最後に私が死ねば完璧だったのに。

木立 花音

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第一部「偽りの現在」

【出会いと不穏な兆し(1)】

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 都会の夜は、ネオンの光と影が交差する迷宮だ。
 雑居ビルの地下に広がっているクラブは、汗と酒の匂いと熱気に満ちていた。低温のビートが床を震わせ、色とりどりの光が人々の表情を切り取る。
 音楽は鼓動に似ていた。低く、重く、規則正しく胸の奥を叩いてくる。そのたびに左胸の奥がかすかに軋む気がして、小早川千晶こばやかわちあきはグラスを持つ手に力をこめた。
 
 ――まただ。

 心臓の手術をしてから三年。医師は「問題ありません」と言うし、定期健診でも数値は安定している。
 それなのに、こういう場所に来ると軽い動悸がする。あれから、騒がしい場所が苦手になった。
 それでも千晶はここにいる。
 成田駅近くのクラブ。原稿が一本終わった夜、気分転換のつもりで足を向けただけだった。
 今年で三十歳になるが、結婚の予定はまだない。「いい人はいないの?」とせっついてくる田舎の母親が、鬱陶しくなってきた頃合いだ。出版社を辞めてフリーになってから、細々と原稿を書いて小銭を得ているが、お世辞にも安定した生活とは言えない。それが余計に母親を苛立たせるらしい。
 ついでに、私も。
 頭を振ると、耳元でシルバーのイヤリングが揺れた。
 誰にも会わない日が続くと、自分の輪郭が薄れていく感じがする。

 ――私は、ちゃんとここにいる?

 カウンターに肘をつき、カクテルを口に含む。ハーブの風味のあとにわずかな苦味が残る。

「ねえ、一人で飲むにはもったいない夜だよ」

 不意に、隣から声がする。顔を上げると、金髪の女性が立っていた。肩までの長さで揃えた髪。黒いシャツに黒のタイトスカートを合わせている。歳の頃は二十代半ばだろうか。シックな服装のわりに雰囲気はフェミニンで、どこかアンバランスだった。
 目が合うと、彼女はニッと笑う。笑っているが、どこか緊張が抜けきらない瞳。

「どこかで会ったことあったっけ?」

 あまり関わりたくなくて、千晶は素っ気なく答える。
 女の視線はどこか挑発的で、無視できない何かがある。不思議な感覚だった。

「まだね。でも、これから知り合いになりたいな」

 女は千晶の隣に滑り込むように座る。甘くてスパイシーな香水の匂いが千晶の鼻腔をくすぐる。
 距離が、近い。
 初対面の距離感としては、少しだけ。
 それなのに、不思議と嫌じゃなかった。

「マティーニで良かったかしら?」

 女はバーテンダーに二人分の飲み物を注文した。

「なに勝手に注文してんの」
「だってそれ、マティーニでしょ?」
「そうだけど……」

 お代わりが欲しいとは言ってない――と言いかけてやめる。このタイプの女は人の話を聞かない。

「名前は?」
「……千晶。小早川千晶」
「千晶って、どんな字を書くの?」
「千の晶。月並みでしょ?」
「ううん、きらきらしているみたいで可愛いじゃない。私は西野澪にしのみお。よろしくね、千晶さん」

 彼女は「よろしくね」の部分をゆっくり味わうように発言した。その艶やかな声音に、ちょっと苦手なタイプだなと千晶は思う。右手首に薄っすらと傷がある。左利きなのかな、と分析した。
 会話は途切れがちだったが、澪の軽妙な話術と、時折差し込まれる意味深な笑みに、千晶は少しずつ心を開いていく。
 澪はフリーターで、夜の街を渡り歩く生活だと語った。彼女の言葉には、どこか刹那的な響きがあった。まるで、明日が来ないことを悟っている病人のように。

