ! ご主人様の犬だ! ……ご主人様以外の首輪なんて、ダイヤモンドで出来てたってクソ食らえだ!」
「き、君は……」
「悪いけど、貴方の提案はお断りです」
私は王子の胸を突き飛ばした。
よろめく王子を見下ろし、私はニカッと笑った。
きっと今の私は、最高に凶悪で、最高に晴れやかな顔をしているはずだ。
「私は泥遊びが好きなの。……安全で退屈な城より、あの方と一緒に地獄に落ちる方が、百倍マシ!」
私は王子に背を向けた。
「マント、返します!」
バサリとマントを脱ぎ捨て、私は再び走り出した。
豪雨の向こう、燃え盛るアシュトン邸の方角へ。
◇
私は走る。
肺が焼けつくほど呼吸をし、泥水を跳ね上げて。
ドレスはボロボロ。足の裏からは血が出ているかもしれない。
でも、心は驚くほど軽かった。
迷いなんてない。
私の帰る場所は、たった一つしかないのだから。
待っててください、ローズマリーさん!
アシュトン邸の方角からは、爆音が響き続けている。
もう「ごっこ遊び」は終わりだ。
ここからは、本物の戦争。
ご主人様が私をクビにしても、知ったことか。
私は勝手に再就職します!
ご主人様が一人で死のうとするなら、私が横で暴れて邪魔してやる!
死なせない。
絶対に死なせない。
ご主人様が私を諦めても、私はご主人様を諦めない。
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