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30 日常へは戻れない
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勤務後はともかく、ファーガス様とうっかり顔を合わせしまうのは、やっぱり鍛練場だった。
ファーガス様の場合は、自分の為の稽古ではなく、人を指導する立場としてそこにいることが多い。どれだけの人がそこにいたとしても、彼はやはり目立つ。
きちんと仕事に向き合っているようで、珍しく彼の怒声が一度だけだが聞こえてきた。たまに雷が落ちるのは珍しくもないのか、その声にぎょっとする人間はいないようだ。
あんなことがあって、私たちは以前とは違う関係ができている。だけど、そうなってしまったからと言って、私が心穏やかでいられる事はない。
やはりこの場所はトラウマだ。かえって気まずさ倍増だ。公私ともに彼の影響は出まくりだ。
絶対にあっち側は見ない!
そう決めて、私はダナを自分の盾にする。ダナが使えない時は誰でもいいから、何気に手近な人の影にさっと入る様にしている。そしてファーガス様の目には決して入らないようにするのだ。
今のところ不審扱いされないのは、やっぱり私が持つ特性のせいかもしれない。自分が地味で目立たないことに感謝したのは久しぶりだ。
「ダナ、ファーガス様、いる?」
「そら、いるよ。もちろん奴の目はパトリシアに釘付けだ。稽古をつけている風に見せてこちらを凝視とは、すごい技を身に着けたものだな。でもまあ恋人ならいいじゃないか」
全然いいじゃないか、なんて思ってもない口ぶりだ。まるで子供が拗ねているようだ。
「そんなこといわれても、あんまり見つめられるのも困る。こう言う時ってどうすればいいのよ」
ため息と一緒に出た。
「そんなの簡単だ。大声で『こっち見んなっ!』って叫べばいい」
「無理でしょ」
そんな事ができる猛者は女性近衛にもいないよ。
「んじゃ、『あっち行け!』『コロス!』でも通じるだろう。よし、パトリシアが無理なら私が言ってやるよ」
ダナなら遠慮なくできそうで怖い。一応彼が上官だって忘れているんじゃないかな。
口の横に手をあてすうっと息を吸い込んで大声を上げようと準備万端のダナに、やめてやめてと 抱き付くと、ニンマリといたずらっ子の顔を見せて笑った。その時だった。
あれは……
指導が終わったのだろうか、ファーガス様がすみのベンチに座り汗を拭っているのがチラと見えたのだが、その手にしているタオルに違和感があったのだ。
遠目だからしっかりとは判別できない。だけど、そのタオルは淡い桃色をしているのだ。周りの騎士たちが使っているのは白色が圧倒的多数で、ファーガス様のものはかなり目立っている。
間違いであればいいのだけど、私が半年前にここに忘れてしまい紛失してしまった物とよく似ている気がするのだ。
もう何年も汗ふきに使っていて、糸はあちこち飛び出しているし色あせもあるしで、さほど惜しくなかったけれど。
まさかね。
やがてファーガス様は誰かに耳打ちをされ、急ぎの用事が入ったのか、タオルを放置して去ってしまう。それから十分ほどして稽古の時間がひとくぎりとなって、人は徐々にいなくなる。
私もダナに着替えに戻ろうと言われるのだけど、どうしてもそれが気になって、先に行ってもらうことにした。
