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第二章:彼女と別れるまでの十数日間
青の洞窟 ※R15
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その日の夜。逢坂部は民宿の部屋で、今日の出来事を日記にしたためていた。
月の綺麗な夜だった。窓からは控えめに月明りが射し込み、外からはコオロギの鳴き声が聞こえていた。
浜辺で帆夏と交わした初めてのキス。そのまま何度も唇を重ね、二人の気持ちは次第に昂ぶっていく。やがて人目のない岩陰に場所を変えると、二人だけの逢瀬を楽しんだ。
お互いにしっかりと、強く、長く抱き合った。耳たぶを指で弄びながら唇を重ねると、僅かに開いた彼女の口元から、舌が差し出されてくる。二人の舌が絡み合うたびに響く、淫らな水音。
鎖骨をなぞるようにキスを落とすと、帆夏はくすぐったさを堪えるように身を捩った。一旦、抱きしめている腕を解くと、水着の上からそっと胸の膨らみに触れてみる。
しっかりと手のひらを押し戻してくる張りと弾力に、逢坂部の気持ちもどんどん高まる。肝心なところには触れず、焦らすように両の手のひらで軽く包み込んだ。すると帆夏は、恥ずかしくないから平気ですよ、と頬を染め耳元で囁くと、彼の一方の手を取りお腹の周辺まで誘った。
思いもよらぬ大胆な要求に彼は驚いたが、帆夏に導かれるまま指先を滑らせていく。彼女の表情と、声音の変化を確かめながら。
次第に、帆夏の吐く息が、浅く短くなっていく。
帆夏は頬から耳たぶまでを真っ赤に染め、声が漏れないよう左手で口元を覆い隠した。場所が人に見られるかもしれない野外であること。男に触れられた経験が浅いこと。この二点が、彼女を強く昂らせているのだろう。
恐怖心を抱かせぬよう、触れるか、触れないかの優しいタッチで、指先を這わせた。
二人はただゆっくりと、お互いの体温の中に落ちていった。お互いの欲望が、一定のリズムとなって各々の身体を包み込む。ずっと抑えてきた二人の想いが、今まさに開放され浸透していった。
激しく彼を求め続ける帆夏の姿は、普段の清楚なイメージからは及びも付かない程で。実に情熱的であると同時に何処か捨て鉢でもあり、まるで、肉体関係を持つことに拘り、焦っているようにすら感じられた。
何故だ? ──と彼は自問する。
自問の答えは、わりと早くに見つかった。
帆夏は理解しているんだ。自分たちが、まもなく会えなくなる可能性。それが決して可能性などではなく、近い将来現実になるであろうことを。そして俺が、執行猶予付きの人間であること。それに伴う未来への不安。障害の大きさ。互いに降りかかるであろう不利益。
だからこそ彼女は、短い期間で関係を深めようと焦り、躍起になっているんだろう。そう、結論づけた。
『そして俺たちは、恋人同士になった』そう書かれていた日記の一文を消すと、『二人で愛を確かめ合った』こう、修正した。
なんとなくだが、恋人という表現を使うことに躊躇いを感じていた。
翌朝、逢坂部は鏡の前に立つと、寝癖のついた髪の毛を整え、白いロング丈のティーシャツと紺色のテーパードアンクルパンツに着替えた。思うとこれ以外に、まともな服を持って来ていないな、と内心自嘲しながら。
階段を下りて民宿の玄関口に辿り着くと、既に帆夏は備え付けのソファに座り待っていた。
「おはようございます」
いつもと同じ、何気ない挨拶。けれども彼女は、頬を桜色に染めて俯いた。
昨日の大胆な行為を思い出して、羞恥しているのかもしれない。一晩経って冷静になると、自身の言動がとたんに恥ずかしくなるものだ。そう解釈した逢坂部は、努めて自然な挨拶を返すよう心掛けた。
「おはよう。じゃあ早速、出かけようか」
