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エピローグ

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◇三峯瞬/城ヶ崎市郊外、城ヶ崎ジョイランド

 城ヶ崎ジョイランドの誇る大観覧車『ゾディアック』のゴンドラがゆっくりとその高度を上げていく。
 ジョイランドのアトラクションが眼下に沈み、東からは夜闇の迫る城ヶ崎市の街並みが、西からは暮れなずむ夕日にきらめく城ヶ崎湾の光景が現れる。
「きれい……」
 ゴンドラの向かいの席でつぶやくのは久瀬倉さんだ。
 久瀬倉さんのつややかな黒髪が夕日を受けて銀色に輝いている。
 白皙の美貌は黄昏色に染まり、わずかに細められた瞳には夕日がそのまま宿っていた。
 君の方が綺麗だよ、なんていう月並みな台詞を思いつき、ぼくはひそかに赤面した。

 あの後――忌み島の鍾乳洞を出たぼくたちは、重大な問題に直面した。
 つまり、帰りの手段がない。
 ぼくらの乗ってきたボート(恒兄から借りたトーイングボート)は諸正の攻撃でエンジンを激しく破損していて、道具もなしに修理できる状態ではなかった。
「じゃあ、あたしの〈魔法〉でひとっ飛び~、かな?」
 美奈恵さんの服は、幸いにして(?)拓真に身体を乗っ取られる前に剥ぎ取られていたので、久瀬倉さんの力で復活した美奈恵さんは、祭壇のそばに投げ出されていた自分の服を着直すだけでよかった。
「馬鹿を言うな。あれだけ〈魔法〉を使った上に、拓真の再封印までしたんだ。そんな長距離移動なんてさせられるわけないだろう」
「ちぇ~。あ、そうだ! 瞬君がわたしとえっちしてくれたら、すぐにでも〈魔法〉が使えるように――」
「ダメっ!」
 と叫んだのは、なんと久瀬倉さんだった。
 久瀬倉さんは和服姿だった。地底湖で贄姫の能力を使って復活したときは裸で、拓真に食われる前に着ていたのは水垢離用の白衣だったが、島に来た時点では和服を着ていたらしい。さすがは旧家のお嬢様というべきか、屋敷での普段着は和服なのだという。紺地に桜を散らした、落ち着いたなかにも華やかさのある柄で、久瀬倉さんにとてもよく似合っている。
「えぇ~? でもぉ、もともと瞬君からは童貞をもらう約束だったんだしぃ」
「そ、そんなのおかしいじゃないですか! そもそも、真琴さんたちに〈万代〉の廃絶を依頼したのはわたし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ですよね!? どうして瞬君から対価をもらうなんて話になってるんですか!」
「う゛……。それはぁ……」
 美奈恵さんがたじろぐ。
「えっ……? 久瀬倉さんが真琴さんたちに依頼っ? ち、ちょっと、どういうことなんですか!?」
「だ、だからぁ……ほら! 春姫ちゃんからの依頼はぁ、〈万代〉の廃絶でぇ、瞬君からの依頼はぁ、春姫ちゃんを助けることでしょぉ? 目的がちがうんだから、別の依頼だよねぇ?」
「真琴さんっ! これはいったいどういうことなんですか!? わたしが〈燦〉に乗っ取られてるからバレないだろうとでも思ったんですかっ!?」
 柳眉を逆立てた久瀬倉さんが真琴さんに詰め寄る。
「い、いや、それはだな……」
 真琴さんが久瀬倉さんに事情を説明する。
