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第三章 本物と偽物

3. いらぬ謝罪

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 交流会当日。部署紹介も質問コーナーも滞りなく進められた。洋輔のことが心配された食事会も、洋輔のガードが堅くてさすがに誰も踏み込めなかったようだ。終始和やかな空気で交流会はその幕を閉じた。

「先輩社員の皆さん、ありがとうございました。本日はここで解散となりますが、このあとお時間のある方は打ち上げに行きたいと思いますので、私の近くまでお越しください。お帰りになる方は気をつけてお帰りください。あらためまして、皆さんありがとうございました」

 人事部からの挨拶に拍手が起こる。今はまだ夕方の六時だが、参加者のうち半分はそのまま帰宅していった。残り半分は打ち上げに参加するようだ。

「折戸、どうする?」
「もちろん参加するでしょ」
「ははっ、やっぱりそう言うと思った。俺も参加する」

 他部署との貴重な交流の機会だ。これを逃す手はない。だが小谷がその場にいることだけが彩子は気がかりだった。


 人事部を先頭に繁華街まで歩いていく。予約をしているわけではなかったようだが、火曜日の夕方六時だからか、意外とすぐに店は見つかった。

 参加者は八人いたので、二つのテーブルに別れて座ることになる。本当ならば洋輔の近くに座りたいという気持ちもあったが、そうすれば洋輔は小谷と話しにくくなるだろう。彩子は他部署の人に話しかけつつ、自然と洋輔と距離を取り、洋輔とは違うテーブルに座った。
 洋輔はといえば、小谷の向かいに座っている。二つのテーブルは横並びになっているので、彩子とは人一人を挟んだ位置に座る形となった。


「折戸さんのテーブルすごく盛り上がってましたね」

 乾杯をしてビールを煽っていれば、目の前にいた鈴木孝也すずきたかなりが話しかけてきた。確か品質管理部の人だ。

「あー、あれは文房具談議に花が咲いてたんですよ」
「なるほど。やっぱり同じ趣味の人たちが集まるとそうなりますよね」
「ですね」
「でも、折戸さんのところも松藤さんのところもすごく人気でしたよね。お二人のテーブルの争奪戦でしたよ」

 食事会は好きな先輩社員のところで話を聞けるルールだったのだが、彩子と洋輔のテーブルはすぐに埋まったのだ。やはり自分で商品を考えたいと思う人は多いだろうから、二人のテーブルが人気なのは頷ける。

「まあ花形の部署ですからね。松藤はあの通りですし」
「いやいや折戸さん人気もすごかったですよ。質問コーナーでの折戸さんのお話すごく面白かったですから。私も思わず聞き入っちゃいました」

 鈴木はなかなかに誉め上手らしい。

「えー、まいっちゃうな。ありがとうございます」
「あはは。折戸さんは気さくな方ですね。話しやすいです」


 そんなふうに同じテーブルのメンバーと楽しく会話をしていれば、鞄の中のスマホが震えたのでこっそり確認した。

 見ればそれはなぜか洋輔からだった

『あんまり飲みすぎないようにね』

 なぜこのタイミングでそんなことを送ってくるのかわからなかったが、会社の人たちの前でのそのやりとりは落ち着かなくて、『そっちこそ』とだけ返してまたすぐに鞄の中にしまった。


 打ち上げが終わったのは午後八時半を回ったころだった。小谷は少し酔っているようで、洋輔はそんな彼女が心配なのか駅に向かう間ずっとその隣を歩いている。彩子は胸に巣くう暗い気持ちを追いやるようにして、他の社員との会話に意識を向けた。

 駅に到着すれば、皆そこで別れの挨拶をし、各自の路線に向かって散らばっていった。洋輔は壁際のほうに小谷ともう一人人事部の女性と一緒に立っている。洋輔はその女性と何やら話したかと思えば、女性はなぜか彩子のほうをちらりと見て頷いたあとにそのまま帰ってしまった。洋輔が帰したのだろう。

 普通なら自分の恋人と他の女性を二人きりにするのはおかしなことだが、彩子たちの関係は普通ではない。ここは自分が離れるべきなんだろうなと彩子は思った。洋輔はここで送り狼になったりしない。任せておけばいい。小谷とのそのささやかな時間くらい許されるだろう。
 彩子は自分にそう言いきかせて、自分も帰宅しようと改札に向かって歩きだした。


 ところが、数歩歩いたところで突然腕を掴まれてしまった。彩子は驚き振り返った。

 洋輔が彩子の腕を掴んでいる。

「あ、ごめん。そのちょっと帰るの待ってくれる? 小谷の迎えがもうすぐ来るから一緒に待っててくれない?」

 せっかく二人きりにしてやろうとしたのに、それすらいらぬお節介だというのだろうか。彩子のことは気にせず、このくらい甘えてしまえばいいのに。
 そうは思っても、やはり引き留めてくれたのは嬉しかった。彩子は洋輔に頷いてみせると、大人しく洋輔のあとについていった。