人はいなくなった。
私は小型の模擬刀を小脇に抱え、小走りでベンチに近付き、取り残されたタオルを手に取る。
長方形の端には、私が手縫いしてつけたタグがついていた。
やっぱりこれは私の物だ。私はそれを持ってしばし凍り付く。
うん……返してもらおう。
別に私にやましさはないのだが、つい動きがこそこそしてしまう。
その場に片膝をつきタオルを端から丸めて小さくして抱え込むと、後ろから肩を叩かれビクリと体が揺れる。
ひぃっ。
「ああ、よかった。大事な物を忘れたことに気付いて戻ってきたんだ。それを、返してくれないか?」
ファーガス様は急いでやってきたようで息が切れている。
「それは僕の物だ」
恐ろしいほどにこやかに笑い、手を差し出すファーガス様がそこにいた。
「これは……あの……私の……」
「それは君からのプレゼントだよ」
言い切った。この人言い切った。
自分が使い古した物なんて恋人に渡しますか……
「だけど、こんな古びた物はだめです……今度、新しい物を差し上げますので、これは回収させて頂きます……」
「だめだよ。これは僕の、宝物なんだ」
ごめんね、そう言ってファーガス様は私から強引にタオルを奪った。
「うん、やっぱりこれじゃなきゃダメだ」
汗など出ていないのに頬に寄せ、最後は首にかけてしまう。そうなると私も手を出せなくなってしまう。
これは絶対に譲れないというファーガス様の意思表示だ。
「次の贈り物はこれをお願いしようかな」
髪を括っているリボンをつうーと引っ張られ、私は思わずファーガス様の頭に模擬刀を振り下ろした。
「いい加減にしてください!」
さほど痛くはないだろう、しかし音は大きく、何事をも受け流すファーガス様が呆然としている。
あっ……
「……パトリシア……」
「す、すいません、ごめんなさい!」
必死に平謝りする。
偽物とはいえ流石に痛かっただろうし、鍛練の場以外ですべき行為ではない。しかも頭部だ。王族だ。背中に冷たい汗が流れるのを感じる。
「パトリシア……さっきのは……」
「申し訳ありません。私、どんな償いでもします。ですからどうか許してください」
頭を下げる私の肩に手を乗せ、ファーガス様は心配ないと笑う。
「僕たちの仲だ。これは水に流そう。くれぐれも他の人に対してはしないようにね?」
「はい」
小さくなるしかない。
「ところで、パトリシア。今夜、食事でもどうだろう」
「でも、それはちょっと」
「あぁ……どうしてだろう、頭が……」
断りの言葉の途中で、ファーガス様が意味ありげに頭に手をやりふらつく。
「あの……行かせて頂きます。そして是非ご馳走させて下さい」
チキンな私は誘いに乗ることしかできなかった。
ファーガス様の場合は、自分の為の稽古ではなく、人を指導する立場としてそこにいることが多い。どれだけの人がそこにいたとしても、彼はやはり目立つ。
きちんと仕事に向き合っているようで、珍しく彼の怒声が一度だけだが聞こえてきた。たまに雷が落ちるのは珍しくもないのか、その声にぎょっとする人間はいないようだ。
あんなことがあって、私たちは以前とは違う関係ができている。だけど、そうなってしまったからと言って、私が心穏やかでいられる事はない。
やはりこの場所はトラウマだ。かえって気まずさ倍増だ。公私ともに彼の影響は出まくりだ。
絶対にあっち側は見ない!