 久瀬倉家の別邸にぼくが侵入したこと。
 諸正に殺されそうになったぼくを真琴さんたちが助けたこと。
 そして、久瀬倉さんを助けてほしいと頼むぼくをあきらめさせようとして、依頼の対価について持ち出したこと。
「春姫からの依頼があったから、どちらにせよ忌み島には乗り込む予定だったんだ。だが、それを言ったらおまえはついていくと言い出しかねなかっただろう。事実、おまえは久瀬倉家の別邸に単身乗り込むなんて無茶をしてたんだ。わたしたちチームのリスクを低くするためにも、おまえをあきらめさせることが必要だと思ったんだ」
 が、ぼくはいっこうに引き下がろうとしなかった。
 そこにつけこんだのが美奈恵さんだ。
「だってぇ。瞬君、かわいくってぇ。ちょうど精を取り込まなきゃいけない時期だったし……」
「じ、じゃあ、ぼくは美奈恵さんにあんなことをされなくても……!」
「い、いや、そんな条件でもなければ、おまえを忌み島まで連れてくることはなかった。そういう意味では無駄ではなかったと……」
「……真琴さんって、とことん美奈恵さんに弱いですよね」
「ぐっ」
 言葉につまる真琴さん。
 真琴さんによると、真琴さんはぼくに出会った前日に久瀬倉さんと会って依頼を受諾、あの日別邸にいたのは、久瀬倉さんから秘密裏に〈万代〉に関する文献を借り出すためだったのだという。
 ちなみに、久瀬倉さんが真琴さんたちに呈示した対価は、贄姫としての自らの特異体質だった。真琴さんたちが必要とするときに贄姫としての能力を自由に使ってくれて構わない――という、ぼくに負けず劣らずの身体を張った取り引きだ。
 その対価の一部は先の地底湖での戦いで早速支払うことになった。実際、真琴さんとしては美奈恵さんの鬼が暴走した時の保険として久瀬倉さんの力に惹かれたらしい。
「三峯、君……」
 久瀬倉さんがぼくの服の裾を引いた。
 振り向くと、久瀬倉さんは上目遣いでぼくを見つめてきた。
 その頬が赤く染まっているような気がする。
「今の話、ほんと?」
「今の……って、あ」
 ぼくが後先考えず久瀬倉家の別邸に乗り込んだだとか、美奈恵さんに身体を売る約束で久瀬倉さんの救助を依頼しただとか、考えてみればおそろしく恥ずかしい秘密を、いちばん知られたくない相手に知られてしまったことになる。
 ぼくの頭に急激に血が上った。
「いや、それは、その……」
 しどろもどろになるぼく。
「ホントだよ♪」
「み、美奈恵さん……!」
「いいじゃない♪ かっこよかったよ、瞬君。あたし濡れちゃったぁ」
「そ、そういうことを言わないでください! あと、離れて!」
 後ろから抱きついてくる美奈恵さんを振り払い、久瀬倉さんに向き直る。
「と、とにかく……。久瀬倉さんが無事で、本当によかった」
「三峯君……」
 久瀬倉さんの瞳に涙が溢れた。
 うるんだ瞳が西日を反射して、まるで宝石のように輝いている。
「三峯君っ!」
「わっ……」
 久瀬倉さんがぼくに飛びついてきた。
 ぼくはとっさに久瀬倉さんを抱き留める。
 いつか、マンションの玄関では抱きしめられなかったその華奢な肩に触れる。
 久瀬倉さんは一瞬びくりと肩を震わせたが、すぐに力を抜いた。
 久瀬倉さんが顔を上げる。
 ぼくは久瀬倉さんの肩を抱き寄せながら、久瀬倉さんの唇にぼくの唇を――

