最後に私が死ねば完璧だったのに。

木立 花音

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第一部「偽りの現在」

【出会いと不穏な兆し(2)】

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 千晶のマンションは渋谷から車で二十分ほどの場所にある2LDKだ。壁には色とりどりの付箋が貼られ、本が乱雑に積み上がり、半開きのノートパソコンがテーブルの上で眠っている。彼女の生活の断片が、部屋の隅々に散らばっていた。
 対話らしい対話にはならないが、辛うじて意思疎通はできる。千晶は澪に肩を貸してやっとリビングまで連れて行き、ソファに下ろした。やれやれと額の汗を拭う。

「ありがとうごじゃいましゅ……」

 澪はそう囁くと、すぐに寝息を立て始めた。キャミソールの紐が肩からずり落ち、白い鎖骨と柔らかな肌があらわになる。心臓がドキンと跳ね、千晶は慌てて目をそらした。
 無防備すぎる。私がレズビアンだと知っていたら、こんなふうにはならないだろうに。
 風邪を引かせてはいけない。澪の身体にタオルをかけて、千晶は浴室に向かった。
 シャワーを浴びながら、自分が妙に緊張していることに気づく。落ち着け。ノンケの女に手を出したりはしない。それがレズビアンの最低限の矜持だ。
 熱い湯を浴びて頭を整理しようと試みるが、あまり効果はなかった。
 
 シャワーを終え、ナイトウェアに着替えてリビングに戻ると、ソファに澪の姿はない。

「澪?」

 見ると、隣の寝室だ。いつの間にか移動していたらしい。シングルベッドの上で毛布にくるまり、すうすうと寝息を立てている。

「まったく……勝手に人のベッド占領しないでよ」

 苦笑しながらベッドの端に腰かけ、乱れた髪をそっと直してやると、突然澪が千晶の腕をつかんだ。

「ん……行かないで」

 瞳は半開きで焦点が合っていない。
「寝ぼけてるの?」と声をかけると、澪はふにゃっと笑って手を強く引いた。バランスを崩した千晶はベッドに倒れ込み、そのまま柔らかな胸に抱きこまれる。
 顔が近い。熱い吐息が首筋を撫で、甘い香水と汗の匂いが混じる。澪の太ももが千晶の腰に絡みつき、布越しに伝わる体温が熱い。

「ちょっと、澪。寝ぼけてるんだよね?」

 このままじゃまずい。引き離そうとするが、意外に力が強い。もがいているうちに、澪の手がナイトウェアの下に滑り込んできて、ブラの上から胸を揉まれた。

「うそでしょ。お願い澪、ほんとにやめて」

 口では拒絶しているが、千晶の身体はしっかり期待してしまっている。
 すがめた澪の瞳には色欲が見えるが、酔っているのか寝ぼけているのか判断がつかない。その指先は迷いなく、千晶の弱いところを探り当てていく。

「ほんとに……やめていいの?」
「当たり前でしょ。女同士でこんな――あっ」

 ブラがずらされ、直に触れられる。それは久々の感覚で、拒もうとする指先に力が入らない。疼く身体は素直に反応してしまっていた。

「私、こういうの……慣れてない」

 普段はタチだという言葉が、喘ぎに混じって掠れる。否定になっていないことに、自分で苦笑した。
 澪に顎を持ち上げられ、視線が絡みつく。

「慣れなくていい。ただ感じてくれればそれでいいよ」

 柔らかく熱い唇が重なる。舌が絡み、澪の指はさらに下へ滑る。
 ――やめて。
 心のどこかで声がする。でも、体は正直で、腰を浮かせてもっとと求めてしまう。
 シングルベッドの上は、やけに狭く感じられた。澪は視線を逸らし、少しだけ躊躇してから千晶の頬に触れる。

「……大丈夫?」

 その問いかけに、千晶は笑おうとしたがうまく笑えなかった。

「……大丈夫、だと思う」

 嘘ではない。本当でもない。
 澪はそれ以上聞かず、ただ額をそっと重ねてきた。呼吸が重なり、時間の輪郭が溶ける。冷たい肌の奥に、燃えるような熱があった。千晶は久しぶりの解放感と、どこか疼く不穏な予感の間で揺れていた。
 やがて灯りが消え、闇が二人を包んだ。言葉はもう、いらなかった。
 千晶は目を閉じ、澪の指と唇と体温に身を委ねた。窓の外では、東京の夜が静かに脈打っていた。