二人は指を絡めて民宿を出ると、ヘルメットを被りスクーターバイクに跨った。今日の彼女の服装は、フリルのついたオレンジ色のブラウスに、黒のホットパンツ。バイクでの移動を考慮して、動きやすい服装を選んだのかもしれない。
「これは、デートのお誘いですよ」と前置きをした上で彼女が語った提案。『青の洞窟』を見に行こうと昨晩約束をしていたのだ。
バイクを走らせると、背中から抱き着いている彼女の胸が背中に触れる。先日よりも躊躇いのなくなった身の寄せ方は、より強く胸の膨らみを感じさせた。
時刻は八時。「早すぎるんじゃないのか?」と彼は不安を述べるが、「営業は八時半からなので、大丈夫ですよ。それと、朝の方が綺麗に見えるんです」と即座に返される。
距離はさほど遠くなかった。たいして時間も掛からずに、マリンハウスに到着する。この場所で手続きをした上で、ざっぱ船に乗って海に出るのだ。
ざっぱ船とは、漁師が磯場での漁に使う小型の船のこと。この船で、浄土ヶ浜周辺の絶景スポットと、「青の洞窟」として知られる八戸穴の内部を巡る約二十分の遊覧ツアーに参加するのだ。
先客は二組のみ、待ち続けること四十~五十分程で、二人の順番が回ってくる。
この日は快晴で風もなく、申し分ない条件。期待に胸を膨らませながら、準備を整えていく。ライフジャケットとヘルメットを装着して船に乗り込むと、いよいよ出発だ。
「洞窟に入るなら、できるだけ午前中の早い時間の方が、美しい色の景観が見られる可能性が高いんです」と船を操る男性が説明をしてくれる。
季節や時間帯、水の透明度、光などさまざまな条件で水の色が変わるため、毎日違った表情を見られるのが『青の洞窟』の醍醐味なのだという。
一方で帆夏は、「だから言ったでしょ?」と言わんばかりに胸を張ってみせる。そんな仕草が可愛くて、思わず笑みが零れた。
青の洞窟に入る前に浄土ヶ浜周辺の名所をめぐる。桟橋から出航してすぐ見えてきたのは『日出島(ひでじま)』だ。観光用ポスターでしばしば使われる風景。そこから、左手にある浄土ヶ浜へと周っていく。
続いて『賽の河原』が見えてくる。「白い浜を浄土に見立て、外海を地獄に見立てて名づけられたと言われてるんです」と帆夏が説明を加える。
「二日目にこの場所は見たよ。上にある子安地蔵と一緒に」と言うと、「何時の間に」と彼女は口を尖らせた。
日射しを照り返して幻想的に輝く水面。海を渡る心地よい風に顔を向け、遠く聞こえるウミネコの鳴き声に、暫し耳を傾ける。
浄土ヶ浜周辺を一巡りした後、ついに青の洞窟へと船は入っていった。
「別名『八戸穴』と呼ばれるこの洞窟は、昔、青森県の八戸まで続いている穴だと言われていたんですわ」
船を操る男性の説明に「そうなの?」と逢坂部が首を傾げると、帆夏は口元を手で覆い、笑いながら言った。
「そんな訳ないでしょ、あくまでも言い伝えですよ」
白い岩肌に覆われた洞窟の中を暫く進んだ後、帆夏は振り返ると背後を指差した。
「見てください」
釣られて振り返った逢坂部は、驚きで目を丸くした。
――視界の全てが、青い。
朝凪の穏やかな水面は、洞窟の入り口から入り込んでくる日射しを反射して煌めき、透明度の高い水は光を海中にも反射させ、深い青色に染まっていた。なるほど、青の洞窟とはよく言ったものだ。思わず感嘆の声が漏れる。
「水の色は様々な自然条件によって変化するんです。冬場から春先の水温が低い時期は、プランクトンが少なくなって透明度が高くなるので、光を通しやすいことからマリンブルーに見えます。反面、水温が高くなってプランクトンが増殖すると、今度はエメラルドグリーンへとその表情を変えていくんですよ。来るたびに水の色が違うので、何度も来る価値があると思います」
淡々と説明を加えた後、「まあ、私も今日が二度目ですけどね」と彼女は舌を出した。
「でも、今は夏だから水温も高いのに、どうしてこんなに青く見えるんだい?」