そう決めて、私はダナを自分の盾にする。ダナが使えない時は誰でもいいから、何気に手近な人の影にさっと入る様にしている。そしてファーガス様の目には決して入らないようにするのだ。
今のところ不審扱いされないのは、やっぱり私が持つ特性のせいかもしれない。自分が地味で目立たないことに感謝したのは久しぶりだ。
「ダナ、ファーガス様、いる?」
「そら、いるよ。もちろん奴の目はパトリシアに釘付けだ。稽古をつけている風に見せてこちらを凝視とは、すごい技を身に着けたものだな。でもまあ恋人ならいいじゃないか」
全然いいじゃないか、なんて思ってもない口ぶりだ。まるで子供が拗ねているようだ。
「そんなこといわれても、あんまり見つめられるのも困る。こう言う時ってどうすればいいのよ」
ため息と一緒に出た。
「そんなの簡単だ。大声で『こっち見んなっ!』って叫べばいい」
「無理でしょ」
そんな事ができる猛者は女性近衛にもいないよ。
「んじゃ、『あっち行け!』『コロス!』でも通じるだろう。よし、パトリシアが無理なら私が言ってやるよ」
ダナなら遠慮なくできそうで怖い。一応彼が上官だって忘れているんじゃないかな。
口の横に手をあてすうっと息を吸い込んで大声を上げようと準備万端のダナに、やめてやめてと 抱き付くと、ニンマリといたずらっ子の顔を見せて笑った。その時だった。
あれは……
指導が終わったのだろうか、ファーガス様がすみのベンチに座り汗を拭っているのがチラと見えたのだが、その手にしているタオルに違和感があったのだ。
遠目だからしっかりとは判別できない。だけど、そのタオルは淡い桃色をしているのだ。周りの騎士たちが使っているのは白色が圧倒的多数で、ファーガス様のものはかなり目立っている。
間違いであればいいのだけど、私が半年前にここに忘れてしまい紛失してしまった物とよく似ている気がするのだ。
もう何年も汗ふきに使っていて、糸はあちこち飛び出しているし色あせもあるしで、さほど惜しくなかったけれど。
まさかね。
やがてファーガス様は誰かに耳打ちをされ、急ぎの用事が入ったのか、タオルを放置して去ってしまう。それから十分ほどして稽古の時間がひとくぎりとなって、人は徐々にいなくなる。
私もダナに着替えに戻ろうと言われるのだけど、どうしてもそれが気になって、先に行ってもらうことにした。
人はいなくなった。
私は小型の模擬刀を小脇に抱え、小走りでベンチに近付き、取り残されたタオルを手に取る。
長方形の端には、私が手縫いしてつけたタグがついていた。
やっぱりこれは私の物だ。私はそれを持ってしばし凍り付く。
うん……返してもらおう。
別に私にやましさはないのだが、つい動きがこそこそしてしまう。
その場に片膝をつきタオルを端から丸めて小さくして抱え込むと、後ろから肩を叩かれビクリと体が揺れる。
ひぃっ。
「ああ、よかった。大事な物を忘れたことに気付いて戻ってきたんだ。それを、返してくれないか?」
ファーガス様は急いでやってきたようで息が切れている。
「それは僕の物だ」
恐ろしいほどにこやかに笑い、手を差し出すファーガス様がそこにいた。
「これは……あの……私の……」
「それは君からのプレゼントだよ」
言い切った。この人言い切った。
自分が使い古した物なんて恋人に渡しますか……
「だけど、こんな古びた物はだめです……今度、新しい物を差し上げますので、これは回収させて頂きます……」
「だめだよ。これは僕の、宝物なんだ」
ごめんね、そう言ってファーガス様は私から強引にタオルを奪った。
「うん、やっぱりこれじゃなきゃダメだ」
汗など出ていないのに頬に寄せ、最後は首にかけてしまう。そうなると私も手を出せなくなってしまう。
これは絶対に譲れないというファーガス様の意思表示だ。
「次の贈り物はこれをお願いしようかな」
髪を括っているリボンをつうーと引っ張られ、私は思わずファーガス様の頭に模擬刀を振り下ろした。
「いい加減にしてください!」
さほど痛くはないだろう、しかし音は大きく、何事をも受け流すファーガス様が呆然としている。
あっ……
「……パトリシア……」
「す、すいません、ごめんなさい!」
必死に平謝りする。
偽物とはいえ流石に痛かっただろうし、鍛練の場以外ですべき行為ではない。しかも頭部だ。王族だ。背中に冷たい汗が流れるのを感じる。
「パトリシア……さっきのは……」
「申し訳ありません。私、どんな償いでもします。ですからどうか許してください」
頭を下げる私の肩に手を乗せ、ファーガス様は心配ないと笑う。
「僕たちの仲だ。これは水に流そう。くれぐれも他の人に対してはしないようにね?」
「はい」
小さくなるしかない。
「ところで、パトリシア。今夜、食事でもどうだろう」
「でも、それはちょっと」
「あぁ……どうしてだろう、頭が……」
断りの言葉の途中で、ファーガス様が意味ありげに頭に手をやりふらつく。
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