「どうして、私に話しかけたの?」

 千晶は、二杯目のマティーニを飲み干しながら訊ねる。酔いが回って、身体は火照っている。見知らぬ女への警戒心は、次第に薄れていた。

「んー? 別に大した意味はないよ。なんとなく、放っておけない雰囲気だったから」

 澪は肩をすくめ、悪戯っぽく笑う。

「それに、寂しそうな目をしてた。嫌いじゃないよ、そういうの」

 千晶は苦笑いした。寂しそう、か。確かに。
 自分がレズビアンであることは、誰にも言っていない。最初からそういう性癖だったわけじゃない。自己理解の深まりによってそうなったのか、特定の出会いや経験を通じて、女性に惹かれるようになったのか。きっかけはすでに覚えていない。
 一つ明白に言えるのは、あのときを境に「そうなった」ことだろうか。

「恋人とか、いるの?」

 男の、という意味だろうかと一瞬考えて、それが普通だと千晶は自重する。

「いないよ。いたら一人寂しく酒なんて飲んでるわけないでしょう?」
「それもそうですねッ」

 三杯目にジントニックをオーダーした澪は、かなりのハイペースでグラスを空にしていく。
 千晶は、数年前まで、出会い系のアプリなんかで相手を探すこともあったが、結果としてどれも長続きしなかった。結婚という明白なゴールがない同性愛は、ワンナイトの関係を求める人が多いと気づいてからそれもやめてしまった。
 男性から告白されたこともあるが、友だちとしてはまだしも、恋愛感情を持つことはできない。そして、相手がそれを求めていないことも知っていた。

「そういうあなたはどうなの?」

 反撃がてらに聞いてみた。
 澪の身長は高くない。千晶が百七十に迫る長身なのに対し、彼女は女性の平均身長を少し割る程度だ。小動物みたいなつぶらな瞳も、さくらんぼみたいな色をした唇も、清楚なお嬢様然とした見た目の中にほんのりとした色香を漂わせていて、男受けが良さそうだ。

「私ですか? 絶賛募集中ですよ」

 澪が身を寄せ、囁くように言った。彼女の指が、千晶の手首を軽く撫でる。
 触れあった瞬間、千晶は息苦しさを感じた。熱のような、衝動のような何か。

「酔ってるの?」
「酔ってなんかにゃいですよ」

 口先ばかりで盛大に酔っていた。千晶はスマホでちらりと時間を確認し、もうすぐ終電がなくなるなと思う。
 話題は予測不能な方向に転がった。好きな音楽、最近見た映画、クラブのバーテンダーの髪型いじりまで。千晶は自分のことはあまり話さず、澪の話に耳を傾けていた。
 彼女は幼い頃に父親を病気で亡くし、高校生のときに親に捨てられたために児童養護施設で育ったのだという。児童養護施設は規則や門限が厳しくて、また人間関係に気を遣うから嫌だったと彼女は愚痴をこぼした
 千晶は、なぜ母親に捨てられたのかと気になったが、彼女があまり話したくなさそうだったため、その話題には触れずにおいた。
 澪の目が少しとろんとしてきた。ショットグラスを空けすぎたらしい。

「やば、ちょっと酔ったかも……」

 澪は笑いながら、千晶の肩にもたれる。香水の甘い匂いがして身を固くしたが、すぐに冷静になる。

「ねえ、澪。そろそろ帰ったほうがいいんじゃない? どこ住んでるの?」
「んー、遠いんだよね……。タクシー呼ぶのめんどくさいし」

 澪は子どものように唇を尖らせて、千晶の腕をつかむ。

「ね、千晶の家、泊めてよ。ここから近いんでしょ? いい子にするからさ」
「そんなに近くないよ」

 千晶はふと思う。
 私がレズビアンだと隠したままこの子を家に泊めるのって、まずくないだろうか。カミングアウトするのは気が重い。でも、ここで自分の性癖をはっきり伝えて牽制し、その上で彼女の住所を聞き出しタクシーに乗せてしまえば、あとはどうにかなるだろう。
 よし、決まった。

「ねえ」
「すー……」

 呼びかけに対する回答は寝息だった。千晶の二の腕をしっかり握ったまま、澪は熟睡していた。
 しょうないなあ……と千晶は嘆息し、バーテンダーにタクシーを一台頼む。さすが酔いつぶれている子を置いては帰れない。放っておけば誰かに食い物にされるだけだ。大丈夫。絶対に何もしないと自分に言い聞かせ、彼女をタクシーに押し込んだ。
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