 目が覚めると強烈な二日酔いだった。朝日がカーテンの隙間から差し込み、部屋を淡い金色に染めている。

「頭……痛い」

 こめかみを押さえる。クラブの喧騒、互いの体温が溶け合うような熱い夜。記憶は夢のようにぼんやりしているが、隣で眠る澪の存在がすべてを現実に戻した。
 毛布にくるまった澪は、千晶の肩に頭を預けて穏やかに寝息を立てている。最近はご無沙汰だったが、セックスしたまま眠ってしまうことは珍しくなかった。
 一つだけはっきりしたことがある。彼女はノンケだと思っていたが、とんだ食わせ者だった。酔った勢いとはいえ、触り方に迷いがなく、女を喜ばせる術を熟知していた。彼女はレズビアンか、少なくとも女性との経験がある。
「寂しそうな目をしてた」「嫌いじゃない」「放っておけない」
 かけられた言葉が頭をよぎり、自惚れそうになって慌てて首を振る。嫌いの反対は好きじゃない。考えすぎだ。
「嫌い」の反対は「好き」じゃない。考えすぎだ。

「ん……おはよ」

 澪が目をこすりながら起き上がる。

「昨日のこと、覚えてる?」
「覚えていますよ」
「じゃああの店が、そういう店だってことも?」
「もちろん。知ってました」

 やはりそうだ。千晶は納得した。
 あの店が、知る人ぞ知る、レズビアンがパートナーを探す店だと彼女は知っていたのだ。だから、自分がレズビアンがどうかを確かめることなく、大胆な行動ができた。もし勘違いだったなら謝ればいい――そんな計算もあったはずだ。

「全部計算通りだったわけね。私がそうだとすぐわかったの?」
「いいえ? でも、長めのアイコンタクトをしても目を逸らしませんでしたし、ボディランゲージにも拒否反応がなかったので」
「なるほどね……」

 千晶はいろいろ腑に落ちた。馴れ馴れしいと感じながらも抵抗できんなかった理由がそれかと。
 親密な会話、ボディータッチ、自分が求められているとわかるシグナルがいくつも出ていたから、抵抗する気が削がれて懐柔された。
 彼女の触れ方は柔らかくてどこか懐かしい。まるで遠い記憶の断片が、突然色づいて目の前に現れたかのように。
 埃まみれだった、愛し愛されることへの渇望が、呼び起されたのだとはっきりと自覚した。

「でも、気持ちよかったんでしょう?」
「まあ……それは」

 素直に認めるのは癪だったが。

「素直で可愛いね」
「コーヒー淹れる? 飲むよね?」

 それ以上この話題を続かせるのが嫌で、話を逸らすように千晶が立つと、不意に澪が呟いた。

「人を殺したことがあるって言ったら、信じる?」

 千晶の手が止まる。冗談めいた言い方だが、澪の目は真剣だった。

「は? 何それ?」

 冗談に決まってる。笑って流そうとしたが、澪のアンニュイな表情が引っかかる。

「あれ? もしかして本気にしましたー?」
「そりゃ気になるでしょ。そんなこと思わせぶりに言われたら」
「冗談ですよ。冗談」

 腰に回ってきた手をかわし、千晶はキッチンへ向かう。

「あん」
「そんな悪質な冗談、言わないでよ」

 打算的に近づいてきたのかもしれない女だ。あまり真に受けてはいけない。

「そうですね」

 反省しているのか、澪はそれきり大人しくなった。

「また、ここに来ていいですか?」
「いいよ。あなたがそれを望むならね」
「やったー」

 調子がいいな、と千晶は思う。私は澪のことをどう思っているのだろう。正直、可愛い。甘い言葉に惑わされ、忘れかけていた感情を呼び起こされた。差し伸べられた手を握れば、きっと望んだものは手に入る。
 でも私は、彼女を幸せにできるのだろうか。
 自分の心がわからない。レズビアンだと自覚して以来、本気で誰かを好きになったことが、一度もないのだ。

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