「……揃いも揃って馬鹿ばかりか、貴様らは」

 重ねようとした瞬間、剣呑な男の声が割り込んできた。
「諸正ああああッ!!」
「おお、怖い怖い。さっきよりもよほど殺気だった目をしてるじゃねえか」
 諸正が肩をすくめる。
 諸正のタキシードはぼろぼろで、ところどころから浅黒い地肌がのぞいている。白いシャツは血で染まっていない部分の方が少ないくらいだが、露出した肌には血がこびりついているだけで、目立った外傷はないようだった。
「もう動けるのか。化け物じみた回復力だな」
 ぼくも真琴さんも、諸正の忌能については帰り道に美奈恵さんから聞いていた。
「お互い様だろうが。とくにその魔女と来たら……」
 気絶しているとばかり思っていたが、途中からは意識があったのだろう。諸正もすべての男に性的なトラウマを植え付けそうなあの光景を目撃してしまったらしい。
「――来い。島の裏に行きに使ったクルーザーがある」
 ぼくらは顔を見合わせた。

 諸正はクルーザーを操縦しながらぽつりぽつりと語った。
 諸正は十年前の〈万代〉で最愛の女性を亡くした。
 そのときに諸正は〈血鍼衝〉の忌能を得て忌能者となった。
 愛しい人を重すぎる運命から解放したい――その願いが、自らの血を鍼として生体を操作する能力として結実したのだ。
 だが、諸正が忌能を獲得したときには、すべてが終わっていた。
「俺は結局、あいつを守ることができなかった。だからせめて、あいつの守ろうとしたものを守ろうと思った」
 久瀬倉家の執事となった諸正は、〈万代〉の世話役となり、鬼の封印の維持に精力を注ぐことになる。
「だが、それは間違っていたんだろう。封じるべき久瀬倉家の鬼はすでに滅び、あの祭壇に封じられていたのは忌霊と化した過去の贄姫たちの妄念だったんだからな」
 なぜ諸正が敵対していたぼくらにそんな話をするのか、最初は首をかしげたが、諸正の訥々とした語りを聞くうちになんとなくわかった。この横暴な執事も、誰かに話を聞いてもらいたかったのだ。
「それでも気になる。あいつは――咲夜は、やはり恨みを呑んで死んでいったのだろうか。俺は、悲壮な決意を固めて〈万代〉に臨もうとするあいつを止めるべきだったのか」
 船室に沈黙が下りた。
 その沈黙を破ったのは久瀬倉さんだった。
「あの『鬼』――忌霊には、もうさほどの力は残っていませんでした」
 諸正が顔を上げた。
 が、クルーザーのステアリングを握る諸正の顔はこちらからは見えない。
「忌門も虫食いが多くて、まともに機能していませんでした。総合的に見て、あの忌霊はかなり弱体化していて、下手をすればそのまま滅んでいたかもしれません」
「……それがどうした」
「わたしに取り憑いた忌霊の化身――〈燦〉と名乗る疑似人格はとても焦っていました。もうすぐ自分の本体である『鬼』が消滅してしまう、と。だから、本来祭儀には関係ないはずの美奈恵さんを生け贄にしてまで力を取り戻そうとしたんです。結果的にはとんだやぶ蛇だったわけですが……」
 久瀬倉さんの言葉に反応したのは真琴さんだった。
「……そういうことか」
「え? どういうことぉ?」
 みなの視線が真琴さんに集まる。
「忌門と忌霊とはなぜ弱っていたのか、ということさ。こういうことだろう、春姫。十年前身を捧げた贄姫――久瀬倉咲夜は、忌門の前で鬼に蹂躙されても、決して人々を恨むことはなかったんだ。それどころか、忌門に対して、純粋にひとつの願いを抱いた。こんなことはもう終わらせてほしい、鬼など消え去ってしまえ、と」
「……ええ、おそらくは」
 ぼくは諸正を見た。
 諸正は相変わらずフロントウインドウの外に広がる夕暮れの海に目を向けている。
 が、諸正の首筋の筋肉がぐっとふくらみ、ステアリングを握る手は小刻みに震えていた。
「咲夜さんがいなければ……わたしたちはきっと、助からなかった」
 久瀬倉さんのつぶやきで、感情を堰き止めていた何かが壊れたのだろう。
「ぐ……ぅああ……あああああああっ!」
 諸正は、ステアリングにしがみつき、人目もはばからずに嗚咽する。
「……わたしたちはしばらく外にいる」
 真琴さんが言って、ぼくたちをキャビンの外へと促した。
 夕日は水平線近くに迫り、右舷遠くには早くも灯火を点しはじめた城ヶ崎湾が現れつつあった。