すると彼女はふふんと鼻を鳴らす。「洞窟は東向きに開いているので、朝日が射し込むと、海の青さが上方の岩に反射するんですよ。ほら、見てください。洞窟全体が青く輝いているように見えるでしょう? だから早朝の方が良いんですよ」
「説明も実に分かり易い。君は、バスガイドにでもなれば良いんじゃないかな」
逢坂部はそう言った。
特に深い意味は無かった。浄土ヶ浜の情報に精通している彼女に感心し、単純に賛辞を述べたつもりだった。しかし彼女は、なんとも形容し難い複雑な表情を浮かべた。
「私は、よくわかりません。将来の夢とか今は無いんですよ」
「どうして――」と彼は訊ねる。端的に言って、彼女の表情が突然曇った理由が分からなかった。
「俺も二十五歳にして未来が無いとか言うのも憚られるが、実際に、そう塞ぎこんでしまうだけの背景がある。だが君は違う。まだ十九歳だ。まだ大学生だ。ハッキリいって容姿も良いし、性格だって申し分ない。努力を惜しまなければ良い職に就けるだろうし、良い結婚相手だって見つかるだろう?」
それが自分だ――とは言えない現状が、もの悲しくも思える。
「そうですね……そうだと良いですね。ねえ、逢坂部さん」
「なんだい――」
「私のこと、幸せにして下さいね。私の将来の夢って、お嫁さんになることなんです。なんだか小学生みたいで可笑しいでしょ? でも……こんな、ささやかな夢くらいだったら、きっと叶いますよね?」
笑いながら告げた彼女の瞳は、だが、僅かに潤んでいるように見えた。儚げな表情に、ぐっと切ない気持ちがこみ上げる。そうさ、俺が彼女を幸せにしてやれば良いじゃないか。本当に出来るのか? 何年掛かるのか? もちろん不安はあるけれど、何時かそんな日も来るだろう。
晴れることのない帆夏の顔を見ているのが辛くなると、反射的に彼女の頭を抱き寄せた。彼女は逢坂部の胸に顔を埋めるようにして、ただ静かに涙を流した。
ざっぱ船が洞窟を出ると、帆夏は気を取り直したように大きな声を出した。
「ほら、ウミネコが寄ってきたよ。早く早く! 餌あげようよ!」
船頭の男性から餌を受け取ると、えいっと言いながら彼女は海面に餌をばら撒く。ウミネコはそれを上手にキャッチしたり、落ちて水面を漂う餌を、啄んだりしていた。
彼女は意識的に話題をすり替え、声のトーンをあげたように思えた。つまり、これ以上将来の話について語りたくない、と予防線を張っている。
なぜだろう? と逢坂部は首を傾げた。
だが結局答えは見つからないまま、彼は思考を打ち切った。今になって思うと、この時もう少し深く考えを巡らしていけば、帆夏が隠し続けていた真実に気付けたのかもしれない。もっとも気付いたところで、俺に何か出来たのかというと、なんとも微妙なところではあるが……。
来た時のルートを逆に通って発着所に戻る。約二十分にわたるアクティビティは、こうして終了した。
ざっぱ船を下りてライフジャケットを脱ぐ頃には、彼女の顔にもすっかり笑顔が戻っていた。次は何処に行きましょうか? と明るい声を出して、逢坂部の手をしっかり引いて歩き出す。だがそんな彼女の笑顔は、どこかぎこちなくも見える。憂いを湛えた瞳、無理に上げられた口角。
実際、無理をしているんだろう、と逢坂部は思った。
それでも、努めて明るい声を出し、天真爛漫に振る舞って見せるこの少女に、俺は何度救われてきたことか。旅の目的地として宮古市を選択したのは、今にしてみると本当に正解だったな、と彼は思う。
当初、海が綺麗な場所ならどこでも構わない、なんて考えていたのがまるで嘘のよう。
恋人繋ぎをして、二人並んで日射しの強い砂浜を歩いた。背中が汗ばんでいる事を指摘すると、帆夏が恥ずかしそうに笑う。岩場のある場所に差し掛かると、カニが岩陰に隠れるのが見えた。帆夏は近くに落ちていた木の枝を拾ってくると、岩の隙間をしきりに突いていたが、やがて諦めたのか木の枝を放り投げる。