 小谷のほうまで歩いていく。小谷は一人でちゃんと立ててはいるものの、顔は随分と赤くなっている。

「私、お水買ってこようか?」

 そのまま三人で立っているのも気まずくて、その場から離れる言い訳のようにそう口にしていた。

「ごめん、ありがとう」

 そのごめんは何に対してのごめんだと嫌な考えがもたげてくる。それを振り払いたくて、彩子はそそくさとコンビニへ向かった。コンビニは思いのほか混んでいて、水を買うのに少しばかり時間がかかってしまった。

「小谷さん、これお水。飲める?」
「ありがとうございます」

 小谷はそう言って水を受け取るが、キャップが上手く開けられないようだ。しかたなく彩子がキャップを外して水を渡してやれば、こくこくと喉を鳴らしながらその水を流し込んだ。口から離れたペットボトルが倒れていきそうになり、彩子は慌てて受け取ると持っていたキャップでそれを閉めた。


 そこへ一人の男性が駆けてきた。青木だ。

「洋輔、ごめん。連絡ありがとう」
「ううん。早く連れて帰ってあげて」

 どうやら洋輔が呼んだらしい。どうしてそこまで優しいのか。なんだか彩子のほうが泣きたくなってくる。

「うん。あ。折戸さんもありがとう」

 彩子の姿に気づいたらしい青木が驚きの声を上げた。だがそれも一瞬のことで青木はすぐに彩子にも礼を述べた。

「ううん。これお水。さっき一口だけ飲ませたけど、よかったら」
「ありがとう。あ。えっと、さやか……小谷とは、」

 小谷と付きあっていると説明しようとしているのだろう。彩子は恵美から聞いてその関係を知ってはいるが、本人たちはそのことを知らないはずだ。

「あー、大丈夫。ごめん、実は恵美から聞いて知ってるんだ」
「あー、そうなんだ。えっと、ありがとうね。さやか、帰るよ」

 青木は小谷の手を引いて帰っていった。


「彩子、ごめんね。待っててくれてありがとう。小谷は知りあいで放っておけなかったから」
「ううん。大学のときの知りあいでしょ? 恵美から聞いて知ってる」
「そっか。ごめん。帰ろうか」

 今日の洋輔は謝ってばかりだ。罪悪感があるのだろう。だがそうされると彩子はかえって惨めな気持ちになる。謝らずに堂々としていてほしかった。それは彩子の贅沢な願いでしかないのだろうが。



 洋輔に手を握られ一緒に歩きだした。路線が違うからあと数十メートルも歩けばお別れだ。こういうときいつもなら泊まりにいくと言うのだが、今日はその距離が許されないような気がした。今は一人でいたいんじゃないかと思ったのだ。そしてそれは彩子も同じだった。

 だから何も言わずに歩いていた。一歩一歩別れのときが近づく。そして、ああもういよいよお別れだというところで、きゅっと繋いでいた手を握りしめられた。

 そこに込められた意図はわからない。ただの謝罪の気持ちだったのかもしれない。でも、もしかしたら人恋しいのかもしれないと思った。正直、今洋輔の隣にいるのは苦しくてしかたない。だがそれでも洋輔が望むのなら彩子は喜んでその身を捧げようと思った。

「今日洋輔ん家泊ってもいい?」
「うん。おいで」

 ゆっくりとしていた足取りは、どこか力強く性急なものに変わった。帰る道中二人は一言も話さなかった。

 洋輔の家に上がれば、勢いそのままに抱かれるのではないかと思ったがそんなことはなかった。その日はただ手を繋いで眠りについた。

 翌朝にはもういつもの洋輔に戻っていた。



「あの、折戸さん。昨日はご迷惑おかけしてすみません。ありがとうございました。これお水代です」

 出社して仕事をしていれば、小谷が彩子のところまでやってきた。一応昨日のことを覚えているらしい。律儀に水代まで渡された。大した金額ではないので別にいいのだが、受け取ってやったほうが本人の気が晴れるだろう。そう思い素直に受け取れば、小谷は花が開いたようにとてもかわいらしく微笑んだ。

 どうやら小谷はとても素直な人間らしい。この見た目でこの素直さとくれば、誰から見てもかわいいに違いない。彩子もかわいいと思った。同時にこれは勝てないとも思った。洋輔が忘れられないのも当然だ。

 小谷は彩子のもとを離れるとそのまま洋輔のところへ向かった。洋輔にもお礼と謝罪の言葉を述べているのだろう。その様子を見ていたくなくて、彩子はすぐさま仕事に意識を集中させた。
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