「……三峯君?」
 いぶかしげな久瀬倉さんの声で、ぼくは物思いから醒めた。
 城ヶ崎ジョイランド名物の大観覧車『ゾディアック』のゴンドラは着実に高度を上げ、全円周の三分の一ほどを既に消化していた。
「もう。せっかくのデートなのに」
「ごめんごめん」
 謝りつつも、ぼくの視線はつい城ヶ崎湾の方へと向かってしまう。
「何考えてたか、当ててみようか?」
「……え?」
「諸正さんのこと」
「……うん」
 事件の後、諸正は久瀬倉家の執事を辞め、その行方をくらませていた。
「咲夜さんって人は、久瀬倉さんの叔母さんなんだよね?」
「……うん。わたしは小さかったから、記憶はほとんどないんだけど、すごく優しい人だったのは覚えてる」
「そっか」
 ぼくらはしばし、黄昏色に染まった海の彼方を見つめた。
 言葉は交わさなかったが、久瀬倉さんもきっとぼくと同じことを考えている。
 ぼくにとっては会ったことのない人だし、久瀬倉さんにとっても特別に親しかったわけじゃない。
 咲夜さんのひたむきな想いは、彼女自身を救うことはなかった。
 咲夜さんに対する諸正の献身も、実を結ぶことはなかった。
 それでも、咲夜さんがいたからこそ、今ぼくたちはこうして一緒にいられるのだ。
 咲夜さんの想いに対して、ぼくらはただ悼むことしかできないが――そんな想いが人を救うこともあるのだと、今のぼくは知っている。
「あの、さ」
「うん」
「美奈恵さんとは、結局、どこまで……その、したの?」
「ぶっ!」
「美奈恵さんに聞いても、にやにや笑うだけで教えてくれないんだもん。わたし頭に来ちゃって、あの人のことを、その、平手でぴしゃんって」
「……久瀬倉さんって、ときどき過激だよね」
「そうかな?」
「そうだよ。でなきゃ、自分の体質を対価に真琴さんたちを雇って自分の家の祭りを潰そうだなんて思わないんじゃないかな」
「それは……ちがうよ」
「え?」
「わたし、最初は全部諦めてたの。わたしは人々のために贄姫になって、鬼になぶりものにされて死ななきゃいけなんだって」
「じゃあ、どうして?」
「だって、出逢っちゃったんだもん」
「出逢った?」
「素敵な男の子に」
 久瀬倉さんははずかしそうに目を伏せた。
「その男の子はわたしのことを本当に心配してくれて。わたしの力のことを知っても怖がったりしなくて。その時は知らなかったけど、わたしを助けるために厳重な警備のお屋敷に侵入したり、自分の貞操を売ってまで衛視を雇ったり、果ては鬼の封じられた絶海の孤島にまで乗り込んで来ちゃったり。そんなに想われて――ひとりで死ぬなんてこと、できるわけないよ」
 久瀬倉さんはゴンドラのシートから立ち上がると、前屈みになって、両手でぼくの頬を包んだ。
 久瀬倉さんのやわらかく、わずかに湿った細い指がぼくの頬を撫でていく。
「久瀬倉……さん」
「春姫って、呼んで」
「春姫……」
「瞬」
 あ、という間もなく。
 久瀬倉さんの――春姫の顔が視界いっぱいに広がり、ぼくの唇に優しい感触が伝わった。
 春姫はぼくの背に腕を回し、自分の唇をぼくの唇に押しつけてくる。
 ぼくも春姫の華奢な身体に腕を回し、負けじと唇を押しつけていく。
 美奈恵さんのように上手なキスじゃない。
 たどたどしく貪りあう、幼くて年相応のキス。
 ときおり歯がかちかちとぶつかりあうような拙いキスなのに、あのときの何倍も気持ちがよくて、頭の中がまっ白になる。
「ねえ、美奈恵さんと、どこまでしたの?」
「……その、キスまでだよ」
「悔しいな」
「じゃあ、もっとしようよ。美奈恵さんのことなんか忘れちゃうくらいにさ」
「うん」
 ゴンドラはいつのまにか頂点をすぎ、ジョイランド名物「『ゾディアック』から見下ろす夕景」は見すごしてしまった。
 残る半周もあっというまに過ぎ去り、二人きりでいられる時間は残りわずかになった。
 ぼくと春姫は、名残を惜しむようにゆっくりとゴンドラから降りた。
 人影もまばらな夕暮れの降り口で、ふいに春姫が立ち止まった。
 ぼくは少しつんのめってからふりかえる。
 春姫の伏せられた顔は、つややかな前髪に隠されて見えないが、肩をきゅっとすぼめた様子からは春姫の緊張が伝わってきた。
「……どうしたの?」
 声をかけるぼくに、春姫はゆっくりと顔を上げた。
 その頬が赤いのは、夕日のせいばかりじゃないと思う。
 春姫は消え入りそうな声でこう言った。
「今日は……帰りたくないな」
 いつかと同じ言葉は、あの時とはまったく違った響きで、ぼくの脳を直撃した。
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