簡単には取れないよ、と逢坂部は笑った。
賽の河原に一人で行った話を、以前彼女が不服そうに聞いていたので、今度は二人で向かってみる。手近な石を拾って、彼女に手を差し伸べ転ばないように、と注意を促しながら坂道を登っていく。やがて子安地蔵の前に辿り着くと、二人で手を合わせ祈りを捧げた。
風がとても強くなっていた。彼女は髪の毛を片手で抑えると、少しだけ顔を背ける。
「何をお願いしたの?」と尋ねてみると、彼女は「自分の健康」と答えた。「随分また正直な願い事なんだな」と声を出して笑うと、帆夏は膨らませて拗ねていた。
レストハウスで昼食を済ませてから、展望台に登ってみる。青の洞窟ではマリンブルーに染まっていた海だったが、高台から一望すると、今度は鮮やかなエメラルドグリーンに変化して見えた。
逢坂部は今更のように、カメラを持ってくるのを忘れてたな、と後悔した。
本当に楽しい一日だった。陽が傾いて水面が茜色に染まる頃合いに帰途に着く。帰りも再び、スクーターバイクの二人乗りで民宿を目指した。バイクに跨る二人の影が、砂利道の上に長く伸びていた。
民宿の脇にある駐車場にバイクを停め、二人で民宿の入り口を目指し歩いて行くと、一組の家族連れの姿が目に留まった。
どうやら、新たな宿泊客のようだ。
三十代前半くらいの身なりの良い男性と、その手に引かれた三歳くらいの女の子。妻だと思われる女性は二十代半ば程だろうか。白いブラウスを着てロングスカートを履いている。艶のある長い髪が印象的だ。
二人の足音に気が付いたのだろう、若い女性が振り向いた。それが、よく見知った顔であることに、逢坂部の顔が驚きの色に染まっていく。頭で考えるよりも先に、言葉が口をついて出た。
「……君は?」
「あれ?」
女性の方も、驚いたように目を見開いた。一度空を見上げると、暫くの間記憶の糸を手繰るように沈黙してから、こう言った。
「もしかして……、賢悟君?」
「ああ。久しぶりだね、美奈子」
それは、盛岡市で遭遇した時以来となる、高崎美奈子との再会だった。
月の綺麗な夜だった。窓からは控えめに月明りが射し込み、外からはコオロギの鳴き声が聞こえていた。
浜辺で帆夏と交わした初めてのキス。そのまま何度も唇を重ね、二人の気持ちは次第に昂ぶっていく。やがて人目のない岩陰に場所を変えると、二人だけの逢瀬を楽しんだ。
お互いにしっかりと、強く、長く抱き合った。耳たぶを指で弄びながら唇を重ねると、僅かに開いた彼女の口元から、舌が差し出されてくる。二人の舌が絡み合うたびに響く、淫らな水音。
鎖骨をなぞるようにキスを落とすと、帆夏はくすぐったさを堪えるように身を捩った。一旦、抱きしめている腕を解くと、水着の上からそっと胸の膨らみに触れてみる。
しっかりと手のひらを押し戻してくる張りと弾力に、逢坂部の気持ちもどんどん高まる。肝心なところには触れず、焦らすように両の手のひらで軽く包み込んだ。すると帆夏は、恥ずかしくないから平気ですよ、と頬を染め耳元で囁くと、彼の一方の手を取りお腹の周辺まで誘った。
思いもよらぬ大胆な要求に彼は驚いたが、帆夏に導かれるまま指先を滑らせていく。彼女の表情と、声音の変化を確かめながら。
次第に、帆夏の吐く息が、浅く短くなっていく。
帆夏は頬から耳たぶまでを真っ赤に染め、声が漏れないよう左手で口元を覆い隠した。場所が人に見られるかもしれない野外であること。男に触れられた経験が浅いこと。この二点が、彼女を強く昂らせているのだろう。
恐怖心を抱かせぬよう、触れるか、触れないかの優しいタッチで、指先を這わせた。
二人はただゆっくりと、お互いの体温の中に落ちていった。お互いの欲望が、一定のリズムとなって各々の身体を包み込む。ずっと抑えてきた二人の想いが、今まさに開放され浸透していった。
激しく彼を求め続ける帆夏の姿は、普段の清楚なイメージからは及びも付かない程で。実に情熱的であると同時に何処か捨て鉢でもあり、まるで、肉体関係を持つことに拘り、焦っているようにすら感じられた。
何故だ? ──と彼は自問する。
自問の答えは、わりと早くに見つかった。
帆夏は理解しているんだ。自分たちが、まもなく会えなくなる可能性。それが決して可能性などではなく、近い将来現実になるであろうことを。そして俺が、執行猶予付きの人間であること。それに伴う未来への不安。障害の大きさ。互いに降りかかるであろう不利益。
だからこそ彼女は、短い期間で関係を深めようと焦り、躍起になっているんだろう。そう、結論づけた。
『そして俺たちは、恋人同士になった』そう書かれていた日記の一文を消すと、『二人で愛を確かめ合った』こう、修正した。
なんとなくだが、恋人という表現を使うことに躊躇いを感じていた。
翌朝、逢坂部は鏡の前に立つと、寝癖のついた髪の毛を整え、白いロング丈のティーシャツと紺色のテーパードアンクルパンツに着替えた。思うとこれ以外に、まともな服を持って来ていないな、と内心自嘲しながら。
階段を下りて民宿の玄関口に辿り着くと、既に帆夏は備え付けのソファに座り待っていた。
「おはようございます」
いつもと同じ、何気ない挨拶。けれども彼女は、頬を桜色に染めて俯いた。
昨日の大胆な行為を思い出して、羞恥しているのかもしれない。一晩経って冷静になると、自身の言動がとたんに恥ずかしくなるものだ。そう解釈した逢坂部は、努めて自然な挨拶を返すよう心掛けた。
「おはよう。じゃあ早速、出かけようか」
二人は指を絡めて民宿を出ると、ヘルメットを被りスクーターバイクに跨った。今日の彼女の服装は、フリルのついたオレンジ色のブラウスに、黒のホットパンツ。バイクでの移動を考慮して、動きやすい服装を選んだのかもしれない。
「これは、デートのお誘いですよ」と前置きをした上で彼女が語った提案。『青の洞窟』を見に行こうと昨晩約束をしていたのだ。
バイクを走らせると、背中から抱き着いている彼女の胸が背中に触れる。先日よりも躊躇いのなくなった身の寄せ方は、より強く胸の膨らみを感じさせた。
時刻は八時。「早すぎるんじゃないのか?」と彼は不安を述べるが、「営業は八時半からなので、大丈夫ですよ。それと、朝の方が綺麗に見えるんです」と即座に返される。
距離はさほど遠くなかった。たいして時間も掛からずに、マリンハウスに到着する。この場所で手続きをした上で、ざっぱ船に乗って海に出るのだ。
ざっぱ船とは、漁師が磯場での漁に使う小型の船のこと。この船で、浄土ヶ浜周辺の絶景スポットと、「青の洞窟」として知られる八戸穴の内部を巡る約二十分の遊覧ツアーに参加するのだ。
先客は二組のみ、待ち続けること四十~五十分程で、二人の順番が回ってくる。
この日は快晴で風もなく、申し分ない条件。期待に胸を膨らませながら、準備を整えていく。ライフジャケットとヘルメットを装着して船に乗り込むと、いよいよ出発だ。
「洞窟に入るなら、できるだけ午前中の早い時間の方が、美しい色の景観が見られる可能性が高いんです」と船を操る男性が説明をしてくれる。
季節や時間帯、水の透明度、光などさまざまな条件で水の色が変わるため、毎日違った表情を見られるのが『青の洞窟』の醍醐味なのだという。
一方で帆夏は、「だから言ったでしょ?」と言わんばかりに胸を張ってみせる。そんな仕草が可愛くて、思わず笑みが零れた。
青の洞窟に入る前に浄土ヶ浜周辺の名所をめぐる。桟橋から出航してすぐ見えてきたのは『日出島(ひでじま)』だ。観光用ポスターでしばしば使われる風景。そこから、左手にある浄土ヶ浜へと周っていく。
続いて『賽の河原』が見えてくる。「白い浜を浄土に見立て、外海を地獄に見立てて名づけられたと言われてるんです」と帆夏が説明を加える。
「二日目にこの場所は見たよ。上にある子安地蔵と一緒に」と言うと、「何時の間に」と彼女は口を尖らせた。
日射しを照り返して幻想的に輝く水面。海を渡る心地よい風に顔を向け、遠く聞こえるウミネコの鳴き声に、暫し耳を傾ける。
浄土ヶ浜周辺を一巡りした後、ついに青の洞窟へと船は入っていった。
「別名『八戸穴』と呼ばれるこの洞窟は、昔、青森県の八戸まで続いている穴だと言われていたんですわ」
船を操る男性の説明に「そうなの?」と逢坂部が首を傾げると、帆夏は口元を手で覆い、笑いながら言った。
「そんな訳ないでしょ、あくまでも言い伝えですよ」
白い岩肌に覆われた洞窟の中を暫く進んだ後、帆夏は振り返ると背後を指差した。
「見てください」
釣られて振り返った逢坂部は、驚きで目を丸くした。
――視界の全てが、青い。
朝凪の穏やかな水面は、洞窟の入り口から入り込んでくる日射しを反射して煌めき、透明度の高い水は光を海中にも反射させ、深い青色に染まっていた。なるほど、青の洞窟とはよく言ったものだ。思わず感嘆の声が漏れる。
「水の色は様々な自然条件によって変化するんです。冬場から春先の水温が低い時期は、プランクトンが少なくなって透明度が高くなるので、光を通しやすいことからマリンブルーに見えます。反面、水温が高くなってプランクトンが増殖すると、今度はエメラルドグリーンへとその表情を変えていくんですよ。来るたびに水の色が違うので、何度も来る価値があると思います」
淡々と説明を加えた後、「まあ、私も今日が二度目ですけどね」と彼女は舌を出した。
「でも、今は夏だから水温も高いのに、どうしてこんなに青く見えるんだい?」
すると彼女はふふんと鼻を鳴らす。「洞窟は東向きに開いているので、朝日が射し込むと、海の青さが上方の岩に反射するんですよ。ほら、見てください。洞窟全体が青く輝いているように見えるでしょう? だから早朝の方が良いんですよ」
「説明も実に分かり易い。君は、バスガイドにでもなれば良いんじゃないかな」
逢坂部はそう言った。
特に深い意味は無かった。浄土ヶ浜の情報に精通している彼女に感心し、単純に賛辞を述べたつもりだった。しかし彼女は、なんとも形容し難い複雑な表情を浮かべた。
「私は、よくわかりません。将来の夢とか今は無いんですよ」
「どうして――」と彼は訊ねる。端的に言って、彼女の表情が突然曇った理由が分からなかった。
「俺も二十五歳にして未来が無いとか言うのも憚られるが、実際に、そう塞ぎこんでしまうだけの背景がある。だが君は違う。まだ十九歳だ。まだ大学生だ。ハッキリいって容姿も良いし、性格だって申し分ない。努力を惜しまなければ良い職に就けるだろうし、良い結婚相手だって見つかるだろう?」
それが自分だ――とは言えない現状が、もの悲しくも思える。
「そうですね……そうだと良いですね。ねえ、逢坂部さん」
「なんだい――」
「私のこと、幸せにして下さいね。私の将来の夢って、お嫁さんになることなんです。なんだか小学生みたいで可笑しいでしょ? でも……こんな、ささやかな夢くらいだったら、きっと叶いますよね?」
笑いながら告げた彼女の瞳は、だが、僅かに潤んでいるように見えた。儚げな表情に、ぐっと切ない気持ちがこみ上げる。そうさ、俺が彼女を幸せにしてやれば良いじゃないか。本当に出来るのか? 何年掛かるのか? もちろん不安はあるけれど、何時かそんな日も来るだろう。
晴れることのない帆夏の顔を見ているのが辛くなると、反射的に彼女の頭を抱き寄せた。彼女は逢坂部の胸に顔を埋めるようにして、ただ静かに涙を流した。
ざっぱ船が洞窟を出ると、帆夏は気を取り直したように大きな声を出した。
「ほら、ウミネコが寄ってきたよ。早く早く! 餌あげようよ!」
船頭の男性から餌を受け取ると、えいっと言いながら彼女は海面に餌をばら撒く。ウミネコはそれを上手にキャッチしたり、落ちて水面を漂う餌を、啄んだりしていた。
彼女は意識的に話題をすり替え、声のトーンをあげたように思えた。つまり、これ以上将来の話について語りたくない、と予防線を張っている。
なぜだろう? と逢坂部は首を傾げた。
だが結局答えは見つからないまま、彼は思考を打ち切った。今になって思うと、この時もう少し深く考えを巡らしていけば、帆夏が隠し続けていた真実に気付けたのかもしれない。もっとも気付いたところで、俺に何か出来たのかというと、なんとも微妙なところではあるが……。
来た時のルートを逆に通って発着所に戻る。約二十分にわたるアクティビティは、こうして終了した。
ざっぱ船を下りてライフジャケットを脱ぐ頃には、彼女の顔にもすっかり笑顔が戻っていた。次は何処に行きましょうか? と明るい声を出して、逢坂部の手をしっかり引いて歩き出す。だがそんな彼女の笑顔は、どこかぎこちなくも見える。憂いを湛えた瞳、無理に上げられた口角。
実際、無理をしているんだろう、と逢坂部は思った。
それでも、努めて明るい声を出し、天真爛漫に振る舞って見せるこの少女に、俺は何度救われてきたことか。旅の目的地として宮古市を選択したのは、今にしてみると本当に正解だったな、と彼は思う。
当初、海が綺麗な場所ならどこでも構わない、なんて考えていたのがまるで嘘のよう。
恋人繋ぎをして、二人並んで日射しの強い砂浜を歩いた。背中が汗ばんでいる事を指摘すると、帆夏が恥ずかしそうに笑う。岩場のある場所に差し掛かると、カニが岩陰に隠れるのが見えた。帆夏は近くに落ちていた木の枝を拾ってくると、岩の隙間をしきりに突いていたが、やがて諦めたのか木の枝を放り投げる。
簡単には取れないよ、と逢坂部は笑った。
賽の河原に一人で行った話を、以前彼女が不服そうに聞いていたので、今度は二人で向かってみる。手近な石を拾って、彼女に手を差し伸べ転ばないように、と注意を促しながら坂道を登っていく。やがて子安地蔵の前に辿り着くと、二人で手を合わせ祈りを捧げた。
風がとても強くなっていた。彼女は髪の毛を片手で抑えると、少しだけ顔を背ける。
「何をお願いしたの?」と尋ねてみると、彼女は「自分の健康」と答えた。「随分また正直な願い事なんだな」と声を出して笑うと、帆夏は膨らませて拗ねていた。
レストハウスで昼食を済ませてから、展望台に登ってみる。青の洞窟ではマリンブルーに染まっていた海だったが、高台から一望すると、今度は鮮やかなエメラルドグリーンに変化して見えた。
逢坂部は今更のように、カメラを持ってくるのを忘れてたな、と後悔した。
本当に楽しい一日だった。陽が傾いて水面が茜色に染まる頃合いに帰途に着く。帰りも再び、スクーターバイクの二人乗りで民宿を目指した。バイクに跨る二人の影が、砂利道の上に長く伸びていた。
民宿の脇にある駐車場にバイクを停め、二人で民宿の入り口を目指し歩いて行くと、一組の家族連れの姿が目に留まった。
どうやら、新たな宿泊客のようだ。
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二人の足音に気が付いたのだろう、若い女性が振り向いた。それが、よく見知った顔であることに、逢坂部の顔が驚きの色に染まっていく。頭で考えるよりも先に、言葉が口をついて出た。
「……君は?」
「あれ?」
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言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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